セレンディピティ ダイアリー

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灯台からの響き

2024年04月19日 | 

久しぶりに本の感想です。

宮本輝「灯台からの響き」

夫から「読む?」と渡された本です。彼は宮本輝さんがわりと好きみたいですが、私はこれまで何となくご縁がなくて、実は読むのは初めて。読んだことはないものの「青が散る」「ドナウの旅人」など、洒脱で都会的な文学というイメージがありました。

夫は宮本輝さんのことを、人の心の機微がわかる小説家だと言うので、楽しみに読みはじめました。が、最初はなかなか物語の世界に入っていけなくて...。

東京・板橋の商店街の中華そば屋のご主人が、妻を亡くして意気消沈し、店をたたんでぼうっとしていたところ、妻が本の間に、ある大学生からのはがきをはさんでいたのを見つけます。

妻はかつて、その大学生からはがきが届いた時「こんな人は知らない。何かの間違いだ」と返事を書き送ったのですが...

妻はなぜ、その間違えて届いたはがきを、大事に本の間にはさんで取っておいたのか。疑問に思ったご主人は、謎を解き明かす旅に出ます。

***

最初は中華そばの作り方も、灯台めぐりの旅も、あまり興味がもてなくて、やや退屈に感じながら読んでいたのですが、最後の最後に妻が一生をかけて守り抜いた秘密が明らかになる場面で、がつんと衝撃を受けました。

ごく平凡な中華そば屋のおかみさん(もちろん家族にとってはかけがえのない存在ですが)が聖女のように思えてきました。この読後感にデジャヴを覚えて、なんだったっけ...と記憶を手繰り寄せれば

ジュディ・デンチの「あなたを抱きしめる日まで」だ!と思い出しました。ストーリーはまったく違うのですが、どちらの女性も、類まれな強さと気高さを持っていると思いました。宮本輝さんは、ひょっとしたらクリスチャンなのかな?と思いながら読みました。

それから退屈と書きましたが、途中で主人公の亡くなった幼馴染に隠し子がいることが発覚するあたりから、おもしろくなりました。その隠し子の青年がきっかけで、主人公がいろいろな新しいことにチャレンジするようになるのです。

宮本輝さんの他の小説も読んでみたくなりました。

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ザリガニの鳴くところ(小説)

2023年12月02日 | 

植物学者ディーリア・オーエンズの小説で世界的ベストセラー。映画「ザリガニの鳴くところ」(Where the Crawdads Sing) の原作です。映画の感想はこちら。

ザリガニの鳴くところ(映画)

ディーリア・オーエンズ 友廣純訳「ザリガニの鳴くところ」(Where the Crawdads Sing)

原作を読み始めたところで先に映画を見て、その後に続きを読み終えました。決して難しい小説ではありませんが、時系列が激しく前後する上に (でも年号が入っているのでわかりやすい) ミステリー、ロマンス、ネイチャー、法廷劇、貧困・差別等の社会問題と

アメリカ特有のいろいろな題材が盛り込まれているので、映画を先に見ておくと、小説の世界に入っていきやすいかもしれません。長編なので読み終えるのに時間がかかりましたが、ゆっくりじっくり味わいながら読みました。

映画の行間を味わう

映画もとてもよくできていましたが、2時間の作品に収めるために、どうしても速足になってしまうのは否めない。映画では、テイトが去ってカイアがすぐにチェイスに心移りをしたように見えてしまいましたが、小説を読んで、彼女の中にはこれまでの長年の孤独と決別したい

という強い想いがあったのだと理解しました。それに映画を見ると、マリアはカイアを捨てたひどい母親のように思えましたが、それまでの、そしてそれからのマリアの壮絶な人生を小説によって知り、誰もマリアを責めることはできないと納得しました。

映画を見た時に感じた、カイアがテイトからちょっと読み書きを教わったくらいで、生物学の本が書けるようになるの?という疑問も、小説を読むと、カイアの湿地への愛と、自然への興味、学ぶことへの情熱が全編にわたってあり、自然なこととして理解できました。

カイアの心の中、心の動きなど、映画では描ききれない行間の部分が、小説ではていねいに描かれていて、自然と感情移入できました。

父への思い、母への思い

私が衝撃とともに一気に心をつかまれたのは、カイアの兄ジョディが帰ってくる場面です。映画では描かれていませんでしたが、ジョディの顔には大きく目立つ傷跡がありました。その傷跡を見てカイアはジョディだとひと目で知るのです。

そのとたん、カイアが封印していた壮絶な過去が、一気に記憶から蘇る描写は、圧巻のひとことでした。それからジョディによって明かされる、母のその後の人生も衝撃的でした。

しかし、どんなにひどい父親であっても、カイアが「ボートの乗り方を教えてくれた」と完全には憎んでいないことが意外でした。親を憎むことは、自分の存在を否定することだからかもしれない、と思いました。

一方カイアは、あれほど愛していた母親に対し「それでも迎えに来ることはできたはずだ」と批判の姿勢をくずしませんでした。しかしその後、カイアは母と同じ恐怖を味わったことで、初めて母が逃げざるを得なかったことを理解したのです。

殺意の芽生え

私はミステリーで一番大事なのは「動機」だと思っています。どんなにストーリーがおもしろくても、動機が弱いと共感できないから。その点、この作品は動機の描写もみごとでした。

カイアは、チェイスに追われ、抵抗できないほどの暴力を受けて、初めて母が味わった恐怖を理解します。その後、交尾をしかけてきたオスのカマキリを受け入れつつ、頭から食いちぎるメスのカマキリを目にして、カイアに初めて殺意が生まれたのでした。

***

もちろん、アメリカ南部の自然、ジャンピン夫婦との交流、人道的な弁護士トム・ミルトン、テイトの支えと愛情など、本作の魅力はたくさんあるのですが、ちょっと違った角度から感想を書いてみました。

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クスノキの番人/慈雨/エレクトリック/流浪の月 他

2023年08月19日 | 

本の感想をまとめて6作品、読んだ順に記録しておきます。

イアン・マキューアン(著) 村松潔(訳)「恋するアダム」

カズオ・イシグロ「クララとお日さま」平野啓一郎「本心」と同時期に出た AI を題材にした小説で、先に読んだ2作と比べるのを楽しみにしていました。マキューアンは「贖罪」(映画「つぐない」の原作) がとてもよかったこともあり、期待していました。

”クララ”と”本心”と同じく、本作でも AI を搭載した人間そっくりのロボットが登場します。でも、前2作のAIロボットがあくまで主人公の心の支え、お話相手という存在だったのに対し、本作のアダムは家事をこなし、人間と肉体関係をもち、投資にも手腕を発揮します。

主人公はアダムの投資能力を使って一儲けしようとしますが、アダムが慈善活動についても学習していたという展開に溜飲が下がりました。^^ ”クララ”と”本心”を読んだ時にも感じたことですが、AI が進化した先に人権は生じるだろうか、とふと考えさせられました。

佐藤厚志「荒地の家族」

2022年下半期芥川賞受賞作品。著者の佐藤厚志さんは、仙台の書店員さんということでも話題になりました。東日本大震災の被災地である東北の海辺の町で、震災によって多くを失った主人公と周囲の人々が、喪失感と困難の中で生きる姿が描かれています。

佐藤さんの、短い文を淡々とつなげていく文体が特徴的でした。震災のその後を描いていることもあって、全体的に重苦しく、救いのない展開で、正直言って読んで楽しい作品ではありません。読みながら何度も荒涼たる海辺の風景が頭に浮かびました。

ただ私は、登場人物たちの困難は、決して震災のせいだけとは言えないように思いました。それまで内在していた問題が、震災によって表面化したのではないでしょうか。私たちは、何かあればあっという間に壊れてしまう、危うい日常を生きているのかもしれません。

凪良ゆう「流浪の月」

2020年本屋大賞受賞作品。映画化もされた話題作です。読み始めは「そして、バトンは渡された」にどことなく似ていて、子どもにただただ甘い両親や、静かで優しい年上の男性、というヒロインを取り巻く人たちに、私はどうもなじめませんでした。

生育環境や経済的理由もあるかもしれませんが、男性に頼らなければ生きていけないヒロインに、最後まで共感できなかったです。でもお互いに理解しあえる相手と再会し、自分たちの居場所を見つけることができて、よかったのでしょうね。

千葉雅也「エレクトリック」

2023年上半期芥川賞候補作。哲学者でもある千葉雅也さんの自伝的小説で、1995年の宇都宮を舞台に、県随一の進学校に通う主人公の日常が描かれています。阪神大震災、オウム事件、Windows95の登場など、当時の社会背景にも触れられていますが

1995年は私にとっても節目となった年で、読みながら思うところがありましたし、進学校に通う高校生のメンタリティにもうなづける場面がありました。高校生といえば、まだまだ子どもでありながら、世界がほんの少しわかりはじめてくる年齢。

尊敬していた大人が急に小さく見えたり、不甲斐なさを感じることもあるでしょう。自分が大人になってから、ようやく大人の都合というものがわかってくる。そんなことを思い出しながら読みました。

柚月裕子「慈雨」

今回の6冊の中で最も読み応えがある小説でした。柚月裕子さんの小説を読むのは「盤上の向日葵」に続いて2作目ですが、重厚な人間ドラマと深い人物描写があって、近頃ではめずらしい筆力のある作家さんと尊敬しています。

本作は、警察官を定年退職した主人公とその妻が、四国88カ所の巡礼の旅を続けていく中で、主人公が過去に携わったある事件への悔恨と、現在まさに捜査が進んでいる別の事件が、内省的な物語となって進んでいきます。

2つの事件が、糾える縄のようにひとつに結びついていくクライマックスは、静かな興奮となって胸に迫りました。元主婦とは思えない、警察、検事、ヤクザなど、ハードな世界を描かれる柚月さん。映画は無理ですが「孤狼の血」はいつか必ず読みたいです。

東野圭吾「クスノキの番人」

夏風邪で週末寝込んでいた時に、夫が貸してくれた本。前にも同じようなことがありました。東野さんにはめずらしく、殺人事件の起こらない小説です。最初のうちは「念を授ける」とか、非科学的でくだらないなーと思いながら読み進めていたのですが

叔母の千舟さんの凛とした佇まいがかっこよくて、そして主人公の玲斗が素直でかわいくて、この二人のやりとりが楽しかった。玲斗の成長物語になっていたのがよかったです。おそらく映画化されると思いますが、私のイメージでは千舟さん=松たか子さんです。

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ある男(小説)

2023年02月07日 | 

2018年に出版された平野啓一郎さんの小説。映画「ある男」の原作です。

平野啓一郎「ある男」

この小説は2018年に出版された際にすぐに読んで、心に残ったのですが、時間が取れないまま記事にする機会を逸していました。先日、映画「ある男」を見たら、映画がすてきな作品になっていたので、もう一度原作を読み直したくなりました。

それと原作を読み直したくなったもうひとつの理由は、映画を見た時に、谷口大祐(X)が過去にボクサーだったということを、私がすっかり忘れていたことを不思議に思ったからです。

映画の中では結構重要なパートだったのに、どうして私は忘れていたのかしら? 改めて原作を読み進めていくうちに、その理由がわかりました。

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映画では、弁護士の城戸が狂言回し的な役割となっていて、谷口大祐(X)の人生にフォーカスしたドラマとなっていました。でも小説ではあくまで弁護士の城戸が主人公であり、城戸のアイデンティティにまつわることや、東日本大震災に端を発して

妻との間に生じた心のすれ違いが、いつの間にか無視できないほどに大きくなってしまったことなど、城戸自身のドラマにも大きなボリュームが割かれていて、谷口大祐(X)の人生と平行するように描かれているのです。

でも、2時間の映画に、城戸の内省的なドラマまで深く盛り込むと、あまりにごちゃごちゃしてわかりにくくなってしまうので、谷口大祐(x)の人生に重点を置いて描いていたのは、正解だったと思います。

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小説の城戸は、平野さんが自らを投影させて作り上げたキャラクターではないかな~?と思いながら読んでいました。もちろん設定や背景など、全くの別人ではあるのですが、城戸の物事の捉え方や感じ方が、平野さんの考え方を投影しているように感じることが

時々ありました。私自身、平野さんの日頃の発言に共感することが多いので、城戸の考え方や行動には、全面的にではありませんが、理解できる部分が多かったです。

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映画でも小説でも、谷口大祐(X)の人生をはじめ、全体的に重苦しい雰囲気の中、谷口大祐(X)がすごした4年間の結婚生活が、かけがえのない時間として、優しい眼差しで描かれていたのが救いでした。

小説ではそれに加えて、谷口大祐(本人)の元恋人 美涼と城戸とのやりとりが、ほのかな恋心をにおわせながらコミカルに描かれていて、暗いお話の中で、一種の清涼剤のような役割をはたしていたのが楽しかったです。

小説も映画も、それぞれによかったです!

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本心

2021年09月01日 | 

平野啓一郎さんの最新作は、自由死が合法化された近未来の日本が舞台。シングルマザーに育てられた孤独な青年 朔也は、亡くなった母そっくりの VF (バーチャルフィギュア) を作り、自由死を望んだ母の本心を探ろうとします。

平野啓一郎「本心」

カズオ・イシグロ「クララとお日さま」に続き、こちらも AI が登場する小説です。とはいえ、未来を舞台にはしているものの、描かれているのはSFの世界ではなく、過去から現代、そして未来へと連なる人間の心の物語である、と私は思いました。

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今よりさらに格差が進んだ近未来。主人公の朔也はリアルアバターという仕事に就いています。ヘッドセットをつけて、依頼人に代わって思い出の地を訪れるなど、人の心に寄り添う仕事ですが、一方で依頼人から便利に使われることもしばしば。

朔也は、母の生前を探っていく中で、母と仲良くしていたという三好という若い女性と会い、その後三好が災害で行き場をなくしてからは、家に呼び寄せて母が使っていた部屋を貸し、いっしょに暮らすようになります。

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朔也と三好は、こっちの世界に住んでいて、あっちの世界に移り住むことは不可能だと半ばあきらめています。先の見えない閉塞感の中、読んでいて心が押しつぶされそうになることもありましたが、朔也があるきっかけでイフィーと出会って

アシスタントを務めるようになってからは、一気にエンタメ性が高まり、おもしろくなってきました。

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イフィーは、人々がバーチャルな世界で遊ぶ時に装うアバターのデザイナーで、巨万の富を築いていますが、いたって気さくで、こだわりのない、心の広い人物。(私の中では「ザ・ハッスル」に出てくるトーマスみたいなイメージ)

朔也と三好にとっては、あっちの世界に住むイフィーですが、彼には障害があって車椅子に乗っていて、人の手を借りなければ生活できないことにコンプレックスを抱いているのです。

朔也、三好、イフィーという3人の、微妙なバランスの上に成り立つ関係。私は、朔也が大切な人の幸せを願ってとった行動に、涙が止まらなくなってしまいました。

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この他、VFである母が介護施設でお話相手として仕事を始めるのも衝撃でした。人は亡くなってもなお、だれかの役に立てるというのは、ちょっとした希望を与えてくれました。(亡くなった後のことなんて知らんこっちゃないといってしまえばそれまでですが)

「クララのお日さま」との共通点もありました。AF、VFは、持ち主の心の穴を埋めてくれる存在ですが、持ち主がAF、VFなしに暮らせるようになることが、あるべき到達点なのだろうと思います。

今年一番のお勧めの小説です。(余談ですが、昨日 平野啓一郎さん原作の「ある男」の映画化が発表されましたね。原作がとてもよかったので、映画も見てみたいです!)

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クララとお日さま

2021年08月01日 | 

カズオ・イシグロの最新作は、病弱な少女ジョジーの幸せを願い、命を救おうと奮闘する AI の少女クララの物語です。

カズオ・イシグロ 土屋政雄・訳「クララとお日さま」 (Klara and the Sun)

出版を心待ちにしていた3冊の小説、本作、平野啓一郎さんの ”本心”、イアン・マキューアンの ”恋するアダム” と、偶然なことに3作とも AI を題材にした小説でした。今3冊目を読んでいるところですが、三者三様におもしろいです。

さて、本作の舞台は近未来で、AFであるクララの視点から物語が語られていきます。AF というのは artificial friend の略と解釈しましたが、時に A は associate、assistant、F は fellow であると感じる場面もありました。

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お店のショウウィンドウに立ち、気に入って買ってくれる子どもが現れるを待つクララは、鋭い観察眼を持ち、賢く、奥ゆかしい AF。ある日、クララを気に入ってくれる ジョジーという少女が現れますが、子どもというのは気まぐれなもの。クララは喜びを心に秘めながらも

自分が型落ちのAFであることに引け目を感じ、ジョジーに期待するまいとする健気が姿が愛おしく、私はクララが自分の分身のように思えてきました。ジョジーが再び母親とともに現れ、クララをジョジーの AF として迎えてくれたことに心から安堵しました。

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本作を読みながら、私がずっと考えていたこと。それは、AI は学習を重ねていくことによって知識や知能を高めていくことはできるけれど、はたして感情を育てていくことはできるのだろうか、ということです。相手の反応を学習していくことで、相手を怒らせない言い方や

適切な答え方を学習することはできるけれど、それは感情とは別のものだと思うのです。クララがジョジーをどこまでも献身的に支え、守り、自分の命に代えてまでもクララを助けようとすること、それは愛に他ならないものだと思います。

クララはお日さまを神様のように崇め、感謝し、祈りを捧げます。それは信仰といえるのではないでしょうか。AI をプログラミングするのは人間ですが、感情を高め、育て、豊かにしていくその先に、愛や信仰を芽生えさせることはできるのでしょうか。

そもそもそれを愛、信仰とよんでよいのだろうか。そんなことを考えながら読みました。

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ちなみにクララがお日さまに対して特別な感情を抱いているのは、クララがおそらく太陽光をエネルギー源としていて、すべての命の源であると理解しているからだと思われますが、自然崇拝っぽいところが日本的だなーと感じました。

そしてもうひとつ日本的だと感じたのが、本作が起承転結の形式になっていた(と私は感じた)ことです。起、承ときて、転のところで「私を離さないで」(Never Let Me Go) を思い出しました。そして「結」では「トイストーリー3」を思い出しました。

ご両親が日本人とはいえ、イギリスで育ち、イギリスの教育を受けたイギリス人であるカズオ・イシグロの作品の中に、日本人のアイデンティティが垣間見えたように思えて、興味深かったです。

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あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠

2021年07月17日 | 

アメリカのデータサイエンティストである著者が、AI・ビッグデータ活用の場で何が起こっているか問題点を具体例とともに紹介し、警鐘を鳴らします。

キャシー・オニール著・久保尚子訳
「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」
(Weapons of Math Destruction: How Big Data Increases Inequality and Threatens Democracy)

2013年に読んだ「ビッグデータの正体」がおもしろかったので、その後、AIやビッグデータをめぐる社会はどう変わったか、興味があったので読んでみました。

「ビッグデータの正体」は、ビッグデータの可能性というポジティブな部分にフォーカスしていましたが、その約5年後に出版された本作は、ビッグデータがもたらす弊害、あるいは害悪にスポットを当てて書かれています。

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英語の原題は、数学破壊兵器(Weapons of Math Destruction)。大量破壊兵器に例えた刺激的なタイトルですが、著者は数学が専門で数学が好きだからこそ、愛と戒めをこめてつけたのだと、数学専攻の私は受け止めました。

そして「ビッグデータの正体」を読んだ時にも書きましたが、AIやビッグデータが引き起こすさまざまな問題は、数学が悪いのではなく、利用する側の人間の倫理観の欠如が問題なのだと改めて実感しました。

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たしかに数学は、例えば原子力などと比べると静かなる兵器といえるかもしれません。例えば第2次世界大戦時には、数学者のアラン・チューリングがドイツの暗号を解読するためにコンピュータを考案し

しかも、暗号を解読したことがドイツ側に悟られないように、統計を使って被害を最小に抑えるべく、味方の軍艦を犠牲にしました。

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また数学を悪用することによって、直接的に命を奪うことはなくても、リーマンショックに始まった金融危機など、数字を操作することで、経済的に大きな打撃を与え得るという意味では、兵器に匹敵するかもしれません。

本書で「良いモデル」として紹介されている、ブラッド・ピットの映画でも知られる「マネーボール理論」でさえ、その後は他の球団もこの理論を取り入れるようになって、試合がつまらなくなったということも起きました。

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本書で問題としているのは、教師の能力の数値化や、大学の格付け、就職希望者の適性審査など。これらは、いずれも複雑にプログラムされた採点基準によって評価されますが、その結果、子どもたちや保護者から絶大な信頼を得ている教師が低評価が与えられ職を解かれる

といった問題が実際に起きたそうです。例えば生徒の共通テストの点数を上げることに重きを置けば、ひとりひとりに対する細やかな指導など、数値化しにくい部分が見逃されてしまうこともあり得ます。

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数学を悪用した目くらましによって、公正・公平性が失われ、恣意的に用いられないようにするためには、人間の良心と倫理観に頼るだけでなく、疑問を持つ目を養うことも必要であると考えます。

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工学部ヒラノ教授 シリーズ

2021年06月18日 | 

3つの大学で長年にわたって教授を務めた著者が、大学工学部の実情を軽快な語り口で綴る、人気シリーズからの3冊です。

今野浩「工学部ヒラノ教授」

数学者の藤原正彦さんのエッセイが好きで一時期よく読んでいましたが、最近ひょんなことからこのシリーズを知って3冊続けて読んだので、まとめて記録しておきます。

著者は筑波大学、東京工業大学、中央大学と3つの大学で学生を指導し、研究生活を送った工学部の先生です。

ヒラノ教授とありますが、ご自身の体験を綴ったエッセイで、シリーズはなんと20冊くらい続いていますが、リタイアされて全てのしがらみから解放されてから書かれたせいか、実名も数多く、リアルな内容がが刺激的です。^^;

いわゆる業界ものですが、こういうお仕事話は好きなので楽しみながら興味深く読めました。3つの大学での体験が書かれていますが、特に長く勤められた (表紙にもなっている) 東工大でのエピソードが中心となっています。

研究資金の話や、人事や組織に関する話など、国立大学と民間企業とはかなり事情が異なりますが、特に法人化されてからは省庁からの厳しいチェックが入り、本業である研究だけに没頭できない苦労が伝わってきました。

ヒラノ教授は私より少し上の世代ですが、私自身、理系の環境で育ってきて、日本の高度経済成長時代を肌で感じ、それを支える日本のものづくりの技術に誇りを持ってきたので、最終章のヒラノ教授のエンジニア賛歌に共感し、胸が熱くなりました。

今野浩「ヒラノ教授の事件ファイル」

シリーズ第2作目。物騒なタイトルにまさか内部告発?とどきどきして読み進めれば、どちらかというと今となってはもう時効となっているご本人の未遂?事件の数々、カラ出張やセクハラ疑惑、留学生賄賂未遂など、ユーモアを交えながら告白しています。

今は研究者の不正ができないよう、内部のチェックが厳しくなっているので、古きよき時代のお茶目な犯罪といったところですが、大学に限らずですが、不正は本人が望まなくとも、巻き込まれてしまうことがあるので恐ろしい。

衝撃を受けたのは、某大の人事抗争。大学は国の進むべき道を導く側面もあるので、私利私欲によって方向が曲げられることはいかがなものかと考えさせられました。当初の理念が守られていたら、日本にシリコンバレーが?できていたかもしれません。

今野浩「工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち」

シリーズ3冊目。読み終わってから、あれ?4人も秘書が登場したっけと思いましたが、最初の六本木秘書と、2番目のミセスKの2人のインパクトが強すぎました。^^;

特にミセスKは、ヒラノ教授が最後に中央大学を退官されるまで27年支えられた方であり、この本はヒラノ教授がミセスKに捧げる感謝状と理解しました。

***

これでしばらくヒラノ教授シリーズを読むのはお休みにしますが「工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行」はいずれ読もうと思います。タイトルが、藤原正彦さんの「若き数学者のアメリカ」と小澤征爾 さんの「ボクの音楽武者修行」を想起させ、楽しみにしています。

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少年と犬

2021年05月12日 | 

第163回 (2020年) 直木賞受賞作。ある一匹の犬と出会った人たちの運命の物語が、バトンのようにつながっていく連作小説集です。

馳星周「少年と犬」

馳星周さんはお名前は存じ上げていましたが、作品を読むのは本作が初めてです。そしてなんとなく既視感のあるお名前と思ったら、ファンである香港の俳優、映画監督の周星馳さんのお名前を逆にしてペンネームにされているそうです。

馳さんは、もともと裏社会に生きる人々を題材に描いたノアール小説がご専門のようで、それで私とは接点がなかったんだなーと納得しましたが、何故に犬の物語を??と思いましたら、馳さんは大の犬好きでいらっしゃるのだそうです。

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読んでみると、犬が主人公といっても、そこに甘く感動的な物語の展開はありません。ひとつひとつの小説に登場する人たちは誰もがやっかいな問題を抱えていて、犬=多聞と出会うことで、幸せな結末を迎えるわけではないのです。

犬が主人公ということで、感動を求めて泣く気満々?で読み始めると、ある意味裏切られるかもしれません。この小説では、犬=多聞が旅先で出会う人々が、ことごとく犯罪と結びついていて、この作品が実はまぎれもないノアール小説であることに気づかされます。

ただ、どこにでもいるような人々、ふつうに生活していて起こりうるできごとが書かれているわけではないので、私にとってはなかなか共感しづらい部分がありました。

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6つの連作の中で、私が一番気に入ったのは「老人と犬」です。この物語には裏社会の人が登場しないので、そういう意味で私にはとっつきやすかったのかもしれません。

ラストに向けては結末を予測しながらはらはらと引き込まれ、私は「ごんぎつね」を思い出しました。

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絵を見る技術 / 13歳からのアート思考

2021年05月02日 | 

最近読んだ、アートの見方に関する本2冊です。

秋田麻早子「絵を見る技術 名画の構造を読み解く」

絵を見る時に、単に好きとか嫌いとかの感覚だけでなく、もっと論理的に理解する助けになればと思って読んでみましたが、期待していた内容とはちょっと違っていました。

私が知りたかったのは、絵を見る時にどういう点に注目したらよいか、ということですが、どちらかというと文化や歴史、宗教といった背景に関する解説を求めていたのだと思います。

本作は絵のフォーカルポイントや、バランス、構成、配列、色彩といった事柄ですが、私はふだんからこうしたことを意識しながら見ているので、それほど大きな発見はありませんでした。それにあまり意識しすぎると、絵を見るのがつまらなくなってしまいますしね。

どちらかというと絵を見る技術というよりは、自分で絵を描いたり、写真を撮ったりする方にとって、役に立つ知識、といえるかもしれません。

末永幸歩「「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考」

この本はおもしろかった! 筆者は中学・高校の美術の先生で、従来の知識・技術偏重型の美術教育に問題意識を持ち、アートを通して「ものの見方を広げる」ことに力点を置いたユニークな授業を展開していらっしゃるそうです。

私は、知識や技術も基礎として大切だと思っていますし、過去の積み重ねがあって、現代の、そして未来のアートがあると思うので、従来型の美術教育も意味があったと思っています。実際、中学の時の美術史の授業もすごくおもしろかったですし。

でもこの本には、現代アートを理解するためのヒントや、かちこちの頭を柔らかくするアイデアがたくさん詰まっていて、これまでにない視点で書かれているのが斬新でした。

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タイトルは ”13歳からの” とありますが、大人の方こそが楽しめる本だと思います。たとえば「リアルさ」に関しての記述では、私自身の経験と照らし合わせて、うなづくことが多かったです。

よくピカソの作品は見た通りに描かれていないと言われますが、実は写実的と言われる作品も、必ずしも見た目通りに描かれているわけではないのです。私は東山魁夷の「緑潤う」を見た時に、それを実感しました。⇒ 水を描く @山種美術館

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誰もやっていないことを生み出すことがアートの本質であり、そのためにアーティストたちは苦悩するのでしょう。以前ポロックの伝記映画を見た時に、ポロックが「やりたいことは全部ピカソが先にやっちまった」と言ってたことを思い出します。

でも彼はその後に、pouring や dripping、action painting という独自の手法を生み出したのですものね。アートはイノベーションと言い換えることができるのかも。

新しい目を見開かせてくれる楽しい本でした。

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