山々を切り開いて通路した道「切通」、三方が山に囲まれた鎌倉の交通要路であり、軍事的な防御の要であった。「切通七口」は、
仮粧坂 -鎌倉駅徒歩20分、むき出しになった岩肌、曲がりくねっている道。
亀ヶ谷坂ー北鎌倉駅15分、亀も引き返したと云う亀返り坂とも云う。
娯楽寺坂ー娯楽寺駅3分、現在は拡張され舗装に、娯楽寺開山「忍性」が開いたと伝わる。
大仏切通ー長谷駅15分、藤沢、武蔵に通じている要路、圧巻。
巨福呂坂ー八幡宮裏、山ノ内へ抜ける、現在新道に旧道は通れない。
あさいな切通ー鎌倉駅からバス「十二所神社」防衛上、重要な鎌倉の生命路。
名越切通ー鎌倉駅バス逗子方面「緑が丘」外敵を防ぐ為の置石がある、房総方面の要路。谷を鎌倉では、「やつ」と読む
例)おおぎがやつ扇ガ谷
「北条政子」の名演説、(吾妻鏡)
(訳)皆、心を一つにして聞きなさい。これは、私の最後の言葉です。源頼朝殿が、平家一門の朝敵を滅ぼし、ここ、関東にわれわれの幕府を作った。それ以来、皆の官位は上がり、収入も増えた。それもこれもすべては頼朝殿のお陰である。その恩は山よりも高く海よりも深い。
しかし、今、その恩を忘れ、天皇や上皇をたぶらかす者があらわれ、朝廷より理不尽な幕府討伐命令が出された。
「名こそ惜しむ者」は、朝廷側についた藤原秀康・三浦胤義らを早々に討ち取り、三代に亘る源氏将軍の恩に報いなさい。
さあ、もし、この中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら、今すぐ名乗り出なさい。・・・・・。
演説は「承久の乱」の時、京都の朝廷から北条義時討伐の院宣(上皇の命令)が出され、動揺している御家人に、北条政子が演説した。
「承久の乱」とは、鎌倉時代の1221年に、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府に対し(正式には鎌倉幕府の執権・北条義時(政子の弟)に対し)、討伐命令を全国に出したことに始まる争乱である。
結果的に武家政権の鎌倉幕府が勝利し、後鳥羽上皇は壱岐へ、順徳天皇は佐渡へ配流された。これによって武家政権は完全に確立され、朝廷をも支配した。
材木座・滑川・由比ヶ浜・仏法寺跡・稲村ヶ崎・七里ヶ浜・小動岬(神社)・腰越海岸・江の島と続く「湘南海岸」
「寿福金剛禅寺」は、市扇ヶ谷、山号ー亀谷山、宗派ー臨済宗建長寺派、鎌倉五山三位、本尊ー釈迦如来、創建年ー1200年(正治2年)
開基ー北条政子、栄西(開山)。
札所等ー鎌倉三十三観音24番・ 鎌倉二十四地蔵18番・ 鎌倉十三仏4番(普賢菩薩)
文化財ー木造地蔵菩薩立像(鎌倉国宝館に寄託)・銅造薬師如来坐像・喫茶養生記(重文)
「寿福 金剛禅寺」 北条政子・三代将軍実朝 菩提寺
創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年頃と推定されている。
1247年に火災にあい、1258年の火災では一宇を残さぬまで焼失している。
これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。
寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心、円爾(弁円)、蘭渓道隆、大休正念など、多くの名僧が入寺。
鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院であると云う。
本堂(寺院内立ち入り禁止)
総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ禅寺様式。
仏殿は1664年の再建である。
禅寺の雰囲気が 「鐘楼」
境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、
北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。
(総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない)
「やぐら」
山中の斜面部に多く四角形の穴をあけた洞穴で、羨道と呼ばれる入り口を経て、玄室と呼ばれるやぐら内部に至る。
その大きさは、一辺1m - 5mで、大体直方体の形をしている。
鎌倉時代のやぐらは、羨道を持つが、室町時代のやぐらは入り口から直接玄室となっていることが多い。
多くやぐらの入り口(鎌倉期のやぐらであれば、羨道の入り口、羨門(せんもん))には木製の扉がつけられていたようで、いくつかのやぐらには扉をつけた痕が残っている。
やぐらと石塔 政子と実朝の母子の墓
重要文化財ー 木造地蔵菩薩立像-鎌倉時代の作。鎌倉国宝館に寄託。 銅造薬師如来坐像-鎌倉時代の作。神仏分離の際、鶴岡八幡宮から移されたもの。 喫茶養生記
県指定文化財ー 木造栄西禅師坐像。その他ー 釈迦三尊像-仏殿の本尊。中尊の釈迦如来坐像は、高さ2.7メートル。
室町時代の作だが、この時代には珍しい脱活乾漆造である。
源氏山裏手の崖に、 鎌倉時代の墓
三重県・千早城・元弘の乱」は、1331年に倒幕計画が発覚すると、後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、楠木正成は河内赤坂において呼応した。
鎌倉幕府は討伐軍を派遣して鎮圧し、後醍醐天皇を隠岐島で流し、関係者も処罰されたが、正成は翌年にも千早城に拠り抵抗を続けた。
幕府方は、上下赤坂城を落とした後、楠木正成の1,000人の兵が守る千早城を大軍で包囲。
古典「太平記」は幕府方の兵力を「100万」と記している。わずか1,000人の兵でも正成が抵抗を続けられたのは、石や丸太を崖から落としたり、鎌倉側の兵に油をかけ火を放った、などの奇策を使ったからだといわれる。
地元の土豪などが、正成の軍に味方し、幕府軍を挟み撃ちするような状態になったという。
幕府は、有力御家人足利尊氏や新田義貞の離反を契機に滅亡した。楠木氏は後醍醐天皇が開始した「建武の新政」に重用されている。
今日は大雨で海も荒れていた
「新田義貞」1301-38 足利尊氏との抗争で討死。
義貞は、鎌倉攻略で、ここ稲村ヶ崎に兵を進めたが、敵が天険し兵を進められずにいた。そこで、義貞は、竜神に祈り太刀を海中に投げ入れ
「潮を万里の外に退ヶ給え」と唱えると、海は干潟となり、鎌倉を攻略できたと云う。義貞は引き潮の頃合いを見てと云う。
義貞の遺児義顕・義興も南朝方に尽くしたが共に悲劇的最期を遂げている。
上野国新田荘・現在の群馬県太田市周辺を開発。執権 北条高時は、自害する。(870余人が旅路を共にしたと云う)
若者たちの姿も大荒れでいない
次回は腰越方面へ。