忠治が愛した4人の女 (1)
はじめに ①

国定忠治は、江戸時代後期に実在した侠客。
博徒として、上州から信州一帯にかけて活動し、赤城山の南麓を
「盗区」として、実質的に支配した人物。
天保の飢饉で、農民を救済した侠客として名をあげた。
講談や映画、新国劇などが相次いで忠治を取り上げたことで、一躍、
昭和の初めに、国民的なヒーローになった。
「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、
可愛い乾分の手前たちとも別れ別れになる首途(かどで)だ・・・」
で知られる、赤城山から落ちていく台詞は有名だ。
一介の博徒を、国民的なヒーローに仕立て上げたストーリーはこうだ。
飢饉に喘ぐ農民たちを助けるため、博徒の忠治が悪代官を斬る。
当然。大罪を犯した忠治と子分たちは、生まれ故郷の国定村を追われる。
行き先を失った男たちが、赤城の山に立てこもる。
しかし。赤城の山はすでに、捕り方たちによって完全に包囲されている。
このまま衝突したら、どちらにも多大な犠牲者が出る。
一触即発の緊張の中。義理の親でもある目明しの川田屋惣次が、
忠治をたずねてやって来る。
惣次は、忠治の人柄を十分に理解している。
ご政道に従ってもらいたいと、法を犯した忠治に迫る。
惣次の苦しい胸の内を察して、忠治も縛につく覚悟を固める。
2人のやりとりを聞いていた日光の円蔵が、その後をとり仕切る。
300人の子分たちが忠治に盃を返す、国定一家は、その場で解散を決める。
そして忠治はただひとり、赤城の山を落ち延びていく。
「赤城の山も今宵を限り、生れ故郷の国定の村や・・・」ではじまる名台詞は、
こうした背景の中から生まれたものだ。
だが伝えられている史実は、すこし、異なる。
忠治が生まれたのは、いまから200年前の文化7年(1810)。
佐位郡(さいごおり)国定村の豪農・長岡家の次男坊としてこの世に生まれた。
幼いころの名は、長岡忠次郎。
貧農の子として生まれたという説がある。
だがこれは、のちになってから作られた講談上でのつくり話。
長岡家は、農民でありながら苗字をもっていた。
由緒をもつ名家であったと考えられている。
鎌倉幕府を滅ぼした新田一族の血を引くとも言われているが、根拠はいまだに
明らかにされていない。
豪農の家に産まれたとはいえ、忠次郎は生まれついての乱暴者。
その性格ゆえ、やがて無宿者の道をあゆむことになる。
この時代。武家でも農家でも、跡目を継ぐのは嫡男と決まっている。
次男や三男は、たんなる保険。
長男が無事に家督を継げば、あとにに残った次男や三男はただの厄介者になる。
土地に縛られていたため、勝手に土地を離れてしまった者は、
身分を証明する戸籍を失い、無宿人と呼ばれる。
生まれついての乱暴者で、跡目を継げなかった農家の次男坊。
忠治は産まれた瞬間から、侠客になる道が運命づけられていた。
1枚の人相書きがのこっている。
体重は、二十三貫(およそ86㎏)。身長は五尺五分(152㎝)の短身。
ズングリした、力士のような体型。
ひげが濃く、胸毛が垂れるように伸びている。
眉は太く濃い。眼玉はギョロとして大きく、色の白い無口な男。
足利の勤王画家・田崎草雲が、忠治に一度だけ出会っている。
そのときの印象を元に描いたものが、この人相書きで現存している
国定忠治の、ただひとつの肖像画だ。
「目つきに凄みがある。虫も殺さないようでいて、人を寒からしむる
凛然たる気のみなぎる真の侠漢なり・・・」と、感想を述べている。
義に生きた上州の侠客・国定忠治の本当の姿を史実をたどりながら、
検証していきたい。
(2)へつづく
新田さらだ館は、こちら
はじめに ①

国定忠治は、江戸時代後期に実在した侠客。
博徒として、上州から信州一帯にかけて活動し、赤城山の南麓を
「盗区」として、実質的に支配した人物。
天保の飢饉で、農民を救済した侠客として名をあげた。
講談や映画、新国劇などが相次いで忠治を取り上げたことで、一躍、
昭和の初めに、国民的なヒーローになった。
「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、
可愛い乾分の手前たちとも別れ別れになる首途(かどで)だ・・・」
で知られる、赤城山から落ちていく台詞は有名だ。
一介の博徒を、国民的なヒーローに仕立て上げたストーリーはこうだ。
飢饉に喘ぐ農民たちを助けるため、博徒の忠治が悪代官を斬る。
当然。大罪を犯した忠治と子分たちは、生まれ故郷の国定村を追われる。
行き先を失った男たちが、赤城の山に立てこもる。
しかし。赤城の山はすでに、捕り方たちによって完全に包囲されている。
このまま衝突したら、どちらにも多大な犠牲者が出る。
一触即発の緊張の中。義理の親でもある目明しの川田屋惣次が、
忠治をたずねてやって来る。
惣次は、忠治の人柄を十分に理解している。
ご政道に従ってもらいたいと、法を犯した忠治に迫る。
惣次の苦しい胸の内を察して、忠治も縛につく覚悟を固める。
2人のやりとりを聞いていた日光の円蔵が、その後をとり仕切る。
300人の子分たちが忠治に盃を返す、国定一家は、その場で解散を決める。
そして忠治はただひとり、赤城の山を落ち延びていく。
「赤城の山も今宵を限り、生れ故郷の国定の村や・・・」ではじまる名台詞は、
こうした背景の中から生まれたものだ。
だが伝えられている史実は、すこし、異なる。
忠治が生まれたのは、いまから200年前の文化7年(1810)。
佐位郡(さいごおり)国定村の豪農・長岡家の次男坊としてこの世に生まれた。
幼いころの名は、長岡忠次郎。
貧農の子として生まれたという説がある。
だがこれは、のちになってから作られた講談上でのつくり話。
長岡家は、農民でありながら苗字をもっていた。
由緒をもつ名家であったと考えられている。
鎌倉幕府を滅ぼした新田一族の血を引くとも言われているが、根拠はいまだに
明らかにされていない。
豪農の家に産まれたとはいえ、忠次郎は生まれついての乱暴者。
その性格ゆえ、やがて無宿者の道をあゆむことになる。
この時代。武家でも農家でも、跡目を継ぐのは嫡男と決まっている。
次男や三男は、たんなる保険。
長男が無事に家督を継げば、あとにに残った次男や三男はただの厄介者になる。
土地に縛られていたため、勝手に土地を離れてしまった者は、
身分を証明する戸籍を失い、無宿人と呼ばれる。
生まれついての乱暴者で、跡目を継げなかった農家の次男坊。
忠治は産まれた瞬間から、侠客になる道が運命づけられていた。
1枚の人相書きがのこっている。
体重は、二十三貫(およそ86㎏)。身長は五尺五分(152㎝)の短身。
ズングリした、力士のような体型。
ひげが濃く、胸毛が垂れるように伸びている。
眉は太く濃い。眼玉はギョロとして大きく、色の白い無口な男。
足利の勤王画家・田崎草雲が、忠治に一度だけ出会っている。
そのときの印象を元に描いたものが、この人相書きで現存している
国定忠治の、ただひとつの肖像画だ。
「目つきに凄みがある。虫も殺さないようでいて、人を寒からしむる
凛然たる気のみなぎる真の侠漢なり・・・」と、感想を述べている。
義に生きた上州の侠客・国定忠治の本当の姿を史実をたどりながら、
検証していきたい。
(2)へつづく
新田さらだ館は、こちら