「執権」
北条時政ー1203年ー1205年・ 北条義時ー1205年ー1224年・ 北条泰時ー1224年ー1242年・北条経時ー1242年ー1246年・
北条時頼ー1246年ー1256年・ 北条長時ー1256年ー1264年・ 北条政村ー1264年ー1268年・北条時宗ー1268年ー1284年・
北条貞時ー1284年ー1301年・ 北条師時ー1301年ー1311年・ 北条宗宣ー1311年ー1312年・ 北条煕時ー1312年ー1315年
北条基時ー1315年ー1316年・ 北条高時ー1316年ー1326年・ 北条貞顕ー1326年ー 同3月・ 北条守時ー1326年ー1333年・
「五代執権・北条時頼」1227-63 善政の影の独裁的執権で、前将軍九条頼経とその側近等を執権剥奪の陰謀を知り、一派処刑している。
九条家を朝廷の関東申次から排除して「西園寺家」にかえている。有力御家人三浦氏・千葉氏を滅ぼしている。
裁判の迅速・公平のため引付衆を新設した。将軍九条頼嗣から宗尊親王にかえた。
徒然草には、母の松下禅尼が時宗に倹約の徳を教えている。下級武士御家人を重んじ「味噌を肴に酒を交わしたと云う。
出家後も独裁者であった。
北条時頼
奈良時代の「正倉院文書」に「鎌倉郡鎌倉郷」の名が記され、古くから使われていたと云う。実際は、鎌倉が、舞台に登場したのは1180年
「源頼朝」が鎌倉入りし幕府を成立させ、武家の府となってからである。
東国のへんぴな一農漁村に過ぎなかったが、道路の整備や将軍の御所、御家人の屋敷、社寺等の造営が相次ぎ行政的な機能を持った都市に
変えたからである。鶴岡八満宮・若宮大路を中心に大路が東西に走り拡大していった。
「建長寺」は、円覚寺と同じ山ノ内にある臨済宗建長寺派大本山。山号ー巨福山、開山蘭渓道隆・開基北条時頼・鎌倉五山第一位。
1253年、我が国最初の宋様式禅宗専門道場として、「巨福呂谷の刑場跡」に建立と伝えられている。
「天下禅林」人材を広くに求め育成する禅寺。鎌倉五山第一位
関東で禅宗の七堂伽藍が揃っている唯一の寺院、だが、たびたびの火災で堂塔は焼失している。
開山の印塔の他は、江戸時代になって将軍家の寄進を受け創建当時とはほとんど変わりなく、総門・三門・仏殿・法堂・庫裏が直線上に
並ぶ禅宗様伽藍の配置で復元している。
総門、1783年の建立。1943年に京都の般舟三昧院から移築されたもの。 三門(山門)1775年の建立、重要文化財指定
「曹洞宗」宗憲に、本宗は、釈迦牟尼仏を本尊とし、高祖、承陽大師及び常済大師を両祖とするとある。(山尊仏としてお祀りする)
「臨済宗」釈迦牟尼如来を大恩教主と仰ぎ、、とあるが、本尊は、衆生縁により一定しないと云う。如心寺派では、お釈迦様を御本尊とし
迦葉尊者、阿難尊者、達磨大師、無祖大師、、伝灯菩薩として崇敬しているが、例えば観音菩薩を本尊として祀っているのもある。
建長寺は、
創建の時期については、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には、1251年(建長3年)から造営が始められ、同年に落慶供養が行われたとある。造営開始時期については、異説もある。1253年に完成したとされる。
寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、
北条氏の本拠地でもあった。
建長寺の境内が広がる谷(やつ)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。
建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである。
心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。
山門
伽藍配置は中国式であり、寺内では日常的に中国語が使われていたという。
中國の蘭渓道隆の禅風は、中国宋時代の純粋禅を受け継いだ厳格なものであったという。
道隆は、1262年 京都の建仁寺に移ったが2年後に鎌倉に戻って建長寺住持に復帰し、その後、文永の役の際には中国側のスパイと疑われたためか、甲斐(山梨県)に流されたこともあったが、のちに許されて鎌倉に戻り、1278年、建長寺住持に再度復帰。
同じ年の7月、異国日本で生涯を閉じた。66歳であった。
法堂、重要文化財、禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。方三間、裳階付、銅板葺き。1814年の建立、内部には千手観音坐像を安置。
仏殿
仏殿、重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。芝増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋を建て替えに際し、譲渡移籍。
方丈、「竜王殿」とも称する。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築。 庭園は夢窓疎石の作といわれる
「日本の禅」日本には、13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされているが、9世紀(平安時代前期)に、皇太后橘嘉智子に招かれて
唐の禅僧・義空が来日して檀林寺で禅の講義が行われたが、当時の日本における禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録が残っている。
日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。
臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅も道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することから始まるが、それ以前に大日房能忍が多武峰で日本達磨宗を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑、義介らは元日本達磨宗の僧侶であったことが知られている。
鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになった。
また、五山文学や水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。
唐門、重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築。
「国宝」
「蘭渓道隆像」、蘭渓道隆筆「法語・規則」 絹本淡彩蘭渓道隆像 -1271年に描かれた頂相(肖像画)。
賛(絵の上部に書かれた文章)は像主蘭渓道隆の自筆である。
大覚禅師墨蹟 法語規則 - 「墨蹟」は禅宗高僧の遺墨を指す用語。
大覚禅師(蘭渓道隆)自筆の「法語」と「規則」である。
「法語」には寺内の僧に対し、怠慢をいましめ、修行に専念すべき旨が書かれ、「規則」は修行僧の日常生活について細かく規定したものである。洗面の時間帯から簾の巻き上げ方まできわめて厳格に規定されている。
梵鐘 - 三門右手の鐘楼に架かる。国宝。高さ約2.1メートル。建長寺創建当時の数少ない遺品の1つとして貴重である。建長7年(1255年)、鋳物師物部重光の制作。
銘は蘭渓道隆が撰(作文)し、筆を執ったもので、文字は陽鋳(字形が彫り込まれるのではなく立体的に浮き出している)となっている。
撞座の位置が高い点など、全体に復古的な作風を示す鐘である。
銘文中の「建長禅寺」は、日本における「禅寺」の語の初見とされている。
「坐禅修行」によって得た悟りを通して各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。
もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達してのちに、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。
建長寺から鷲峰山に抜ける天園ハイキングコースに、又反対のJR横須賀線寄りの葛原岡ハイキングコースで源氏山に出られる
「神奈川県立近代美術館 鎌倉」
鎌倉市雪ノ下の鶴岡八幡宮境内に建つ神奈川県立近代美術館の鎌倉館は、日本で 最初の公立近代美術館として
1951年に開館。設計は、20世紀を代表する建築 家ル・コルビュジエの愛弟子、坂倉準三氏(1901-1969)によるもの。
「別館」
鎌倉館から北鎌倉方向に徒歩で350メートルほど行ったところに、1984年開館の鎌倉別館があります。
設計者は、大高正人氏。
山に挟まれた住宅地に溶け込むように意匠的に工夫されている。
開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)、料金ー250円 休館日月曜日(祝日は開館)、
次回は、鶴岡八幡宮方面に。
北条時政ー1203年ー1205年・ 北条義時ー1205年ー1224年・ 北条泰時ー1224年ー1242年・北条経時ー1242年ー1246年・
北条時頼ー1246年ー1256年・ 北条長時ー1256年ー1264年・ 北条政村ー1264年ー1268年・北条時宗ー1268年ー1284年・
北条貞時ー1284年ー1301年・ 北条師時ー1301年ー1311年・ 北条宗宣ー1311年ー1312年・ 北条煕時ー1312年ー1315年
北条基時ー1315年ー1316年・ 北条高時ー1316年ー1326年・ 北条貞顕ー1326年ー 同3月・ 北条守時ー1326年ー1333年・
「五代執権・北条時頼」1227-63 善政の影の独裁的執権で、前将軍九条頼経とその側近等を執権剥奪の陰謀を知り、一派処刑している。
九条家を朝廷の関東申次から排除して「西園寺家」にかえている。有力御家人三浦氏・千葉氏を滅ぼしている。
裁判の迅速・公平のため引付衆を新設した。将軍九条頼嗣から宗尊親王にかえた。
徒然草には、母の松下禅尼が時宗に倹約の徳を教えている。下級武士御家人を重んじ「味噌を肴に酒を交わしたと云う。
出家後も独裁者であった。
北条時頼
奈良時代の「正倉院文書」に「鎌倉郡鎌倉郷」の名が記され、古くから使われていたと云う。実際は、鎌倉が、舞台に登場したのは1180年
「源頼朝」が鎌倉入りし幕府を成立させ、武家の府となってからである。
東国のへんぴな一農漁村に過ぎなかったが、道路の整備や将軍の御所、御家人の屋敷、社寺等の造営が相次ぎ行政的な機能を持った都市に
変えたからである。鶴岡八満宮・若宮大路を中心に大路が東西に走り拡大していった。
「建長寺」は、円覚寺と同じ山ノ内にある臨済宗建長寺派大本山。山号ー巨福山、開山蘭渓道隆・開基北条時頼・鎌倉五山第一位。
1253年、我が国最初の宋様式禅宗専門道場として、「巨福呂谷の刑場跡」に建立と伝えられている。
「天下禅林」人材を広くに求め育成する禅寺。鎌倉五山第一位
関東で禅宗の七堂伽藍が揃っている唯一の寺院、だが、たびたびの火災で堂塔は焼失している。
開山の印塔の他は、江戸時代になって将軍家の寄進を受け創建当時とはほとんど変わりなく、総門・三門・仏殿・法堂・庫裏が直線上に
並ぶ禅宗様伽藍の配置で復元している。
総門、1783年の建立。1943年に京都の般舟三昧院から移築されたもの。 三門(山門)1775年の建立、重要文化財指定
「曹洞宗」宗憲に、本宗は、釈迦牟尼仏を本尊とし、高祖、承陽大師及び常済大師を両祖とするとある。(山尊仏としてお祀りする)
「臨済宗」釈迦牟尼如来を大恩教主と仰ぎ、、とあるが、本尊は、衆生縁により一定しないと云う。如心寺派では、お釈迦様を御本尊とし
迦葉尊者、阿難尊者、達磨大師、無祖大師、、伝灯菩薩として崇敬しているが、例えば観音菩薩を本尊として祀っているのもある。
建長寺は、
創建の時期については、鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には、1251年(建長3年)から造営が始められ、同年に落慶供養が行われたとある。造営開始時期については、異説もある。1253年に完成したとされる。
寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、
北条氏の本拠地でもあった。
建長寺の境内が広がる谷(やつ)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。
建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである。
心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。
山門
伽藍配置は中国式であり、寺内では日常的に中国語が使われていたという。
中國の蘭渓道隆の禅風は、中国宋時代の純粋禅を受け継いだ厳格なものであったという。
道隆は、1262年 京都の建仁寺に移ったが2年後に鎌倉に戻って建長寺住持に復帰し、その後、文永の役の際には中国側のスパイと疑われたためか、甲斐(山梨県)に流されたこともあったが、のちに許されて鎌倉に戻り、1278年、建長寺住持に再度復帰。
同じ年の7月、異国日本で生涯を閉じた。66歳であった。
法堂、重要文化財、禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。方三間、裳階付、銅板葺き。1814年の建立、内部には千手観音坐像を安置。
仏殿
仏殿、重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。芝増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋を建て替えに際し、譲渡移籍。
方丈、「竜王殿」とも称する。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築。 庭園は夢窓疎石の作といわれる
「日本の禅」日本には、13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされているが、9世紀(平安時代前期)に、皇太后橘嘉智子に招かれて
唐の禅僧・義空が来日して檀林寺で禅の講義が行われたが、当時の日本における禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録が残っている。
日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。
臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅も道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することから始まるが、それ以前に大日房能忍が多武峰で日本達磨宗を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑、義介らは元日本達磨宗の僧侶であったことが知られている。
鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになった。
また、五山文学や水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。
唐門、重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築。
「国宝」
「蘭渓道隆像」、蘭渓道隆筆「法語・規則」 絹本淡彩蘭渓道隆像 -1271年に描かれた頂相(肖像画)。
賛(絵の上部に書かれた文章)は像主蘭渓道隆の自筆である。
大覚禅師墨蹟 法語規則 - 「墨蹟」は禅宗高僧の遺墨を指す用語。
大覚禅師(蘭渓道隆)自筆の「法語」と「規則」である。
「法語」には寺内の僧に対し、怠慢をいましめ、修行に専念すべき旨が書かれ、「規則」は修行僧の日常生活について細かく規定したものである。洗面の時間帯から簾の巻き上げ方まできわめて厳格に規定されている。
梵鐘 - 三門右手の鐘楼に架かる。国宝。高さ約2.1メートル。建長寺創建当時の数少ない遺品の1つとして貴重である。建長7年(1255年)、鋳物師物部重光の制作。
銘は蘭渓道隆が撰(作文)し、筆を執ったもので、文字は陽鋳(字形が彫り込まれるのではなく立体的に浮き出している)となっている。
撞座の位置が高い点など、全体に復古的な作風を示す鐘である。
銘文中の「建長禅寺」は、日本における「禅寺」の語の初見とされている。
「坐禅修行」によって得た悟りを通して各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。
もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達してのちに、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。
建長寺から鷲峰山に抜ける天園ハイキングコースに、又反対のJR横須賀線寄りの葛原岡ハイキングコースで源氏山に出られる
「神奈川県立近代美術館 鎌倉」
鎌倉市雪ノ下の鶴岡八幡宮境内に建つ神奈川県立近代美術館の鎌倉館は、日本で 最初の公立近代美術館として
1951年に開館。設計は、20世紀を代表する建築 家ル・コルビュジエの愛弟子、坂倉準三氏(1901-1969)によるもの。
「別館」
鎌倉館から北鎌倉方向に徒歩で350メートルほど行ったところに、1984年開館の鎌倉別館があります。
設計者は、大高正人氏。
山に挟まれた住宅地に溶け込むように意匠的に工夫されている。
開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)、料金ー250円 休館日月曜日(祝日は開館)、
次回は、鶴岡八幡宮方面に。