いちよう:二千和会だより

 会報「いちよう」を通して、人生がさらに豊かに広がるよう「今も青春!」の心がけで楽しく交流しながら散策しましょう。

松代藩の教育所

2008年06月11日 | SO-Color

  池田満寿夫美術館の「天女乱舞」は圧倒されたが、館内は撮影禁止。パンフレットに載っているのでスキャンしてここに登場させて頂く。
 (左図上の作品を大図に。内掛けをそのまま配置よく一面壁を飾る。二つの四角い窓は初めはテレビがはめ込んであって動く画像も見せていたという。面白い発想であり、其々の着物そのままの美を貼り付けたところが意表をつき、見事なものだと感銘を受けた。)
        

  8代藩主・真田幸貫により発案、9代藩主幸教により建てられた藩校「文武学校」が美術館の近くにある。


  真田幸貫は、佐久間象山らの意見を入れて、蘭学、西洋砲術などを積極的に取り入れた。
 藩士子弟の学問・武芸の奨励のために建てられた藩校(学校)。

  建物は創建時の姿を現在に伝える貴重な遺構。

 よく長野は教育県などと言われているし、県人はみな郷土愛が強い。この文武学校に初めて訪れたが、その姿勢、意気込みなどでも教育熱が納得できると思った。




 
  
 真田家の家紋をつけた幕を張って…             文学所
  
  
  
  

 幕末期の儒教中心の藩校から近代的学校建築の過渡期の建物。そのため初めから孔子廟は造らず、文学所、御役所、教室2棟、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、文庫蔵、番所、門などからなっていた。
 8歳から14歳くらいまでは文学などの勉強、15歳から35歳くらいまでは武芸を習ったといわれている。(入場券及びパンフレットを参照した。)
 武芸は自分の命に関わるからだろうが、35歳の学生もいたなんて凄い!

 明治に入ってフランス式になぞらえて兵制士官学校をつくったが、それが廃校され、明治4年に西洋兵学寮士官学校がつくられた。廃藩置県後は、この建物が松代小学校の校舎にもなったことがある。昭和28年国の史跡に指定、54年から一般公開となった。

 文武学校として建物がほとんどそのまま残っている。各地で藩校の一部は見ることができるが、こうして全部がずらりと揃って見てとれるのは珍しいかもしれない。
 髷を結った藩士の子弟が袴姿で小走りに教室を移動しているような…建物を手がかりに容易に想像できるような敷地の真ん中で、若武者が学問や武道を修練していた姿など思い浮かべて、しばしの間、私はタイムスリップしていた。

 この白壁の左手は真田邸、そして真田宝物館があるが、今回はもう、タイムリミット! この塀が切れた先は真田公園になっていた。
 本家も藩士の出身。佐久間象山を見習っているような反骨と威厳の血が脈々と流れているんだなと、行くたびに思う。


信濃ぶらぶら

2008年06月11日 | SO-Color

 告別式は16時からなので、折角懐かしい長野に来たのだ。少し松代の町をぶらついて土地の風を吸っていこうと思った。長野の中心の善光寺は7年ごとのご開帳が、来年に当たる。だからそのときにまた来ればいいと、宿題にしておこう。
 今回は父の真のふるさと、松代に身を置いてみたいと長野駅からバスで松代まで行き、歴史のある小さな町を歩こうと思った。
 
 繁華なところは置いておいて…。しかし長野市に敬意を払って県庁をバスから捉える。富士の塔山が見える。そして南下して犀川に合流する裾花川の部分。昔従姉妹と遊んだ記憶がある。そしてやがて先には千曲川を渡る橋となる。あ~、千曲川旅情…。
 


 途中、川中島古戦場や、駅弁で有名だった、峠の釜飯「おぎのや」の大きな店が見えたが、ただ私の目の中に残しただけで通り過ぎた。バスで一つ気がついたことは、長野五輪のときの名残で、運転手頭上の電光表示板には、まずローマ字表記、次に漢字というのを未だ使用しているところが、長野らしいと思った。(多分他の所では漢字表記の後にローマ字表記とするのだろうな!)
 松代駅前でバスを下車。長野電鉄「松代駅」前には、「汽車ぽっぽ」の歌碑があった。童謡保存会の皆さんが建てたという長野で生まれた作曲家草川信。他に「夕焼小焼」「どこかで春が」「揺り籠の歌」などがあるという。この歌の作詞は富原薫。彼は静岡生まれで他には「早起き時計」がある。みんな小さかったあの頃親しんで歌った歌である。
 
 こうした山を見ると、父が感じたであろう心が私にも通じてくることが不思議。特に私にとってふるさとというほど、この土地に親しんではいないのに「ふるさとの山」として心に迫ってくる。石川啄木の歌が自然に浮かぶ。
 ふるさとの山に向かいて言うことなし ふるさとの山は有り難きかな 啄木
 
  武家屋敷が通りに面して公開している様子。更に進んで行くと、池田満寿夫美術館。左手には竹風堂松代店(見えてはいないが)。名物の栗菓子や喫茶を営んでいる店が美術館と併設されていた。先日千葉市美術館で池田満寿夫の企画展が開催されていたし、夫人の佐藤陽子さんのトーク&ミニコンサートにも出かけていたので普段よりも池田満寿夫作品に興味が募っていたのだ。
 
 前庭の一部で生垣の中には、十万石松代城のお堀跡が残されており、この石の一つ一つ、土質まで、そのままに残しているので、入らないでくださいと立て看板。
 美術館のすぐ前には満寿夫製作のブロンズは「宇宙から来たヴィナス」。
 
 美術館の入り口。正面の写真と見比べると、先の写真はお城の一部のような黒い屋根瓦のある古風な感じの建物にも見えるが、目線を換えるとこのような近代的感覚が流れている風情になる。
 落着いた美術館は個人の作品のみを展示して充分見ごたえがあった。千葉市美術館での企画展ではかなり多くの作品が展示され、全部見るのはかなり疲れてしまうほどだった。このたびの展示物はそのときほど多いとは思えなかったが、満寿夫自身の生い立ちも写真を通して自分なりに受け止められて、結構具体的につかめたような気がした。しかし、多方面にわたって才能を発揮した満寿夫について、結局はほんの一部しか分からないのだと観念するしか無かった。とにかく測り知れないし、理解も、し難い部分を秘めている天才だからなのだろうと思うしかない。
 やっぱり私は凡人だなぁ…と思い知ったわけである。