居酒屋日記・オムニバス (87)
第七話 産科医の憂鬱 ⑦
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/95/526d6e58fa2b5bc2df80f720009ddf53.jpg)
「妊娠中一度も診断を受けず、いきなり赤ん坊を産むのか・・・
驚いたねぇ。いまの時代に居るのかい、そんな無茶をする妊婦さんが」
「妊娠の確認以外、医師にも助産師にも頼らず、定期的な妊婦検診を一度も受けず、
自宅で出産するという例は、すくなからず有る。
だが飛び込む出産は、それとは少し異なる。
高校生が妊娠して親にも言えず、隠したまま出産するという例も有る。
だが今回の件は、それとはまったく別だ。
いい歳をした、れっきとした夫婦の話だ」
「いい歳をした、れっきとした夫婦?。なんだ、それ?」
「午後のことだ。いきなり、大きなお腹の妊婦がやって来た。
母子手帳を持っていない。
まったく記録が無いから、予定日がいつなのかわからない。
早産の可能性も有るし、検査していないので、異常妊娠の可能性も有る。
情報がまったくないということは、出産もとうぜん手さぐりになる」
「まったくの手探り状態で、飛び込みの妊婦を出産させるのか。
楽じゃないねぇ、産科医の先生も」
「エコーで、とりあえず、お腹の様子をざっと見た。
赤ちゃんは元気そうだ。
胎盤とその他も確認して、羊水がちょっと多いかなという印象を受けた。
赤ちゃんの推定体重は、3000gくらい。
ところが、妊婦の血圧を測ってみておどろいた。
なんと、200を越えている。
腹や顔が異常にむくんでいるはずだ。
足なんかまるで象さんのようだった。見るからに、パンパンに腫れていた」
「血圧が高いせいで、全身がむくんでいた・・・
よっぽど大変な状態になっていたんだな、突然やって来た、その妊婦は」
「どうして病院に来なかったの?と聞くと、へへっと笑って誤魔化した。
9ヶ月近くも生理がなかったわけだし、胎動も感じていたわけだから、
本人が知らないはずがない。
どうして今日、病院に来たの?と聞くと、何となくとぶっきら棒に答える。
思うに、きっともう、身体が限界になっていたんだろうな」
「妊婦も妊婦だ。だが、そこまで放っておいた旦那も旦那だな・・・
呆れたもんだ。
そんなのは、いい歳をした大人のすることじゃねぇ!」
「奥さんの妊娠のことを知ってたんですか?と、旦那さんに聞いてみた。
そしたら、まったく知りませんでしたと、平然と口にする。
それだけじゃない。
たぶん俺の子じゃないし、と口を尖らせる。
俺ももうそこから先は、会話をつづける気になれなかった。
呆れてものが、まったく言えなかった・・・」
「それじゃ、生まれてくる赤ん坊が可哀想すぎる。
いや、その前に、そういう患者を断れない産婦人科の先生はもっと大変だ。
断ることが出来ないんだろう、こういう場合でも・・・」
「断るわけにはいかない。
危機に瀕している母親と、赤ん坊の両方を助けなきゃならないからね。
それが産科医の仕事だ。
結局。帝王切開で出産することになった。
さいわいなことに手術後、娘の母親が急を聞いて駆けつけてきた。
ひととおり事情を説明したら、「たいへん、ご迷惑をおかけしました」
とすべて納得してくれた。
話の通じる人間が出てきてくれて、俺も、やっとホッとした」
「いろいろ問題が有るのか、飛び込み出産てやつは?」
「費用を踏み倒して、病院から行方をくらます妊婦も居る。
ひどいときは生まれたばかりの赤ん坊を残して、姿を隠すことも有る」
「親としての自覚が無いのかよ・・・飛び込みで出産するような連中は・・・」
「まぁ・・・生きていれば、それぞれの事情がある。
祝福されて産まれ来る命ばかりではない、というのもまた事実だ。
やりきれないことだが人が生きている限り、理不尽な事態はどこでも起こる。
それに・・・」
それにと産科医が言いかけた瞬間、表のガラス戸に、チラリと人影が揺れた。
時刻は深夜の1時を回ろうとしている。
「なんだ。こんな時間に一体誰だ?」不審顔で振りかえる幸作の目に、
想いがけない人物が、ガラス戸からヒョイと顔を出した。
(88)へつづく
新田さらだ館は、こちら
第七話 産科医の憂鬱 ⑦
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「妊娠中一度も診断を受けず、いきなり赤ん坊を産むのか・・・
驚いたねぇ。いまの時代に居るのかい、そんな無茶をする妊婦さんが」
「妊娠の確認以外、医師にも助産師にも頼らず、定期的な妊婦検診を一度も受けず、
自宅で出産するという例は、すくなからず有る。
だが飛び込む出産は、それとは少し異なる。
高校生が妊娠して親にも言えず、隠したまま出産するという例も有る。
だが今回の件は、それとはまったく別だ。
いい歳をした、れっきとした夫婦の話だ」
「いい歳をした、れっきとした夫婦?。なんだ、それ?」
「午後のことだ。いきなり、大きなお腹の妊婦がやって来た。
母子手帳を持っていない。
まったく記録が無いから、予定日がいつなのかわからない。
早産の可能性も有るし、検査していないので、異常妊娠の可能性も有る。
情報がまったくないということは、出産もとうぜん手さぐりになる」
「まったくの手探り状態で、飛び込みの妊婦を出産させるのか。
楽じゃないねぇ、産科医の先生も」
「エコーで、とりあえず、お腹の様子をざっと見た。
赤ちゃんは元気そうだ。
胎盤とその他も確認して、羊水がちょっと多いかなという印象を受けた。
赤ちゃんの推定体重は、3000gくらい。
ところが、妊婦の血圧を測ってみておどろいた。
なんと、200を越えている。
腹や顔が異常にむくんでいるはずだ。
足なんかまるで象さんのようだった。見るからに、パンパンに腫れていた」
「血圧が高いせいで、全身がむくんでいた・・・
よっぽど大変な状態になっていたんだな、突然やって来た、その妊婦は」
「どうして病院に来なかったの?と聞くと、へへっと笑って誤魔化した。
9ヶ月近くも生理がなかったわけだし、胎動も感じていたわけだから、
本人が知らないはずがない。
どうして今日、病院に来たの?と聞くと、何となくとぶっきら棒に答える。
思うに、きっともう、身体が限界になっていたんだろうな」
「妊婦も妊婦だ。だが、そこまで放っておいた旦那も旦那だな・・・
呆れたもんだ。
そんなのは、いい歳をした大人のすることじゃねぇ!」
「奥さんの妊娠のことを知ってたんですか?と、旦那さんに聞いてみた。
そしたら、まったく知りませんでしたと、平然と口にする。
それだけじゃない。
たぶん俺の子じゃないし、と口を尖らせる。
俺ももうそこから先は、会話をつづける気になれなかった。
呆れてものが、まったく言えなかった・・・」
「それじゃ、生まれてくる赤ん坊が可哀想すぎる。
いや、その前に、そういう患者を断れない産婦人科の先生はもっと大変だ。
断ることが出来ないんだろう、こういう場合でも・・・」
「断るわけにはいかない。
危機に瀕している母親と、赤ん坊の両方を助けなきゃならないからね。
それが産科医の仕事だ。
結局。帝王切開で出産することになった。
さいわいなことに手術後、娘の母親が急を聞いて駆けつけてきた。
ひととおり事情を説明したら、「たいへん、ご迷惑をおかけしました」
とすべて納得してくれた。
話の通じる人間が出てきてくれて、俺も、やっとホッとした」
「いろいろ問題が有るのか、飛び込み出産てやつは?」
「費用を踏み倒して、病院から行方をくらます妊婦も居る。
ひどいときは生まれたばかりの赤ん坊を残して、姿を隠すことも有る」
「親としての自覚が無いのかよ・・・飛び込みで出産するような連中は・・・」
「まぁ・・・生きていれば、それぞれの事情がある。
祝福されて産まれ来る命ばかりではない、というのもまた事実だ。
やりきれないことだが人が生きている限り、理不尽な事態はどこでも起こる。
それに・・・」
それにと産科医が言いかけた瞬間、表のガラス戸に、チラリと人影が揺れた。
時刻は深夜の1時を回ろうとしている。
「なんだ。こんな時間に一体誰だ?」不審顔で振りかえる幸作の目に、
想いがけない人物が、ガラス戸からヒョイと顔を出した。
(88)へつづく
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