居酒屋日記・オムニバス (86)
第七話 産科医の憂鬱 ⑥
「医師の行なった手術に、まったく問題は無かった。
しかも内容は、かなり高度なものだ。
日頃の勉強ぶりと鍛錬が伺える内容だと、判断された。
医師のアドバイスを拒否したうえに、無理強いまでした患者に、
医療ミスと言われたのでは、医師が何もできなくなる。
裁判では学会と医師会が総力をあげて、この産婦人科医の弁護にあたった」
「なるほど・・・。
検察と医学界が、全面的に対決するという構図になったわけだな。
面白くなってきたぞ。
で、どうなったんだ、裁判は?」
「検察側は剥離を中止して、子宮を摘出すべきだったと主張した。
無理を続けた結果、失血死させたと強調した。
弁護側は剥離を始めれば完了させて、子宮の収縮による止血作用を期待するのが
産科医の常識で、臨床現場で検察側が主張するような措置を取った例はない、
として反論した。
手術はあくまでも適切だったと言い切った。
周産期医療の権威とされる池ノ上克(つよむ)・宮崎大医学部長と、
岡村州博(くにひろ)・東北大教授が証人として法廷に呼ばれた。
2人とも被告の処置にまったく間違いはなかった、と明確に述べている」
「検察と医学界の言い分が、まっこうから対立したわけだからな。
で、どうなったんだ、裁判の判決は?」
「判決が出たのは、2008(平成20)年の8月20日。
裁判長は、医師に無罪を言い渡した。
死因が剥離による失血死と、判断したからだ。
癒着の程度や位置関係をめぐる検察側証人の、田中憲一教授の鑑定結果について、
氏は腫瘍が専門で、癒着胎盤の治療経験に乏しく、医学書などの文献に
頼った内容であり、標準的な医療措置と理解することは相当でない、と一蹴した。
これにたいし医師側の主張は、医師は臨床経験も豊富で、専門知識の確かさは
経歴のみならず、証言内容からも汲み取れるため医療現場の実際をそのまま
表現する標準的な、医療措置に関する証言と思われる、と認定した。
検察側の主張は、全て否定されたことになる。
結果は、検察が完敗だ。
ようするに、このような事態では他に方法は無く、その場でベストの処置を
尽くした結果だったから、無罪であると判断された」
「よかったぁ~。無罪になったのか。
最善を尽くした産科医が、罪人にされたんじゃ世の中の筋が通らねぇ。
福島県警の勇み足ってことで、一件が落着したんだな」
時刻は、深夜の0時30分。
幸作が4本目の熱燗を準備している。
「そうか・・・医師は無罪になったのか、よかった、よかった・・・」
幸作のつぶやく歓びの声が、ここまで聞こえてきそうだ。
そんな様子を振りかえり、独身の産科医が、思わずクスリと苦笑を洩らす。
「そういえば今日、久しぶりに大物が来たぞ」
「大物?。なんだよ、大物って・・・
ははぁ。妊婦はみんな大きなお腹をかかえているからな。
特別に大きいというのは、双子かなんかをはらんでいる女のことか?
たしかにそいつは、並外れた大物といえるだろう」
「そうじゃない。
われわれの業界で言う大物というのは、飛び込みでやって来る分娩のことだ」
「飛び込みでやってくる分娩?。なんだい、それ。
飛び込みで子供が産めるのかよ、いまの時代は・・・」
「飛び込み分娩というのは、異常事態の出産だ。
だが最近は、そういう信じられない緊急事態が増えてきている。
妊娠したというのに、一度も産婦人科を受診せず臨月近くになってから、
いきなり病院へやってくる妊婦がいる」
「え・・・いきなりやって来るのか、臨月の妊婦が。
無茶にもほどが有る・・・
信じられねぁなぁ、いまどき有るのかよ、そんな呆れた話が・・・」
「妊娠は病気じゃない。
病院に行く必要はないと思っている女性や、経済的な理由で妊婦健診を
受けられない人がいまの世の中、少なからずいるからね」
(87)へつづく
新田さらだ館は、こちら
第七話 産科医の憂鬱 ⑥
「医師の行なった手術に、まったく問題は無かった。
しかも内容は、かなり高度なものだ。
日頃の勉強ぶりと鍛錬が伺える内容だと、判断された。
医師のアドバイスを拒否したうえに、無理強いまでした患者に、
医療ミスと言われたのでは、医師が何もできなくなる。
裁判では学会と医師会が総力をあげて、この産婦人科医の弁護にあたった」
「なるほど・・・。
検察と医学界が、全面的に対決するという構図になったわけだな。
面白くなってきたぞ。
で、どうなったんだ、裁判は?」
「検察側は剥離を中止して、子宮を摘出すべきだったと主張した。
無理を続けた結果、失血死させたと強調した。
弁護側は剥離を始めれば完了させて、子宮の収縮による止血作用を期待するのが
産科医の常識で、臨床現場で検察側が主張するような措置を取った例はない、
として反論した。
手術はあくまでも適切だったと言い切った。
周産期医療の権威とされる池ノ上克(つよむ)・宮崎大医学部長と、
岡村州博(くにひろ)・東北大教授が証人として法廷に呼ばれた。
2人とも被告の処置にまったく間違いはなかった、と明確に述べている」
「検察と医学界の言い分が、まっこうから対立したわけだからな。
で、どうなったんだ、裁判の判決は?」
「判決が出たのは、2008(平成20)年の8月20日。
裁判長は、医師に無罪を言い渡した。
死因が剥離による失血死と、判断したからだ。
癒着の程度や位置関係をめぐる検察側証人の、田中憲一教授の鑑定結果について、
氏は腫瘍が専門で、癒着胎盤の治療経験に乏しく、医学書などの文献に
頼った内容であり、標準的な医療措置と理解することは相当でない、と一蹴した。
これにたいし医師側の主張は、医師は臨床経験も豊富で、専門知識の確かさは
経歴のみならず、証言内容からも汲み取れるため医療現場の実際をそのまま
表現する標準的な、医療措置に関する証言と思われる、と認定した。
検察側の主張は、全て否定されたことになる。
結果は、検察が完敗だ。
ようするに、このような事態では他に方法は無く、その場でベストの処置を
尽くした結果だったから、無罪であると判断された」
「よかったぁ~。無罪になったのか。
最善を尽くした産科医が、罪人にされたんじゃ世の中の筋が通らねぇ。
福島県警の勇み足ってことで、一件が落着したんだな」
時刻は、深夜の0時30分。
幸作が4本目の熱燗を準備している。
「そうか・・・医師は無罪になったのか、よかった、よかった・・・」
幸作のつぶやく歓びの声が、ここまで聞こえてきそうだ。
そんな様子を振りかえり、独身の産科医が、思わずクスリと苦笑を洩らす。
「そういえば今日、久しぶりに大物が来たぞ」
「大物?。なんだよ、大物って・・・
ははぁ。妊婦はみんな大きなお腹をかかえているからな。
特別に大きいというのは、双子かなんかをはらんでいる女のことか?
たしかにそいつは、並外れた大物といえるだろう」
「そうじゃない。
われわれの業界で言う大物というのは、飛び込みでやって来る分娩のことだ」
「飛び込みでやってくる分娩?。なんだい、それ。
飛び込みで子供が産めるのかよ、いまの時代は・・・」
「飛び込み分娩というのは、異常事態の出産だ。
だが最近は、そういう信じられない緊急事態が増えてきている。
妊娠したというのに、一度も産婦人科を受診せず臨月近くになってから、
いきなり病院へやってくる妊婦がいる」
「え・・・いきなりやって来るのか、臨月の妊婦が。
無茶にもほどが有る・・・
信じられねぁなぁ、いまどき有るのかよ、そんな呆れた話が・・・」
「妊娠は病気じゃない。
病院に行く必要はないと思っている女性や、経済的な理由で妊婦健診を
受けられない人がいまの世の中、少なからずいるからね」
(87)へつづく
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