落合順平 作品集

現代小説の部屋。

忠治が愛した4人の女 (2)       はじめに ②

2016-06-28 09:27:16 | 現代小説
忠治が愛した4人の女 (2)
      はじめに ②



 忠治が育った国定村や伊勢崎市一帯には、ふるくから織られている織物が有る。 
伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)と呼ばれるものだ。
やや厚みのある平織りで、太絹とも呼ばれる。
上質で細い絹糸で織られた絹織物と、厚くてぼてりしている紬の
中間のような風合いをもっている。



 上州は、養蚕が盛んだ。
米麦と養蚕。この3つが上州の農民をささえてきた。
米は年貢として納める。しかし養蚕だけはまったくの無税。
そのため農民たちは、積極的に田や畑に桑を植えて、養蚕に精を出してきた。



 忠治が最初に縄張りを持った伊勢崎市の境(さかい)に、
六斎市(ろくさいいち)と呼ばれる市が根付いた。
取れたばかりの繭が、高値で飛ぶように売れる。
慶安年間(1648~1651)からはじまったもので月に6度、市がたつことから、
六斎の名前がついた。



 市には、全国から絹商人たちが集まって来る。
売買を世話する絹宿や、織物を製造する元機屋(もとはたや)も出現した。
元機屋は、自己資金で糸を買い付ける。
買い付けた糸を紺屋に渡し、染色をしてもらう。
染められ柄のついた糸が、農家の女たちによって反物に織り上げられる。
織り上がった反物は、元機屋の手で着物に仕上げられる。
こうして完成した伊勢崎織が、絹宿を経て、江戸や京都の呉服問屋へ送られる。



 この時代。良質の繭ばかりがとれたわけではない。
当時の技術では、生産された繭のおよそ半分が屑糸になった。
その屑糸が国定村の周辺では、農民用の野良着として利用されていた。
忠治が生まれるすこし前。 
寛政年間(1789年から1801年)の中頃、本格的な織物の技術と
織り器が、国定や伊勢崎市一帯にはいってきた。



 タテに絹糸。ヨコに、捨てる寸前の屑糸を用いる。
伊勢崎一帯の太織縞は、中世のはじめ頃から存在していた。
野良着として、長く定着していた。
伊勢崎の太織が寛政年間の頃から、江戸の庶民たちの間で人気を集めるようになる。



 クズ糸とはいえ絹物であるから、すこぶる肌ざわりは良い。
そのうえ横糸に太い屑糸を用いていることで、生地が丈夫である。
半分が屑糸であることから、値段も安い。
三拍子そろったことにより、伊勢崎の太織は江戸の庶民たちの間で飛ぶように売れる。
この繁栄が後に、伊勢崎銘仙を生み出していく。



 太織は、農家の女たちのよい手間賃稼ぎになった。
全国に普及したことにより、需要がさらに拡大していく。
養蚕で繭を取り、繭から糸を引き、さらに太織縞の生産と、伊勢崎の絹は
より付加価値の高い商品へ進化していく。



 当然、繭と織物に関わる農民の暮らしも、ゆたかになっていく。
しかし。絹に関わる仕事はどれをとっても、すべて女たちによる手仕事だ。
女たちは夜も寝ず、ひたすら働いた。



 同じ養蚕国の信州の場合。繭のまま売ってしまうので女たちは
蚕を育て上げると、とたんに暇になる。
だが上州の女房たちは違う。
とんでもないとばかりに、夜も寝ないで機織りに精を出す。
このことが酒と博打に明け暮れる男たちを、大量に作り出すという
環境を生み出した。



 上州におおくの博奕打ちがうまれたのは、そのためだ。
上州人の博徒性と酒癖の悪さは、稼ぎの良い女房達によって作り出された。
忠治の生家も、養蚕によって財を成した旧家だ。
上州という土地柄と、恵まれた財力が逆に災いして、忠治のような侠客を
生み出してしまった、といえるだろう。

(3)へつづく


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