居酒屋日記・オムニバス (84)
第七話 産科医の憂鬱 ④

「ある産婦が、福島県立大野病院で帝王切開の手術を受けた。
しかし予期しない大量出血で、妊婦が死亡した。
医師の手際が悪かったわけじゃない。
前置胎盤に癒着胎盤が合併するという、きわめて希なケースだ。
しかも産婦人科医が一人しかいないという、僻地の病院でおきた妊婦の死亡だ。
妊婦の死は、まったく不幸な出来事といえる」
「前置胎盤に加えて、癒着胎盤?
何のことだか、俺にはさっぱりわからねぇ・・・」
「解らないのも、無理はネェ。
想定されている難題の中で、もっとも最悪といえる病態だ。
前置胎盤というのは、胎盤が「変なところ」にくっついていることだ。
胎盤が、正常より低い位置にある。
子宮の出口を塞いでしまっているため、きわめて危険な状態と言える。
赤ちゃんの産道をふさいいる、危険な症状だ。
この状態の妊婦は、高確率でほぼ死ぬことになる。
もうひとつ。癒着胎盤は、胎盤が「がっちり」とくっついて剥がれないことだ。
この状態の妊婦も、ほぼ間違いなく死ぬことになる。
厄介なことにこの癒着胎盤は、事前の検査で察知することができない」
「そんな厄介な妊婦を、辺鄙な病院に勤務している産婦人科医は、
引き受けちまったということか?」
「前置胎盤であることは、事前の検査で分かっていた。
前回も前置胎盤であったことから、医師は安全のため、大学病院での出産を勧めた。
だが「大学病院は遠い、交通費もかかる」として、妊婦が拒否した。
この病態では、子宮摘出も検討しなければならない。
だが妊婦は、三人目も欲しいと言い、子宮を温存することを強く希望した。
医師は正当な事由がない限り、治療拒否してはならないとされている。
妊婦がどうしてもこの病院で産みたいと言っている以上、
大学病院へ行けとは、言えないのさ」
「断れない事情がそろっていたわけだな。
崖っぷちで、それでも頑張っていたんだ。その病院の産科医は・・・」
「地方の産科医は、みんな似たような状況の中で仕事している。
開腹後に癒着胎盤が発覚して、大出血がおこった。
帝王切開には産科医と、外科医も立ち会っていたから手術的には、
なんの問題も無かった。
だが不幸なことに、大量出血に対応するだけの血液の備蓄がなかった。
輸血用の血液は、どこの病院でも不足している。
無駄に廃棄されてしまう可能性が高い僻地の病院では、なおさらのことだ。
予備の血液が不足していた不幸も、重なった。
そのため、妊婦は助からなかった」
「赤ん坊はどうしたんだ?。助かったのか・・・」
「妊婦が亡くなったことは残念だが、前置胎盤に癒着胎盤という生存率の低い
病態の中で、赤ん坊を救えたことは評価される。
何もしないで放置すれば、母子共に確実に死亡していただろう。
この件において悪人は、ひとりもいない。
妊婦が運悪く、癒着胎盤という重病にかかっていたことが不幸だった。
日本一、あるいは世界一の名医でも救えない命はある。
評判の良い医師にかかって、最善を尽くしてもらったんだ。
だめならいさぎよく、運命を受け入れるしかないだろう」
「だがその後、この件は、刑事事件に発展した。
それはなぜだ。
悪者はいないはずなのに事件になるなんて、俺にはとても信じられない・・・」
幸作が、3本目の熱燗を産科医の前に置く。
時刻は深夜の12時を回った。しかし、産科医の話は終わりそうもない。
頬杖を突いた産科医が、熱燗の徳利を持ち上げる。
「呑むだろう、あんたも?
もう少し、俺の話に付き合ってくれ。
嫌ならそろそろ帰るが、たまには産科医の愚痴を聞いてくれてもいいだろう?」
(85)へつづく
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第七話 産科医の憂鬱 ④

「ある産婦が、福島県立大野病院で帝王切開の手術を受けた。
しかし予期しない大量出血で、妊婦が死亡した。
医師の手際が悪かったわけじゃない。
前置胎盤に癒着胎盤が合併するという、きわめて希なケースだ。
しかも産婦人科医が一人しかいないという、僻地の病院でおきた妊婦の死亡だ。
妊婦の死は、まったく不幸な出来事といえる」
「前置胎盤に加えて、癒着胎盤?
何のことだか、俺にはさっぱりわからねぇ・・・」
「解らないのも、無理はネェ。
想定されている難題の中で、もっとも最悪といえる病態だ。
前置胎盤というのは、胎盤が「変なところ」にくっついていることだ。
胎盤が、正常より低い位置にある。
子宮の出口を塞いでしまっているため、きわめて危険な状態と言える。
赤ちゃんの産道をふさいいる、危険な症状だ。
この状態の妊婦は、高確率でほぼ死ぬことになる。
もうひとつ。癒着胎盤は、胎盤が「がっちり」とくっついて剥がれないことだ。
この状態の妊婦も、ほぼ間違いなく死ぬことになる。
厄介なことにこの癒着胎盤は、事前の検査で察知することができない」
「そんな厄介な妊婦を、辺鄙な病院に勤務している産婦人科医は、
引き受けちまったということか?」
「前置胎盤であることは、事前の検査で分かっていた。
前回も前置胎盤であったことから、医師は安全のため、大学病院での出産を勧めた。
だが「大学病院は遠い、交通費もかかる」として、妊婦が拒否した。
この病態では、子宮摘出も検討しなければならない。
だが妊婦は、三人目も欲しいと言い、子宮を温存することを強く希望した。
医師は正当な事由がない限り、治療拒否してはならないとされている。
妊婦がどうしてもこの病院で産みたいと言っている以上、
大学病院へ行けとは、言えないのさ」
「断れない事情がそろっていたわけだな。
崖っぷちで、それでも頑張っていたんだ。その病院の産科医は・・・」
「地方の産科医は、みんな似たような状況の中で仕事している。
開腹後に癒着胎盤が発覚して、大出血がおこった。
帝王切開には産科医と、外科医も立ち会っていたから手術的には、
なんの問題も無かった。
だが不幸なことに、大量出血に対応するだけの血液の備蓄がなかった。
輸血用の血液は、どこの病院でも不足している。
無駄に廃棄されてしまう可能性が高い僻地の病院では、なおさらのことだ。
予備の血液が不足していた不幸も、重なった。
そのため、妊婦は助からなかった」
「赤ん坊はどうしたんだ?。助かったのか・・・」
「妊婦が亡くなったことは残念だが、前置胎盤に癒着胎盤という生存率の低い
病態の中で、赤ん坊を救えたことは評価される。
何もしないで放置すれば、母子共に確実に死亡していただろう。
この件において悪人は、ひとりもいない。
妊婦が運悪く、癒着胎盤という重病にかかっていたことが不幸だった。
日本一、あるいは世界一の名医でも救えない命はある。
評判の良い医師にかかって、最善を尽くしてもらったんだ。
だめならいさぎよく、運命を受け入れるしかないだろう」
「だがその後、この件は、刑事事件に発展した。
それはなぜだ。
悪者はいないはずなのに事件になるなんて、俺にはとても信じられない・・・」
幸作が、3本目の熱燗を産科医の前に置く。
時刻は深夜の12時を回った。しかし、産科医の話は終わりそうもない。
頬杖を突いた産科医が、熱燗の徳利を持ち上げる。
「呑むだろう、あんたも?
もう少し、俺の話に付き合ってくれ。
嫌ならそろそろ帰るが、たまには産科医の愚痴を聞いてくれてもいいだろう?」
(85)へつづく
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