忠治が愛した4人の女 (2)
はじめに ②
忠治が育った国定村や伊勢崎市一帯には、ふるくから織られている織物が有る。
伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)と呼ばれるものだ。
やや厚みのある平織りで、太絹とも呼ばれる。
上質で細い絹糸で織られた絹織物と、厚くてぼてりしている紬の
中間のような風合いをもっている。
上州は、養蚕が盛んだ。
米麦と養蚕。この3つが上州の農民をささえてきた。
米は年貢として納める。しかし養蚕だけはまったくの無税。
そのため農民たちは、積極的に田や畑に桑を植えて、養蚕に精を出してきた。
忠治が最初に縄張りを持った伊勢崎市の境(さかい)に、
六斎市(ろくさいいち)と呼ばれる市が根付いた。
取れたばかりの繭が、高値で飛ぶように売れる。
慶安年間(1648~1651)からはじまったもので月に6度、市がたつことから、
六斎の名前がついた。
市には、全国から絹商人たちが集まって来る。
売買を世話する絹宿や、織物を製造する元機屋(もとはたや)も出現した。
元機屋は、自己資金で糸を買い付ける。
買い付けた糸を紺屋に渡し、染色をしてもらう。
染められ柄のついた糸が、農家の女たちによって反物に織り上げられる。
織り上がった反物は、元機屋の手で着物に仕上げられる。
こうして完成した伊勢崎織が、絹宿を経て、江戸や京都の呉服問屋へ送られる。
この時代。良質の繭ばかりがとれたわけではない。
当時の技術では、生産された繭のおよそ半分が屑糸になった。
その屑糸が国定村の周辺では、農民用の野良着として利用されていた。
忠治が生まれるすこし前。
寛政年間(1789年から1801年)の中頃、本格的な織物の技術と
織り器が、国定や伊勢崎市一帯にはいってきた。
タテに絹糸。ヨコに、捨てる寸前の屑糸を用いる。
伊勢崎一帯の太織縞は、中世のはじめ頃から存在していた。
野良着として、長く定着していた。
伊勢崎の太織が寛政年間の頃から、江戸の庶民たちの間で人気を集めるようになる。
クズ糸とはいえ絹物であるから、すこぶる肌ざわりは良い。
そのうえ横糸に太い屑糸を用いていることで、生地が丈夫である。
半分が屑糸であることから、値段も安い。
三拍子そろったことにより、伊勢崎の太織は江戸の庶民たちの間で飛ぶように売れる。
この繁栄が後に、伊勢崎銘仙を生み出していく。
太織は、農家の女たちのよい手間賃稼ぎになった。
全国に普及したことにより、需要がさらに拡大していく。
養蚕で繭を取り、繭から糸を引き、さらに太織縞の生産と、伊勢崎の絹は
より付加価値の高い商品へ進化していく。
当然、繭と織物に関わる農民の暮らしも、ゆたかになっていく。
しかし。絹に関わる仕事はどれをとっても、すべて女たちによる手仕事だ。
女たちは夜も寝ず、ひたすら働いた。
同じ養蚕国の信州の場合。繭のまま売ってしまうので女たちは
蚕を育て上げると、とたんに暇になる。
だが上州の女房たちは違う。
とんでもないとばかりに、夜も寝ないで機織りに精を出す。
このことが酒と博打に明け暮れる男たちを、大量に作り出すという
環境を生み出した。
上州におおくの博奕打ちがうまれたのは、そのためだ。
上州人の博徒性と酒癖の悪さは、稼ぎの良い女房達によって作り出された。
忠治の生家も、養蚕によって財を成した旧家だ。
上州という土地柄と、恵まれた財力が逆に災いして、忠治のような侠客を
生み出してしまった、といえるだろう。
(3)へつづく
新田さらだ館は、こちら
はじめに ②
忠治が育った国定村や伊勢崎市一帯には、ふるくから織られている織物が有る。
伊勢崎太織(ふとり・ふとおり)と呼ばれるものだ。
やや厚みのある平織りで、太絹とも呼ばれる。
上質で細い絹糸で織られた絹織物と、厚くてぼてりしている紬の
中間のような風合いをもっている。
上州は、養蚕が盛んだ。
米麦と養蚕。この3つが上州の農民をささえてきた。
米は年貢として納める。しかし養蚕だけはまったくの無税。
そのため農民たちは、積極的に田や畑に桑を植えて、養蚕に精を出してきた。
忠治が最初に縄張りを持った伊勢崎市の境(さかい)に、
六斎市(ろくさいいち)と呼ばれる市が根付いた。
取れたばかりの繭が、高値で飛ぶように売れる。
慶安年間(1648~1651)からはじまったもので月に6度、市がたつことから、
六斎の名前がついた。
市には、全国から絹商人たちが集まって来る。
売買を世話する絹宿や、織物を製造する元機屋(もとはたや)も出現した。
元機屋は、自己資金で糸を買い付ける。
買い付けた糸を紺屋に渡し、染色をしてもらう。
染められ柄のついた糸が、農家の女たちによって反物に織り上げられる。
織り上がった反物は、元機屋の手で着物に仕上げられる。
こうして完成した伊勢崎織が、絹宿を経て、江戸や京都の呉服問屋へ送られる。
この時代。良質の繭ばかりがとれたわけではない。
当時の技術では、生産された繭のおよそ半分が屑糸になった。
その屑糸が国定村の周辺では、農民用の野良着として利用されていた。
忠治が生まれるすこし前。
寛政年間(1789年から1801年)の中頃、本格的な織物の技術と
織り器が、国定や伊勢崎市一帯にはいってきた。
タテに絹糸。ヨコに、捨てる寸前の屑糸を用いる。
伊勢崎一帯の太織縞は、中世のはじめ頃から存在していた。
野良着として、長く定着していた。
伊勢崎の太織が寛政年間の頃から、江戸の庶民たちの間で人気を集めるようになる。
クズ糸とはいえ絹物であるから、すこぶる肌ざわりは良い。
そのうえ横糸に太い屑糸を用いていることで、生地が丈夫である。
半分が屑糸であることから、値段も安い。
三拍子そろったことにより、伊勢崎の太織は江戸の庶民たちの間で飛ぶように売れる。
この繁栄が後に、伊勢崎銘仙を生み出していく。
太織は、農家の女たちのよい手間賃稼ぎになった。
全国に普及したことにより、需要がさらに拡大していく。
養蚕で繭を取り、繭から糸を引き、さらに太織縞の生産と、伊勢崎の絹は
より付加価値の高い商品へ進化していく。
当然、繭と織物に関わる農民の暮らしも、ゆたかになっていく。
しかし。絹に関わる仕事はどれをとっても、すべて女たちによる手仕事だ。
女たちは夜も寝ず、ひたすら働いた。
同じ養蚕国の信州の場合。繭のまま売ってしまうので女たちは
蚕を育て上げると、とたんに暇になる。
だが上州の女房たちは違う。
とんでもないとばかりに、夜も寝ないで機織りに精を出す。
このことが酒と博打に明け暮れる男たちを、大量に作り出すという
環境を生み出した。
上州におおくの博奕打ちがうまれたのは、そのためだ。
上州人の博徒性と酒癖の悪さは、稼ぎの良い女房達によって作り出された。
忠治の生家も、養蚕によって財を成した旧家だ。
上州という土地柄と、恵まれた財力が逆に災いして、忠治のような侠客を
生み出してしまった、といえるだろう。
(3)へつづく
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