落合順平 作品集

現代小説の部屋。

居酒屋日記・オムニバス (82)        第七話  産科医の憂鬱 ②

2016-06-01 09:03:45 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (82) 
      第七話  産科医の憂鬱 ②






 「最先端医学の時代だぞ。その程度で、とても病気が治るとは思えねぇ。
 ガセじゃねぇのか、その話は全部」


 「疑うな。論より証拠。
 俺の、10年来の腰痛が改善したんだ。
 俺も最初は半信半疑だった。
 だが、こうして痛みが消えたことがなによりの証拠だ。
 嘘だと思うのなら、ゴッドハンド治療院へ行ってみたらいいだろう。
 自分の身体で確認してみることが、いちばんだ」



 「残念だ。俺にはどこにも痛いところがねぇ。
 それよりよ、さっき出てきた、コウクツの話だ。
 なんで膝を回すだけでコウクツが治り、嫁が妊娠することが出来たんだ?」



 俺には痛いところが無いと言い切った常連が一転して、真剣な表情をみせる。
「ホントかよ、その話は?」と男に詰め寄っていく。
この常連客は結婚している。
今年でまる4年目になるが、いまだに子宝に恵まれていない。
実は子どもが大好きな男で、野球チームが出来るくらい男の子が欲しいと言っている。
だが4年が経過しても、待望の子どもは産まれてこない。
最近は本気で、不妊治療の導入を考えている。



 「子宮は頚の部分で、前後どちらかに曲がっている。
 前(お腹)へ曲がっているものを前屈。
 後ろ(背中)へ曲がっているものを後屈と言い、割合は9:1くらいだな」



 頭の白い男が、横から口を出す。
白髪がやたらに目立つが、この男も幸作と同じ、42歳になったばかりだ。
父親が経営している町の産院を継ぐため、最近、首都圏の病院から戻って来た。



 「昔は不妊や流産の原因と言われ、後屈を前屈にする矯正手術が行われてきた。
 だが関連性が否定され、いまでは手術はしていない。
 子宮が曲がっている方向により、子宮の入り口の向きは変わる。
 そうなると、子宮口と膣壁の接触点が違ってくる。
 もっとも妊娠しやすい体位は、正常位。
 射精した後。女性が仰向けに寝ていることが多い。
 仰向けに寝た状態で精液が子宮口に接触できるのは、前屈の場合だけだ。
 後屈の場合、精子が子宮へ入っていけない。
 コウクツの場合は、うつ伏せに寝ると、精液が子宮口に接触しやすくなる。
 行為後。10~15分のあいだ、うつぶせに寝ると妊娠しやすくなる。
 お助けじいさんは、たぶんそのことを、旦那に教えたんだろう」




 「なんだよ。ネタがバレると、ごく普通の話じゃねぇか。
 どこがゴッドハンドだ。
 なにが神の手だ。何処にでもあるような、当たり前の治療院じゃねぇか!」


 
 「まぁまぁ。そういうな。
 信じる者は救われるということで、この話は終わりにしよう」



 産科医が仲裁に入ったことで、ゴッドハンド治療院の話が終息した。
仲裁に入った産科医は、いまでも独身。
産院を営む父親はすでに、75歳をこえている。
日々の仕事に支障が出始めたということで、母親がひとり息子を呼び戻した。



 いまの時代。産科医は年々、減少の道をたどっている。
産科医が不足する主な原因は長時間の連続勤務や、一人当たりの過重負担などの
過酷過ぎる勤務形態にある。
24時間体制が必要な産婦人科は、当直明けの診療などは当たり前のこととされている。



 そのうえ。常勤医の4割を女性医師が占めている。
そのうち20~30歳代が、全体の6割を超えている。
女性医師のおよそ半数が、妊娠中、もしくは小学生以下の子どもを抱えている。
当直免除や、出産の担当などから外れることが多いため、他の医師への
負担を重くしている。



 もうひとつ。「訴訟リスク」が有る。
産科医は、医師一人当たりの提訴件数の割合が、格段に多い。
それらが精神的、経済的な負担となり、産科医の減少傾向に拍車をかけている。




 「福島県立の大野病院で、無実の産科医が逮捕されたという事件のことを
 知ってるかい?」


 42歳の産科医が幸作に向かって、ぼそりと語りかける。

 
(83)へつづく


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