「畠山重忠」 1164-1205 剛勇廉直典型的鎌倉武士、秩父一族の重能の子、母は三浦義明の娘、父は平家方で衣笠城攻めで義明を自害させている。間もなく源頼朝に従い、平家追討戦で武功を上げる。
頼朝上洛の際、先陣となって御家人最大の名誉に輝いている。二度目の妻は、北条時政の娘で、畠山重保が生まれている。
重保は、時政の後妻「牧方」」の娘婿「平賀朝雅」と口論し、その後、時政夫妻は、畠山重忠・重保父子討滅を企てた。
鎌倉に呼ばれ、重保討たれ、重忠も百数十騎を率いて鎌倉へ向かうが北条義時軍に討たれる。畠山一族全滅。
埼玉、寄居の「畠山重忠公史跡公園」
埼玉県の 鎌倉街道上道の寄居町塚田から北東へ3キロほど行ったところに 畠山重忠のゆかりの地がある。
川本町畠山は、地名の通りに畠山重忠の生まれた という館跡がある。現在重忠公史跡公園に。
鶴岡八幡宮に近い
「源頼朝」 1147-99 鎌倉幕府初代将軍、武家社会の創始者、源義朝の嫡男、母は、熱田大宮司藤原季範の娘。義朝は、「平治の乱」で
緒戦勝利するが平清盛に敗れ殺され、頼朝伊豆へ流される。20年流人生活、以仁王の令旨を受け挙兵する。
伊豆の目代・山木兼を討つが、石橋山の戦いで大庭景親に敗れ房総に逃げ、ここで、武士を集め鎌倉に入り、「富士川の戦い」で平家方を
敗走させ、常陸・佐竹氏を討って関東を固め「後白河院」より支配権を獲得し、弟範頼・義経を代官とし軍勢を派遣する。
木曽義仲と平家一族を滅亡させた。挙兵後10年、後白河院が崩れ「征夷大将軍」となる。
落馬・暗殺で死亡説。
「北条政子」1156-1225 頼朝の妻・北条時政の娘、二男二女を生む、長男「頼家」将軍・政子尼、弟義時と北条権力拡大、13人合議制に
頼家は無視し、妻方比企氏と北条氏と対立するが破れ、弟次男「実朝」を将軍にし三代目となる。
白旗神社の所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で持仏堂が, 頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていた。
「頼朝までの源氏」
奥州における戦乱 「前九年の役」 を平定した 源頼義 の狙いは、奥州の地に源氏の根を張ることでしたが、朝廷からは ゛伊予守" を授か
るだけという不本意な結果に終ってしまいます。
その 20年後、頼義 から子の 義家 の代のとき、またも奥州の地に戦乱が起きます。後に 「後三年の役」 と呼ばれている戦い。
陸奥守として下向した 義家 は戦いを平定し、父が成し得なかった宿願を達成しようとしますが、朝廷からは 「私闘への介入であり、恩賞
はない」 と。
義家 の陸奥守解任の報がもたらされ、憤激した 義家 でしたが、自分のために働いてくれた武士達のために、自腹を切って恩賞を与え、絶大な信頼を得ることが出来た。
東国における武門の棟梁 「源義家=源氏」 を大いに印象付け、後の 頼朝 にとって。
源頼朝の墓地
「鶴岡八幡宮」
1063年、本拠地とする河内源氏2代目の「源頼義」が、「前九年の役」での戦勝を祈願。
京都の石清水八幡宮護国寺・河内源氏氏神の壺井八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まり。
1081年に、河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復。
1180年、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、宮を現在の地である小林郷北山に遷し、社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備。
1191年に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請し、1208年には神宮寺が創建。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。
鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退、戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。
江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。
境内には、方五間の多宝大塔、東照宮も存在した。
宮前は、三の鳥居 橋を渡ると源氏池・平家池が 舞殿
承久元年(1219)1月、鎌倉幕府三代将軍「源実朝」が甥の公暁に暗殺される。享年28歳。
公暁も北条義時に成敗される。享年20歳。
この日の鎌倉は、昼間は快晴だったのに夕方から雪が降り始めたといわれて、午後6時頃、鶴岡八幡宮で武士として初となる右大臣拝賀の儀式が行われる為、その準備を御所(幕府)で行っていた実朝の下に父・源頼朝以来の名臣である「大江広元(72歳)」がやって来て涙を流しながら「束帯の下に略式の鎧を着たほうがいいです」と訴えた。
広元は、“生まれた時と頼朝が亡くなった時以外は涙を流した事が無い”と噂されるくらいの武将だったので、その様子に驚いた実朝は広元の訴えを聞く事としたのですが、側に居た、文章博士(歴史の教授をする文官)の「源仲章」が、
「大臣大将に昇進する人が束帯の下に鎧を着たなどという前例はない」と反対。
準備が整った実朝は、自らの髪を一本抜いて御所内の庭で花を咲かせている梅を見ながら
「出でていなば 主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
例え主が居なくなっても、梅よお前は春になったら忘れず咲けよ」という意味の不吉な和歌を読んだ
やがて出発の時刻となり実朝が御所の南門から出立する時に白鳩が鳴きました。これも不吉な証とされていた。
御所の南門から鶴岡八幡宮の楼門までは700m程しか離れていないのですが、実朝の行列は約1000人、夕方から降り出した雪は2尺(60センチ)ほど積もり行列も遅れ、先頭が鶴岡八幡宮の楼門に到着してもまだ御所から出れなかった人々も居たと云う。
楼門に到着した実朝は、剣を持つ役の「北条義時」(実朝の母・北条政子の弟)と共に楼門をくぐろうとすると突然義時が精神に異常をきたしたので、剣持ちを「源仲章」に変更、義時はそのまま屋敷へ戻っている。・・・・・。
「大銀杏」
鶴岡八幡宮のシンボル。樹齢800年とも1000年余ともいわれていたが、平成22年3月、強風のために大銀杏は根元から倒れ、大銀杏は3つに切断され、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植。残る2つは境内に保存。
若い銀杏の木が確認。 三代将軍「実朝」は、大銀杏に身を隠していた「公暁」に暗殺された。
「源実朝」 1192-1219 源氏断絶、頼朝の次男、実権は母の北条家「時政」、和歌「金槐和歌集」を残す、右大臣拝賀の礼で暗殺。
公暁(二代将軍頼家の子)は、鶴岡八幡宮階段脇の大銀杏に身を隠していたと云う。
「舞殿」 源 義経 とその一行は、奥州平泉までの逃避行、その途中で、愛妾 静御前 は鎌倉方に捕まり、頼朝 より舞いを命じられます。
「吉野山 峯の白雪ふみ分けて 入りにしひとの あとぞ恋しき」 「しづやしづ しづのをだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」
このような舞台で、静 は歌いつつ舞ったと云う。「鶴岡八幡宮での静の舞」
「楼門」
大銀杏を左手に見ながら、長い階段を登ると、楼門。 楼門をくぐると豪壮華麗な 本殿 。
現在の祭神は3柱。「八幡神」と総称される。
応神天皇 第15代天皇・ 比売神・ 神功皇后 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母。
拝殿
国宝ー神服類と古神宝・刀剣武具・硯箱。重文ー建築物・一の鳥居(徳川家慶建立)・各末社・彫刻・古文書・境内と若宮大路の参道(段葛)
など多数ある。宝物殿や資料館(有料)
本殿を囲む楼門
「JR横須賀線」は、戦争中の日本海軍軍港都市の横須賀への連絡を目的に建設された路線。
戦時中には日本の多くの鉄道路線が不要不急路線として休止・廃止となり、後に金属供出にも応ずる一方、横須賀線は横須賀から久里浜までを延伸、物資不足の中レールを調達するために、すでに東海道本線の本線ルートから外れていた御殿場線を単線化し、その分のレールを転用したとされる。
このように戦前の横須賀線は軍事上の重要路線として、比較的短距離の盲腸線にもかかわらず、格別の扱いを受けてきた。
終戦後から、やっと湘南ライナーが通じ都市と近くなったが、それまでは、東海道線の大船駅で乗り換え、直線回数は少なく
「鎌倉駅」は、不便であった。
鎌倉から先の横須賀までは単線でホームも短く、利用者も少なかった。
鎌倉駅には、湘南海岸を走る、私鉄江ノ電が藤沢まで通じている。駅を出ると、すぐ「小町通り・若宮大路」に入れる。
JR横須賀線「鎌倉」駅
次回も、市内を。