池田満寿夫美術館の「天女乱舞」は圧倒されたが、館内は撮影禁止。パンフレットに載っているのでスキャンしてここに登場させて頂く。
(左図上の作品を大図に。内掛けをそのまま配置よく一面壁を飾る。二つの四角い窓は初めはテレビがはめ込んであって動く画像も見せていたという。面白い発想であり、其々の着物そのままの美を貼り付けたところが意表をつき、見事なものだと感銘を受けた。)
8代藩主・真田幸貫により発案、9代藩主幸教により建てられた藩校「文武学校」が美術館の近くにある。
真田幸貫は、佐久間象山らの意見を入れて、蘭学、西洋砲術などを積極的に取り入れた。
藩士子弟の学問・武芸の奨励のために建てられた藩校(学校)。
建物は創建時の姿を現在に伝える貴重な遺構。
よく長野は教育県などと言われているし、県人はみな郷土愛が強い。この文武学校に初めて訪れたが、その姿勢、意気込みなどでも教育熱が納得できると思った。
真田家の家紋をつけた幕を張って… 文学所
幕末期の儒教中心の藩校から近代的学校建築の過渡期の建物。そのため初めから孔子廟は造らず、文学所、御役所、教室2棟、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、文庫蔵、番所、門などからなっていた。
8歳から14歳くらいまでは文学などの勉強、15歳から35歳くらいまでは武芸を習ったといわれている。(入場券及びパンフレットを参照した。)
武芸は自分の命に関わるからだろうが、35歳の学生もいたなんて凄い!
明治に入ってフランス式になぞらえて兵制士官学校をつくったが、それが廃校され、明治4年に西洋兵学寮士官学校がつくられた。廃藩置県後は、この建物が松代小学校の校舎にもなったことがある。昭和28年国の史跡に指定、54年から一般公開となった。
文武学校として建物がほとんどそのまま残っている。各地で藩校の一部は見ることができるが、こうして全部がずらりと揃って見てとれるのは珍しいかもしれない。
髷を結った藩士の子弟が袴姿で小走りに教室を移動しているような…建物を手がかりに容易に想像できるような敷地の真ん中で、若武者が学問や武道を修練していた姿など思い浮かべて、しばしの間、私はタイムスリップしていた。
この白壁の左手は真田邸、そして真田宝物館があるが、今回はもう、タイムリミット! この塀が切れた先は真田公園になっていた。
本家も藩士の出身。佐久間象山を見習っているような反骨と威厳の血が脈々と流れているんだなと、行くたびに思う。