@「稽古」と「練習」の違い。稽古では師は教えない。弟子は師を模倣する、あるいは師の芸を盗むこと、練習とは教えるから習うが基本であると言う。 また「稽古」と「修養」とは心身を鍛え(耕し)、伝統(文化)を引き継ぐこととある。
日本独特の「道」(武道、茶道、柔道など)でのすべて「稽古」は師・先輩の真似をして自分のもの(型)にすることである、と言うことになる。 師・先輩を超えると言うことは、自分の「型」が完成すると自然と体が動いていく、と言う。(体が覚えている状態) その例が伊藤若冲。最初に狩野派、その後中国画を学び、そして最後は独自の生態観測した動物などの絵を「型」(動植綵絵等)にした。
『稽古の思想』西平直
「稽古」とはいかなる思想か。武道や芸道などの道の思想とはどう関係するのか。修行や修養、はたまた練習、レッスン、トレーニングとは、どうちがうのか、どう同じなのか。そこに秘められた「智恵」が意味するものとは。「稽古」を知の地平に解き放ち、東洋的心性のありかを探る。東洋的身体知の世界を開く注目の書。
ー「稽古」「修養」=Self-cultivationと言う(英語は1単語)
自らの心身を耕し(cultivate)、文化(culture)を受け継ぐこと
ー「稽古と練習の違い」
稽古における師は教えない。弟子は師を模倣する、あるいは師の芸を盗む
練習とは教えるー習うが基本
ー「うまくゆく時」と「うまくゆかない時」の違いは体が自然に動く時が「うまくいく時」
日頃の稽古で身体(心身)で覚えいる
ー「稽古」の思想は一面において、暗黙知を暗黙知のまま(意識せずに)働かせることを求めつつ、他面においては、その暗黙知を暗黙知に留めず(意識化し)問い直す視点を持つ
ー「型」が身につくと楽になり、型を意識することが無くなる「練習は覚えるためにするが、稽古は忘れるためにする」と言う
ー鳥の雛が卵から孵る時「啐(そつ)」を雛が内側から突く音、「啄(たく)」親鳥が外側から突く導く音が絶妙なタイミングでされると言う(弟子と師匠の域)
ー「技」は完成させ、持続させることと言う。持続させるためには内面の成熟が不可欠である。 それは「平常心」(禅語ではびょうじょうしん)区別しない心を持つこと、「離見の見」自分の姿を外側から見ること。
ー禅僧沢庵和尚「無心の心」(全体の流れを見る力)
ー「身心一如」(しんじんいちにょ)=「喝」、「身」を重視し、「我」を離れる
ー「稽古」が進むと「体が自然に動く」無意識に肉体が動き始める
ー茶道の千利休「稽古とは一より習い、十を知り、十より還るものとのその一」
稽古は十まで学んだのち、再び一に還る。十に到達して終わりではない。十に至ったら、再び、最初に向かって戻ってこなければならない」
