獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:ショウさん登場(4)

2022-02-06 01:32:46 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■ショウさんとの対話 2       投稿日: 2014年9月30日

ショウさんとの対話のページのコメント数が67にもなりましたので、新しいページに移らせていただきます。ショウさんならびにショウさんへのコメントはこちらにお願いします。
FACEBOOKを見ていたら、こんな文章に出会いました。
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【「常識」について】
数十年前の日本では常識だったことが今では常識ではなくなっている、ということがあります。
たとえば数十年前の日本では、個人の恋愛よりも「家」を維持することの方が重要なこととされていました。長男は両親と同居して家と墓を守るのが常識だったわけですが、今では「家」や「墓」を守ることよりも個人の恋愛の方が重要なこととして扱われるようになりましたし、お葬式も随分と簡素になりました。
若い人の意識だけが変わっただけではなくて、年配の人達の側も意識が変わりました。年配の人達も、簡素なお葬式に「最近のお葬式はこんなもんだ」と受け止めますし、なかなか結婚しない息子や娘に対しても「最近では珍しいことでもない」と受け入れることが出来ます。つまり常識が変わったわけです。
常識が変わるには時間がかかりますが、すべての常識は時間の経過と共に変化していきます。あなたは常識として「人命は尊い」と思っているでしょうが(私も思っていますが)その常識が通用しなかった時代もあったのです。常識はゆっくりとしかし確実に変化します。
常識が変わってしまうと、いったいあの常識はなんだったんだろう?という気持ちになります。
「墓があるから、私はこの土地から離れられない」という人の気持ちが現代に生きる我々には理解できませんが、ほんの数十年前の日本にはそういう理由で人生の岐路での決断を下した人がたくさんいたわけです。
同様に、今あなたが大切だと思っている常識も数十年後にはなくなっている可能性があるわけで、数十年後にはあの常識は何だったんだろう?なぜそんなものに従ってしまったのだろう?という気持ちになっているのかもしれません。
一方で、常識があるから社会の秩序が保たれているのは事実で、常識というのが世の中に必要なものであることは間違いありません。社会を構成する人々が「常識として、こんなことをしてはダメだ」と思っているおかげで、盗みや強盗や強姦をしてしまう人がごく少数しかいないわけです。
ただ常識は社会の秩序を守るための道具であって、ひとり一人の人間を幸せにするための装置ではありません。
ひたすらに常識を守ればその先に幸せな生活が待っているわけではありません。常識には元々そんな機能は備わっていないのです。常識とはひとり一人の人間を幸せにするために存在しているものではなく、あくまでも社会の秩序を維持するために存在しているものでしかありません。
つまり、一人の人が自分なりの幸せを見つけるためには、自分の頭で考えて自分の意思で行動する以外に方法がありません。ただひたすら常識に従って「みんなと同じ」からハミ出さないようにしていても、その先に幸せが待っている可能性は非常に低いでしょう。そもそも幸せと常識には関係がないのですから。
「常識からみればズレているが、自分にとってはどうしても必要なこと」とか「周囲から見れば非常識に見えるかもしれないが、どうしてもやらなければいけないこと」とかが誰の人生にもあります。
そこから目をそらして「みんなと同じ」にしがみつくのは正しいことではありません。数十年後にあの常識は何だったんだろう?なぜそんなものに従ってしまったのだろう?という気持ちにならないためには、自分の頭で考えて自分の意思で行動する以外に方法がありません。
あなたは、どう思いますか?
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まったくそのとおりだと思います。よく創価は常識がないと言われますが、それは創価にしか通じない常識の中でものごとを判断しているからだと思います。
>つまり、一人の人が自分なりの幸せを見つけるためには、自分の頭で考えて自分の意思で行動する以外に方法がありません。
学会員さんがあれだけ非常識でいられるのは、この「自分の頭で考えて自分の意思で行動する」ということを禁じられているからでしょう。すべて上からの指導が価値判断の基準となり、そこからはみ出ると不幸になると脅され続けます。とくに生まれた時からそうした基準で育てられた子どもは、大人になっても一般的な常識のほうを「非常識」と捉えてしまい「正しいのは自分のほうだ」ということから逃れられないので、社会との距離を感じることすらできずにいます。これは創価に限らず新興宗教と呼ばれるもの全般に言えることで、彼らは自分で考えることを放棄することと、自分たちだけは最高の生き方をしているんだという、ある種の陶酔感のなかで、自分たち以外の人を見下しながら生きることになります。独善的な思考と選民主義。日蓮仏法がこの要素を満たしているからこそ、多くの新興宗教が日蓮の教えを利用し、信者を陶酔感の中に封じ込めて、絶対服従の組織の中で奴隷のように働かせているのだと考えられます。
したがって、このような地獄から抜け出すには、上の文章にあるように「自分の頭で考えて自分の意思で行動する」しか他に方法はないのではないでしょうか。創価の常識から抜け出すためにも、自分で考えることの大切さを、あらためて感じるものです。
それにしても世の中には考えられないほどの非常識な人間がいるものです。このブログにもたくさんの方がコメントしていただいています。ときどき、ほんとうにときどきですが、それこそ常識では考えられないような言動をする方もいます。あえて承認制にしなかった時期は、途中から見事に荒らされました。それからしばらく休止したのですが、荒らしというのは休止せざるを得ないほど心が疲弊するものです。幸い、承認制とともにブログを再開してからは、そのようなコメントは最初から無視しますので、さすがにほとんど心ないコメントはなくなりました。そして現在のようにたくさんの誠実なコメントをいただくようになり、アクセス数も飛躍的に伸ばすことができ、多くの皆さんに創価学会の問題を考えていただけるサイトになったのではないかと、感謝しています。しかし、ネットの世界はそうしたいい面もあれば、得体の知れない闇がぽっかりと口をあけていることも確かです。わたしたちはそうしたネットの両面をしっかりと捉えながら対応していかなければなりません。とくに創価のような宗教がらみのサイトに関しては特に要注意だと思います。
そのようなネットの中で、みなさんとの有意義な対話が実現できたことは、まさに奇蹟のようなものだと思います。かつて創価を信じていたもの同士ということもあるでしょうが、これからはその創価の実態を知っている私たちだからこそ、この戦後最大の宗教詐欺の実態を社会へ向けて伝えなければならない立場でもあると考えます。
ときどき決められた順番を待って登場しているかのように、現役の活動家の方が登場しては消えていきました。その経過を見ていただくとわかるように、全く価値観が違ってしまった方との対話はほんとうに成立しません。そもそもそれを目指すべきなのかと言うことすらよくわからないでいます。

現在、これまでとは違ったニュアンスの現役活動家のショウさんが、私たちとの対話の試みに参加してくださっています。まだ対話は始まったばかりで、この先どのような展開になるのかわかりませんが、少なくともこれまでとは違った創価学会の一面があきらかになるのではないかと楽しみにしています。これまで考えられないような方もいらっしゃいましたので、たいていのことでは驚かなくなりました(笑)。またショウさんの登場で、この9月だけのアクセス数が10万を越えることができました。どこの誰がやってるかもわからないブログのアクセス数が一か月で10万というのも珍しいのではないでしょうか。それだけみなさん(その大部分は創価に関係してきた方だと思われます)の創価に対する関心が強いということでもあるでしょう。ショウさんとの対話を通して、またいっそう創価学会が人間をどのようにしてきたのかという現実があきらかになると思います。今後ともよろしくお願いいたします。


●ショウ (2014年9月30日 17:54 )
ショウのコメント15
皆さんこんばんは。今日は一つコメントしてから残業です。
シニフィエさん
このような場を提供していただき、いつもありがとうございます。
これは「対話」で間違えないですよね?(笑)褒めてみたり、けなしてみたり、慌ただしいですね(笑)どちらが本心ですか?
めがねさん
>なんかキャラの変わり方が出禁になった人に似ているような・・・。
きっと反対意見の多い中で孤独に戦ってるとテンションが上がってきてしまうのでしょうね。
そうですね(笑)複数の方を一度にお相手するのは、予想以上に消耗します。
ところで、似てるのはどの人にですか?出禁になった人たくさんいますよね(笑)
Akiraさん
コメントありがとうございます。よろしくお願いします。
Akiraさんはとてもお友達思いな方なんですね。また、私のことも気遣ってくれて、ありがとうございます。感謝いたします。
Akiraさんのご質問は少し難しい命題だと思います。この質問について考えるには、ある程度仏法の「因果論」を勉強する必要があるからです。
その上で、逆に質問なのですが、創価に精神疾患の方が多いというのは、統計を取られたということですかね?国の統計によると、精神疾患を患っている方は、おおむね40人に1人くらいです。潜在的な患者さんを含めればもう少し多くなると思いますが、それ以上多いということですか?
すみませんが、素朴な疑問です。それにお答えいただいた後に私の考えを述べさせていただきますね。
凛々子さん
はじめまして。よろしくお願いします。
また、コメントありがとうございます。
順番に答えさせていただきますので、しばらくお待ち下さいね。
それでは一旦失礼しますね。

●Akira (2014年9月30日 21:46 )
ショウさまへ
東京の創価学会本部近くにある創価学会員専用の精神科クリニックの長である於保哲治氏がそのように言われていたと記憶しています。
残念ながら私が実際に於保哲治氏にお会いして直接聞いた話ではありませんので”現在でも創価学会には圧倒的な数の鬱病をはじめとする精神疾患を患う会員さんがいらっしゃると言われています”という表現に留めております、確証が無いので断言までは出来ません。
それから私の友人やその友人(学会員)に多くの割合で境界性人格障害・社会不安障害・パニック障害・非定型うつ病などを罹患され病院に通院されている方が多いのです、これは断言できますがそれが全体の何パーセントになるか数字で表すことは出来ません。
以上でショウ様からのご質問に対する答えになりますでしょうか?


解説
創価学会員に精神疾患の患者が多いかということが議論されています。

>東京の創価学会本部近くにある創価学会員専用の精神科クリニックの長である於保哲治氏がそのように言われていたと記憶しています。

私も、無理な学会活動で精神的にストレスが高じてうつ病などの精神疾患になる人は多いと思います。
しかし、ブログ「うっかり創価学会はじめました」のけいすけさんやショウさんのように、創価学会の信仰で精神が落ち着き病状が良くなった方もいるでしょう。
要は、確信をもって信仰を貫けるか、心に沸き起こる疑問に蓋をしてストレスを溜め込むかの違いではないでしょうか。

対話ブログが非公開になったため、これら以外のコメントを参照することはできません。
残念です。
是非、シニフィエさんには、対話ブログを再開していただけることを望みます。

獅子風蓮