居酒屋日記・オムニバス (85)
第七話 産科医の憂鬱 ⑤
話を聞いてくれと面と向かっていわれれば、断ることは出来ない。
人が良いからではない。
娘の美穂も、実は、町の産院で生まれてきた子だ。
難産だった。
お産が長くなると妊婦も大変だが、付き添う夫も大変だ。
それ以上に産婦人科のスタッフたちはもっと、大変なことになる。
美穂が産まれたのもやはり、自然分娩を推奨している小さな産院だった。
「病院と医師の処置、判断や手続きに、一切、過誤はなかった。
しかし。不幸な結果に至った以上、何らかの償いが必要なのではないか
という話になった。
その結果。過誤があったとして、病院が賠償金を支払うことになった。
だが遺族側、とくに妊婦の父親の恨みが強かった。
医師が遺族とともに墓参りに同行した際、墓前での土下座を要求された。
医師はそれに従い、土下座をしたという」
「なんとも、理不尽すぎる話だな。
どうしてだよ。産婦人科医に医療上の過誤はなかったんだろう?」
「ミスはまったくなかった。
地方ならではの結論の出し方と、解決方法だ。
医療ミスはなかったとしても、娘を失った父親の落胆は大きい。
そう考えて医師は、土下座をしたんだろう。
むしろ。こころ有る人間のひとりとして、亡くなった妊婦の冥福を祈った。
俺でもそうなったら、たぶん、そうするだろう。
医師ではなく、ひとりの人間としてね」
「なるほどね。医師の人間性が見えてきそうな対応だな。
だがそれが何故、刑事事件に発展したんだ?」
「県警が一線を、越えたからだ。
業務上過失致死ならび、医師法(異状死の届け出義務)違反の容疑で、
一年後の2006(平成18)年2月18日、医師がいきなり逮捕された。
医師にミスが無いことは明らかだ。
しかも証拠隠滅の可能性や、逃亡の可能性が無いというのにも拘わらず、
県警は逮捕の当日、おおくのマスコミを呼びつけた。
カメラの目の前で医師を逮捕するという、異常行動をとっている。
医師を逮捕した富岡警察署は後に、県警本部長賞の表彰を受けた。
これもまた、実に異常なことだ。
そして田中憲一・新潟大学の教授が、検察側の意向にそった鑑定書を書いた。
これを元に、医師は3月10日に起訴された」
「なんてこった。警察がむりやり、刑事事件にしたてあげたのか!」
「医師の起訴を受けて、医学界がすぐに動いた。
日本産科婦人科学会の理事長と、社団法人 日本産婦人科医会の会長が即日、
2人の連名で、抗議の声明を発表した。
医師が逮捕され、有罪となった事例は数おおくある。
だがこのような声明が、医師会から出たのは初めてのことだ。
なぜならこれは、「医療ミス」ではないからだ。
医療ミスと同列に扱うことは、まったくの不当だと声明は言い切った。
全国の医師会も、次々に記者会見を開いた。
同じように警察に対して、抗議の声明を発表している。
全国規模でこのような声明が出たのも、実は、これが初めてだ」
「へぇぇ・・・日本中で医師たちが動いたのか・・・。
で、どんな内容なんだ、その日本産科婦人科学会の声明というやつは?」
「福島県の県立病院で、平成16年12月、腹式帝王切開術を受けた女性が、
死亡したことに関し、手術を担当した医師が、平成18年3月10日、
業務上過失致死および医師法違反で起訴された件に関して、
コメントいたします。
はじめに、本件の手術で亡くなられた方、および遺族の方々に
謹んで哀悼の意を表します。
このたび、日本産科婦人科学会の専門医によって行われた医療行為について、
個人が刑事責任を問われるに至ったことはきわめて残念であります。
本件は、癒着胎盤という、術前診断がきわめて難しく、治療の難度が
最も高い事例であり、高次医療施設においても、対応がきわめて困難であります。
また本件は、全国的な産婦人科医不足という現在の医療体制の問題点に、
深く根ざしており、献身的に、過重な負担に耐えてきた医師個人の責任を
追及するにはそぐわない部分があります。
したがって両会の社会的使命により、われわれは本件を座視することは
できません。
として、平成18年3月10日に日本産科婦人科学会と、日本産婦人科医会の
会長が連名で声明を発表している」
「ふぅ~ん。よく覚えているなぁ。たいしたもんだ!。
やっぱり庶民の俺たちとは記憶力に、雲泥の差が有るようだな」
「茶化すな。これは、俺たち産婦人科医のバイブルだ。
この事件と、このときに出された声明は、産科医ならだれでも知っている。
おおくの医師たちは、患者の死と直面しながら仕事をしている。
多くの医師が、人の死を見送る立場にある。
だが俺たち、産婦人科医は違う。
ひとが産まれてくる感動の瞬間に立ち会えるんだ。
いのちの誕生に立ち会えるのは、俺たち、産婦人科で働いている医師だけだ」
(86)へつづく
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第七話 産科医の憂鬱 ⑤
話を聞いてくれと面と向かっていわれれば、断ることは出来ない。
人が良いからではない。
娘の美穂も、実は、町の産院で生まれてきた子だ。
難産だった。
お産が長くなると妊婦も大変だが、付き添う夫も大変だ。
それ以上に産婦人科のスタッフたちはもっと、大変なことになる。
美穂が産まれたのもやはり、自然分娩を推奨している小さな産院だった。
「病院と医師の処置、判断や手続きに、一切、過誤はなかった。
しかし。不幸な結果に至った以上、何らかの償いが必要なのではないか
という話になった。
その結果。過誤があったとして、病院が賠償金を支払うことになった。
だが遺族側、とくに妊婦の父親の恨みが強かった。
医師が遺族とともに墓参りに同行した際、墓前での土下座を要求された。
医師はそれに従い、土下座をしたという」
「なんとも、理不尽すぎる話だな。
どうしてだよ。産婦人科医に医療上の過誤はなかったんだろう?」
「ミスはまったくなかった。
地方ならではの結論の出し方と、解決方法だ。
医療ミスはなかったとしても、娘を失った父親の落胆は大きい。
そう考えて医師は、土下座をしたんだろう。
むしろ。こころ有る人間のひとりとして、亡くなった妊婦の冥福を祈った。
俺でもそうなったら、たぶん、そうするだろう。
医師ではなく、ひとりの人間としてね」
「なるほどね。医師の人間性が見えてきそうな対応だな。
だがそれが何故、刑事事件に発展したんだ?」
「県警が一線を、越えたからだ。
業務上過失致死ならび、医師法(異状死の届け出義務)違反の容疑で、
一年後の2006(平成18)年2月18日、医師がいきなり逮捕された。
医師にミスが無いことは明らかだ。
しかも証拠隠滅の可能性や、逃亡の可能性が無いというのにも拘わらず、
県警は逮捕の当日、おおくのマスコミを呼びつけた。
カメラの目の前で医師を逮捕するという、異常行動をとっている。
医師を逮捕した富岡警察署は後に、県警本部長賞の表彰を受けた。
これもまた、実に異常なことだ。
そして田中憲一・新潟大学の教授が、検察側の意向にそった鑑定書を書いた。
これを元に、医師は3月10日に起訴された」
「なんてこった。警察がむりやり、刑事事件にしたてあげたのか!」
「医師の起訴を受けて、医学界がすぐに動いた。
日本産科婦人科学会の理事長と、社団法人 日本産婦人科医会の会長が即日、
2人の連名で、抗議の声明を発表した。
医師が逮捕され、有罪となった事例は数おおくある。
だがこのような声明が、医師会から出たのは初めてのことだ。
なぜならこれは、「医療ミス」ではないからだ。
医療ミスと同列に扱うことは、まったくの不当だと声明は言い切った。
全国の医師会も、次々に記者会見を開いた。
同じように警察に対して、抗議の声明を発表している。
全国規模でこのような声明が出たのも、実は、これが初めてだ」
「へぇぇ・・・日本中で医師たちが動いたのか・・・。
で、どんな内容なんだ、その日本産科婦人科学会の声明というやつは?」
「福島県の県立病院で、平成16年12月、腹式帝王切開術を受けた女性が、
死亡したことに関し、手術を担当した医師が、平成18年3月10日、
業務上過失致死および医師法違反で起訴された件に関して、
コメントいたします。
はじめに、本件の手術で亡くなられた方、および遺族の方々に
謹んで哀悼の意を表します。
このたび、日本産科婦人科学会の専門医によって行われた医療行為について、
個人が刑事責任を問われるに至ったことはきわめて残念であります。
本件は、癒着胎盤という、術前診断がきわめて難しく、治療の難度が
最も高い事例であり、高次医療施設においても、対応がきわめて困難であります。
また本件は、全国的な産婦人科医不足という現在の医療体制の問題点に、
深く根ざしており、献身的に、過重な負担に耐えてきた医師個人の責任を
追及するにはそぐわない部分があります。
したがって両会の社会的使命により、われわれは本件を座視することは
できません。
として、平成18年3月10日に日本産科婦人科学会と、日本産婦人科医会の
会長が連名で声明を発表している」
「ふぅ~ん。よく覚えているなぁ。たいしたもんだ!。
やっぱり庶民の俺たちとは記憶力に、雲泥の差が有るようだな」
「茶化すな。これは、俺たち産婦人科医のバイブルだ。
この事件と、このときに出された声明は、産科医ならだれでも知っている。
おおくの医師たちは、患者の死と直面しながら仕事をしている。
多くの医師が、人の死を見送る立場にある。
だが俺たち、産婦人科医は違う。
ひとが産まれてくる感動の瞬間に立ち会えるんだ。
いのちの誕生に立ち会えるのは、俺たち、産婦人科で働いている医師だけだ」
(86)へつづく
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