落合順平 作品集

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居酒屋日記・オムニバス (86)        第七話  産科医の憂鬱 ⑥

2016-06-13 07:29:22 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (86) 
      第七話  産科医の憂鬱 ⑥




 「医師の行なった手術に、まったく問題は無かった。
 しかも内容は、かなり高度なものだ。
 日頃の勉強ぶりと鍛錬が伺える内容だと、判断された。
 医師のアドバイスを拒否したうえに、無理強いまでした患者に、
 医療ミスと言われたのでは、医師が何もできなくなる。
 裁判では学会と医師会が総力をあげて、この産婦人科医の弁護にあたった」



 「なるほど・・・。
 検察と医学界が、全面的に対決するという構図になったわけだな。
 面白くなってきたぞ。
 で、どうなったんだ、裁判は?」



 「検察側は剥離を中止して、子宮を摘出すべきだったと主張した。
 無理を続けた結果、失血死させたと強調した。
 弁護側は剥離を始めれば完了させて、子宮の収縮による止血作用を期待するのが
 産科医の常識で、臨床現場で検察側が主張するような措置を取った例はない、
 として反論した。
 手術はあくまでも適切だったと言い切った。
 周産期医療の権威とされる池ノ上克(つよむ)・宮崎大医学部長と、
 岡村州博(くにひろ)・東北大教授が証人として法廷に呼ばれた。
 2人とも被告の処置にまったく間違いはなかった、と明確に述べている」



 「検察と医学界の言い分が、まっこうから対立したわけだからな。
 で、どうなったんだ、裁判の判決は?」


 
 「判決が出たのは、2008(平成20)年の8月20日。
 裁判長は、医師に無罪を言い渡した。
 死因が剥離による失血死と、判断したからだ。
 癒着の程度や位置関係をめぐる検察側証人の、田中憲一教授の鑑定結果について、
 氏は腫瘍が専門で、癒着胎盤の治療経験に乏しく、医学書などの文献に
 頼った内容であり、標準的な医療措置と理解することは相当でない、と一蹴した。
 これにたいし医師側の主張は、医師は臨床経験も豊富で、専門知識の確かさは
 経歴のみならず、証言内容からも汲み取れるため医療現場の実際をそのまま
 表現する標準的な、医療措置に関する証言と思われる、と認定した。
 検察側の主張は、全て否定されたことになる。
 結果は、検察が完敗だ。
 ようするに、このような事態では他に方法は無く、その場でベストの処置を
 尽くした結果だったから、無罪であると判断された」



 「よかったぁ~。無罪になったのか。
 最善を尽くした産科医が、罪人にされたんじゃ世の中の筋が通らねぇ。
 福島県警の勇み足ってことで、一件が落着したんだな」



 時刻は、深夜の0時30分。
幸作が4本目の熱燗を準備している。
「そうか・・・医師は無罪になったのか、よかった、よかった・・・」
幸作のつぶやく歓びの声が、ここまで聞こえてきそうだ。
そんな様子を振りかえり、独身の産科医が、思わずクスリと苦笑を洩らす。



 「そういえば今日、久しぶりに大物が来たぞ」



 「大物?。なんだよ、大物って・・・
 ははぁ。妊婦はみんな大きなお腹をかかえているからな。
 特別に大きいというのは、双子かなんかをはらんでいる女のことか?
 たしかにそいつは、並外れた大物といえるだろう」



 「そうじゃない。
 われわれの業界で言う大物というのは、飛び込みでやって来る分娩のことだ」



 「飛び込みでやってくる分娩?。なんだい、それ。
 飛び込みで子供が産めるのかよ、いまの時代は・・・」



 「飛び込み分娩というのは、異常事態の出産だ。
 だが最近は、そういう信じられない緊急事態が増えてきている。
 妊娠したというのに、一度も産婦人科を受診せず臨月近くになってから、
 いきなり病院へやってくる妊婦がいる」



 「え・・・いきなりやって来るのか、臨月の妊婦が。
 無茶にもほどが有る・・・
 信じられねぁなぁ、いまどき有るのかよ、そんな呆れた話が・・・」


 
 「妊娠は病気じゃない。
 病院に行く必要はないと思っている女性や、経済的な理由で妊婦健診を
 受けられない人がいまの世の中、少なからずいるからね」


(87)へつづく


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