syuの日記・気まま旅

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横浜 元町 中華街

2014-01-14 | 気まま旅
「神奈川宿」
神奈川湊は、武蔵国橘樹郡神奈川(現・神奈川県横浜市神奈川区)にあった湊(港)である。
神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことである。
しかし、古代から東京湾内海交通の拠点として、六浦(神奈川県横浜市金沢区)・品川(東京都品川区)・富津(千葉県富津市)・木更津(同木更津市)などとともに、当地に港が存在したことは確認されている。
神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となった。
江戸時代には東海道が整備され、1601年に神奈川へ宿場が置かれた。
神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。
神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊があり、南に戸部湊、野毛湊があった。

安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。
同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。
これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。

開港地に、ハリスは「品川」を要求したと云う。船舶の寄港にてきしていた、幕府役人、水野・岩瀬の外国奉行等は熱心にハリスの発言に耳を傾けたと云う。ハリスも日本を第二の中国にしてはならないと、実見した様子を説いたと云う。
井伊直弼は、条約調印の覚悟を決め、調印場所は、横浜港を譲らなかったと云う。その横浜のJR石川駅を下車し商店街を歩いた。

「元町商店街」
1859年の横浜開港までは半農半漁の村落であったが、1860年の横浜開港に伴って立ち退いた旧横浜村住民がこの地に移住したことで横浜本村と呼ばれるようになる。
明治維新の頃には外国人向けの商店街として栄え、「元町」と改称された。
開港後の山下町に外国人居留地が、山手に山手居留地がそれぞれ設けられ、両地区を結ぶ場所にあった元町通りは、居留者らが日常的に多く行き交うところとなり、外国人を相手にした商売が盛んに行われるようになる。
明治が始まってしばらく経つ頃には居留者がさらに増え、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジなどのインターナショナルスクールの開校や、当時は日本には珍しい喫茶店やベーカリー、洋服店、洋風家具店などが軒を連ね、文明開化を支えた。これが今の元町商店街の原型となる。
1970年代には、当時流行していたファッションスタイル「ニュートラ」に対抗する「ハマトラ」(横浜トラディショナルの略)というスタイルが同商店街のキタムラ、ミハマ、フクゾーなどにより生み出されるなど、独自の文化を色濃く残すエリアの一つ。

元町商店街入り口のアーチ       商店街               厳島神社鳥居
    

「元町厳島神社」
角を曲がると赤い鳥居が見える。鳥居をくぐり正面の階段をのぼると正面に本宮、左に皇大神宮、その左隣に金刀比羅宮が鎮座していた。
神社は、今から約700年以前より元横浜村州干島に鎮座し、清水弁天、州干弁天を、元禄年間に分祀し、元町1丁目の増徳院仮殿に御神体を
奉安していましたが、明治維新の神仏混淆の禁止により増徳院から分離し、
厳島神社として、社殿を造営、元町の鎮守となったとのこと。
湧水は社殿左側に壁面の脇に小さな池があり、龍の像から口から池に注いでいた。敷地外の左側脇、水道が引かれる前は生活用水として最近まで使われていたと云う。

                        拝殿


厳島神社は、市杵島姫命・田心姫命・ 湍津姫命と呼ばれ、安芸の宮島(厳島神社)は 、推古天皇の御代に、宗像三女神を祭って建立された
神社で、何らかの関係があるのであろう。

神社と小さい公園が隣接し、境内に桜の古木と公園に、銀杏の太木がり、市の百選の一つと書いてあった。

境内にある桜                境内                 公園内の銀杏(樹木は、市の百選に)
    

横浜市中区、市の南西部で北部に「堀川」に沿っての商店街、幕末の開港当時に横浜村の住人が移住させられたのが始まりと云う。
山の手に住む外国人相手の商店街が出来ていった。
今は、「浜っ子」と観光の地として発展している。

「堀川」堀川の上には首都高速横 羽線・狩場線の高架橋が被さる様に架かっている。
歩いていると柱に「田中賞」受賞のプレートが、高架橋は地域環境読に調和されている事により受賞されたと云う。
    

「横浜中華街」
1859年、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や
外国人外交官の雇い人が来住した。
香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かったと云う。
その後、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に
関帝廟、中華会館、中華学校などを建て、横浜中華街の原型と云う。
日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で、中華料理店は、少なく、1872年には、柳麺の屋台が出始めていた程度であった。

1894年に、日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまうが、戦争が終わり、1899年に条約改正により居留地が廃止されると、
中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許され増加して行く。
袁世凱に追われ日本に亡命した「孫文」もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続け多と云う。

横浜の観光地のひとつ、横浜中華街、 日本一大きな中華街で、世界のチャイナタウンの中でも最大規模を誇る。
牌楼と呼ばれる門をくぐると、赤や黄色の華やかな看板がぎっしり、横浜中華街にあるお店は、約600店。


「孫文」
蒋介石と孫文は、義理の兄弟、 上海において、聖書の印刷で財を成した「チャーリー宋」の三姉妹、長女・靄齢は、孔子の直系子孫といわれる資産家の孔祥熙と結婚している。 次女・慶齢は孫文の秘書から妻となり、 孫文死後は国民党の中央委員、中華人民共和国副主席を歴任し、
三女・美齢は青年仕官だった蒋介石と結ばれている。蒋介石は、義兄の孫文に認められて、 国民党内の右派代表として頭角。

「大后宮」
 媽祖とは航海の安全を司る女神であり,中国の北宋時代に実在した林氏の娘だといわれている。
現在,その出生地である福建省􄈬洲島に媽祖廟の本山を置いており,また中国や台湾各地に多くの廟がある。
媽祖は,広東,福建,浙江,台湾などといった海辺地方の人々にとって海上守護の信仰対象となっている。
また,航海に深く関係して,華人や華僑の人々にとっても信仰の対象になりえた。 

                   中国人の鎮守「関帝廟」


媽祖は,海を渡り文化や生活様式が全く異なる諸外国に移り住み,その地の人々や環境に適応しながら生活する華僑や華人と深く関わりのある神だといえる。「横浜中華街と媽祖信仰」は、 横浜中華街もまた古くから媽祖と関わりを持って、横浜開港後しばらくして建立された1代目関帝廟(1871~1923年)の廟内と清国領事館内に,媽祖が祀られていたという。

                    グルメタウンの中央に
    

台南大天后宮は、赤嵌樓の南側に位置し、明朝最後の王族である寧靖王・朱術桂が台湾に移り住んで、1663年に住まいとして建てられた
王宮「一元子園亭」でした。
1683年、清・康煕帝の時代に、明朝の残存勢力は全て滅ぼされ寧靖王も首を縊って自決します。
英明なる康煕帝は、王宮跡に媽祖を封じて媽祖廟に改装させ、同時に媽祖に「天后」の称号が与えて、廟は「大天后宮」と呼ばれるようになりましたと云う。

横濱中華街 春節祭りが、2月・国慶節10月は、中華街の二大イベント。
  

次回は、山下公園からJR関内駅へ