落合順平 作品集

現代小説の部屋。

居酒屋日記・オムニバス (90)        第七話  産科医の憂鬱 ⑩

2016-06-18 09:32:49 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (90) 
      第七話  産科医の憂鬱 ⑩




 深夜の宴会が、いっぺんに凍りついた。
妊婦がはっきりと、「切羽詰まっている状態なんだ」と3人の前で言い切った。
ただごとではない。妊娠6カ月目の妊婦が口にする言葉ではない。


 「わかった、わかった。君はなにかきっと、深い事情を抱えているんだな。
 話あおうじゃないか。
 君はなぜ、祝福されない子供を産もうとしているんだ?」



 ほっと短い息を吐き、穏やかな目に戻った産婦人科医が、若い妊婦と向き合う。



 「いまさら話し合う?。馬っ鹿じゃないの。
 あなたとわたしは赤の他人でしょ。
 大きなお世話です。わたしのことなんか、放っておいてください」



 「そうはいかん。
 そこにいる彼女が、泣いている君をスナックで拾ってきたという。
 力になってあげたいからこそ、こんな変な居酒屋へ君を連れてきた。
 袖触れ合えば、多少の縁。そう言う意味で、少なからぬ因縁が有る。
 それに産婦人科医である僕が、話を聞くと言っているんだ。
 たぶん、君の力になれるかもしれない」


 「じゃ、早速だけど、この子のパパになってくれる?」



 「パパになるのは無理だ。中絶するのも無理だ。
 だが早産として、その子をすぐに誕生させてあげることなら出来る。
 なんなら取り出してあげようか、明日にでも、僕の産院で」


 「6か月で取り出すですって?。馬鹿なことは言わないで。
 私のお腹の中で無事にいるこの子を、なんでわざわざ6か月で、
 取り出してしまうのさ!」
 


 「邪魔なんだろう、お腹の中に居るその子が?。
 正期産と呼ばれる妊娠37週から42週よりも前に、赤ちゃんが
 生まれてしまうことを早産という。
 産まれそうになることを、切迫早産という。
 いまの時代。6か月で産まれてきても、赤ちゃんは医学の力で無事に育つ。
 どうする。君が望むというのなら、俺が明日、取り出してやる」


 「そ、そんな乱暴な・・・順調に育っているこの子が可哀想すぎます!」


 「順調に育っている?。
 そうか。君のお腹の中で、胎児は元気に育っているんだな」

 
 「動いているわ。
 先週から、お腹の中で動いているのがはっきりと、分かって来たもの・・・」


 
 「健診には、行っているのか?」


 「妊娠が分かった時、一度だけ行きました・・・」


 「母子健康手帳は、もう、もらった?」


 「いいえ。まだです」



 「母子手帳は大切だ。
 妊娠の初期から、小学校に入学するまで、赤ちゃんとママの健康状態を
 記録しておくものだ。
 妊娠中も、産後も、長いあいだ世話になる。
 自分で書けるページもある。赤ちゃん日記としても活用できる。
 感じたことを記入しておくことで、あとで医師の診察時にも役に立つ」


 「いまからでも、もらうことは出来るの?」



 「母子手帳の交付方法は、自治体によって異なる。
 妊娠届出書を提出すれば、その日のうちにもらえるところが多い。
 妊娠届出書には、「妊娠週数」「出産予定日」「妊娠の診断を受けた医療機関名」
 などの記入が必要だ。
 安心するがいい。必要なことは俺が全部、書いてやる。
 そうすれば明日にでも君は、市役所へ行き、お腹に居る赤ん坊のために
 母子手帳を、もらうことが出来るだろう」

 

(91)へつづく


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