居酒屋日記・オムニバス (95)
第七話 産科医の憂鬱 ⑮

「あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵・・・」
智恵子が、高村光太郎の詩を朗読している。
幸作の車が大内宿まで、もう少しという地点にさしかかっている。
「高速道路を使うのはもったいない。いまごろは緑がいっぱいの会津西街道を走って、
江戸の風景が残っている、大内宿へ寄りたいな」と智恵子が言い出した。
会津城下と、栃木県の日光市をむすんでいる会津西街道は、
32里余りにわたる(130㎞)山間の道。
関東側からは、下野街道(しもつけかいどう)とも呼ばれている。
大内宿は、会津城下から3番目の宿駅として整備されたもので、
ほぼ中央に本陣跡がのこっている。
参勤交代のたび、会津藩の行列600人余りがここで昼食をとったという。
通過したのは、会津藩だけでない。
奥羽の新発田藩や村上藩、庄内藩や米沢藩などの諸大名も、ここを通り
関東平野を南下して、江戸へ向った。
1683年。日光地方を襲った地震で、山が崩れ、通行が不能になった。
1723年、ようやく地震から復旧するが、代替えとして整備された中街道に、
おおくの通行人を奪われてしまう。
それを境に、大内宿の繁栄の歴史が途絶えていく。
時代の流れから取り残されたまま、山間の平坦地で、今日を迎えている。
そんな大内宿に年間、100万人の観光客が訪れる。
江戸時代そのままの、茅葺き屋根が連なる宿場町の手前に町営の駐車場が有る。
ここからさきは、車で乗り込むことが出来ない。
幸作の車が、駐車場へ滑り込んでいく。
「あ・・・」降りようとした智恵子が、携帯の音にすばやく反応する。
着信音からすると、ラインのようだ。
画面を覗き込んだ瞬間、智恵子が思わず、目を細める。
「見て!)と嬉しそうに携帯を、幸作の目の前へ差し出す。
画面いっぱいに、真新しい母子手帳が写っている。
「ゆうべの先生の骨おりで、無事に、母子手帳を交付してもらったそうです。
手にした瞬間。母になる実感がこみ上げてきました、と書いてあります。
万難を排し、母になる覚悟を固めました、と宣言しています。
うふふ。よかったですねぇ、ホントウに・・・」
「万難を排しとは、ずいぶんまた若い子に似合わない、古風な表現だな。
おおかた、あの産科医の入れ知恵だろうな」
「それだけ問題が、山のように有るという意味なのでしょう。
なにはともあれ、彼女が前に向って歩き始めたのは喜ばしいことです。
今日の青空といい、彼女がやっと手にした母子手帳といい、
なんだか今日はいいことが、つぎつぎに有りそうな気がしますねぇ!」
「そうだな。
今日はなんだかいいことが、たくさん起こりそうな予感がするね」
智恵子を置いて、スタスタと歩き出す幸作をあわてて智恵子が追いかける。
智恵子の指先が、幸作の左手に伸びていく。
そのまま智恵子の右腕が、くるりと幸作の左手に巻き付いていく。
「なんだよ。恋人同士みたいな真似をして。
しょうがねぇなぁ。ここの名物の蕎麦屋の前までだぞ。
俺たちが、腕を組んで歩くのは。
そこの蕎麦屋はネギを箸の代わりにして、そばを食わせるそうだ。
店に入ったら、手を離せよ。
歳が違いすぎるからな。俺たち。
お前さんはいいが、流行りの援助交際か、不倫カップルのように見られたら、
俺が困る」
「いいじゃないの別に。減るもんじゃないし。手をつなぐくらいなら」
「大人をからかうと、そのうちに火傷する。
男に火が点くと、そのうち手をつなぐだけじゃ、すまなくなるぞ」
(うふふ。望むところです)と智恵子が、うれしそうにほほ笑む。
(96)へつづく
新田さらだ館は、こちら
第七話 産科医の憂鬱 ⑮

「あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵・・・」
智恵子が、高村光太郎の詩を朗読している。
幸作の車が大内宿まで、もう少しという地点にさしかかっている。
「高速道路を使うのはもったいない。いまごろは緑がいっぱいの会津西街道を走って、
江戸の風景が残っている、大内宿へ寄りたいな」と智恵子が言い出した。
会津城下と、栃木県の日光市をむすんでいる会津西街道は、
32里余りにわたる(130㎞)山間の道。
関東側からは、下野街道(しもつけかいどう)とも呼ばれている。
大内宿は、会津城下から3番目の宿駅として整備されたもので、
ほぼ中央に本陣跡がのこっている。
参勤交代のたび、会津藩の行列600人余りがここで昼食をとったという。
通過したのは、会津藩だけでない。
奥羽の新発田藩や村上藩、庄内藩や米沢藩などの諸大名も、ここを通り
関東平野を南下して、江戸へ向った。
1683年。日光地方を襲った地震で、山が崩れ、通行が不能になった。
1723年、ようやく地震から復旧するが、代替えとして整備された中街道に、
おおくの通行人を奪われてしまう。
それを境に、大内宿の繁栄の歴史が途絶えていく。
時代の流れから取り残されたまま、山間の平坦地で、今日を迎えている。
そんな大内宿に年間、100万人の観光客が訪れる。
江戸時代そのままの、茅葺き屋根が連なる宿場町の手前に町営の駐車場が有る。
ここからさきは、車で乗り込むことが出来ない。
幸作の車が、駐車場へ滑り込んでいく。
「あ・・・」降りようとした智恵子が、携帯の音にすばやく反応する。
着信音からすると、ラインのようだ。
画面を覗き込んだ瞬間、智恵子が思わず、目を細める。
「見て!)と嬉しそうに携帯を、幸作の目の前へ差し出す。
画面いっぱいに、真新しい母子手帳が写っている。
「ゆうべの先生の骨おりで、無事に、母子手帳を交付してもらったそうです。
手にした瞬間。母になる実感がこみ上げてきました、と書いてあります。
万難を排し、母になる覚悟を固めました、と宣言しています。
うふふ。よかったですねぇ、ホントウに・・・」
「万難を排しとは、ずいぶんまた若い子に似合わない、古風な表現だな。
おおかた、あの産科医の入れ知恵だろうな」
「それだけ問題が、山のように有るという意味なのでしょう。
なにはともあれ、彼女が前に向って歩き始めたのは喜ばしいことです。
今日の青空といい、彼女がやっと手にした母子手帳といい、
なんだか今日はいいことが、つぎつぎに有りそうな気がしますねぇ!」
「そうだな。
今日はなんだかいいことが、たくさん起こりそうな予感がするね」
智恵子を置いて、スタスタと歩き出す幸作をあわてて智恵子が追いかける。
智恵子の指先が、幸作の左手に伸びていく。
そのまま智恵子の右腕が、くるりと幸作の左手に巻き付いていく。
「なんだよ。恋人同士みたいな真似をして。
しょうがねぇなぁ。ここの名物の蕎麦屋の前までだぞ。
俺たちが、腕を組んで歩くのは。
そこの蕎麦屋はネギを箸の代わりにして、そばを食わせるそうだ。
店に入ったら、手を離せよ。
歳が違いすぎるからな。俺たち。
お前さんはいいが、流行りの援助交際か、不倫カップルのように見られたら、
俺が困る」
「いいじゃないの別に。減るもんじゃないし。手をつなぐくらいなら」
「大人をからかうと、そのうちに火傷する。
男に火が点くと、そのうち手をつなぐだけじゃ、すまなくなるぞ」
(うふふ。望むところです)と智恵子が、うれしそうにほほ笑む。
(96)へつづく
新田さらだ館は、こちら