落合順平 作品集

現代小説の部屋。

居酒屋日記・オムニバス (87)        第七話  産科医の憂鬱 ⑦

2016-06-15 08:17:40 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (87) 
      第七話  産科医の憂鬱 ⑦



 「妊娠中一度も診断を受けず、いきなり赤ん坊を産むのか・・・
 驚いたねぇ。いまの時代に居るのかい、そんな無茶をする妊婦さんが」


 「妊娠の確認以外、医師にも助産師にも頼らず、定期的な妊婦検診を一度も受けず、
 自宅で出産するという例は、すくなからず有る。
 だが飛び込む出産は、それとは少し異なる。
 高校生が妊娠して親にも言えず、隠したまま出産するという例も有る。
 だが今回の件は、それとはまったく別だ。
 いい歳をした、れっきとした夫婦の話だ」



 「いい歳をした、れっきとした夫婦?。なんだ、それ?」



 「午後のことだ。いきなり、大きなお腹の妊婦がやって来た。
 母子手帳を持っていない。
 まったく記録が無いから、予定日がいつなのかわからない。
 早産の可能性も有るし、検査していないので、異常妊娠の可能性も有る。
 情報がまったくないということは、出産もとうぜん手さぐりになる」



 「まったくの手探り状態で、飛び込みの妊婦を出産させるのか。
 楽じゃないねぇ、産科医の先生も」



 「エコーで、とりあえず、お腹の様子をざっと見た。
 赤ちゃんは元気そうだ。
 胎盤とその他も確認して、羊水がちょっと多いかなという印象を受けた。
 赤ちゃんの推定体重は、3000gくらい。
 ところが、妊婦の血圧を測ってみておどろいた。
 なんと、200を越えている。
 腹や顔が異常にむくんでいるはずだ。
 足なんかまるで象さんのようだった。見るからに、パンパンに腫れていた」



 「血圧が高いせいで、全身がむくんでいた・・・
 よっぽど大変な状態になっていたんだな、突然やって来た、その妊婦は」


 
 「どうして病院に来なかったの?と聞くと、へへっと笑って誤魔化した。
 9ヶ月近くも生理がなかったわけだし、胎動も感じていたわけだから、
 本人が知らないはずがない。
 どうして今日、病院に来たの?と聞くと、何となくとぶっきら棒に答える。
 思うに、きっともう、身体が限界になっていたんだろうな」


 「妊婦も妊婦だ。だが、そこまで放っておいた旦那も旦那だな・・・
 呆れたもんだ。
 そんなのは、いい歳をした大人のすることじゃねぇ!」



 「奥さんの妊娠のことを知ってたんですか?と、旦那さんに聞いてみた。
 そしたら、まったく知りませんでしたと、平然と口にする。
 それだけじゃない。
 たぶん俺の子じゃないし、と口を尖らせる。
 俺ももうそこから先は、会話をつづける気になれなかった。
 呆れてものが、まったく言えなかった・・・」



 「それじゃ、生まれてくる赤ん坊が可哀想すぎる。
 いや、その前に、そういう患者を断れない産婦人科の先生はもっと大変だ。
 断ることが出来ないんだろう、こういう場合でも・・・」


 「断るわけにはいかない。
 危機に瀕している母親と、赤ん坊の両方を助けなきゃならないからね。
 それが産科医の仕事だ。
 結局。帝王切開で出産することになった。
 さいわいなことに手術後、娘の母親が急を聞いて駆けつけてきた。
 ひととおり事情を説明したら、「たいへん、ご迷惑をおかけしました」
 とすべて納得してくれた。
 話の通じる人間が出てきてくれて、俺も、やっとホッとした」



 「いろいろ問題が有るのか、飛び込み出産てやつは?」


 「費用を踏み倒して、病院から行方をくらます妊婦も居る。
 ひどいときは生まれたばかりの赤ん坊を残して、姿を隠すことも有る」



 「親としての自覚が無いのかよ・・・飛び込みで出産するような連中は・・・」

 
 「まぁ・・・生きていれば、それぞれの事情がある。
 祝福されて産まれ来る命ばかりではない、というのもまた事実だ。
 やりきれないことだが人が生きている限り、理不尽な事態はどこでも起こる。
 それに・・・」



 それにと産科医が言いかけた瞬間、表のガラス戸に、チラリと人影が揺れた。
時刻は深夜の1時を回ろうとしている。
「なんだ。こんな時間に一体誰だ?」不審顔で振りかえる幸作の目に、
想いがけない人物が、ガラス戸からヒョイと顔を出した。
 

(88)へつづく


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