「江の島」は、藤沢市南部、相模湾岸の境川河口にあたる島、境川の運ぶ土砂によってできた片瀬海岸との陸繋島である。
島の形が「江」の字に似ている。
新第三紀の凝灰岩、砂岩を基盤として関東ローム層に覆われれ、南岸に関東大震災(1923)のときに起した海食台がある。
「真白き 富士の嶺 緑の江の島」と歌われ風光明媚で、鎌倉と結んで湘南の観光地である。
裸弁天を祀る「江島神社」は、琵琶湖の竹生島、安芸の宮島の三弁天の一つ。江戸時代から庶民の参詣が盛んとなり、参道に門前町が発達し、
1877年E・モースが臨海実験場・1883年サムエル・コッキングが植物園を開設している。
展望台は、1951年に、64年ヨットハーバー、灯台、県の施設と賑やかになり、名勝の大橋で結び県指定史跡に指定。
面積ー0.38km2.周囲約4km。
片瀬東海岸
「歌川広重」が、江戸時代の江の島を描いている「相州江之島弁財天開帳参詣群衆之図」富士山・帆かけ船・緑の江の島・続々と群衆が
弁天堂を目指す絵である。
1964年オリンピック東京大会ヨット競技がここ江の島で開催されていうる。日本で初めての競技用ハーバー、約1000隻収容できる。
ダイヤモンド富士・パール富士と富士見スポット江の島、今日は大荒れの大雨
モース記念碑公園、大森貝塚発見者のエドワードSモース博士は、江の島に東洋初の臨海実験場を開設し、江の島に一カ月滞在し
海洋生物の研究。我が国の海洋生物学の発祥地である。
北緑池・オリンピック記念噴水池・モーズ記念碑が
小田原馬車鉄道(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していたため、それと連絡する形で当初は普通の鉄道を敷設しようとしたが、資金が集まらなかったため事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で
「豆相人車鉄道」を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。
原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えている。
1907年当時
路線距離:小田原(早川口) - 熱海間25.3km、 駅数:14、 複線区間:なし(全線単線)、 電化区間:なし(全線非電化)、 動力:蒸気機関車、全線の内13kmは熱海街道との併用軌道になっている。
1895年頃の「豆相人車鉄道」に、坂口駅跡があったのであろう?。
江ノ電「江ノ島駅」前に坂口駅跡が
吾妻鏡によれば源頼朝は、1182年奥州平泉の藤原秀衡を調伏する為、京都高尾神護寺の「文覚上人」に命じて
「弁財天」を岩崖に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進した」とある。(江島神社・展望灯台、奥津宮の鳥居)
江ノ電「江の島駅」 龍燈 門前街の青銅の鳥居
明治期の江の島俳壇「永野泉山」の句(碑もある)
「明治子に もどることしや いわひきぬ」
「住みなれて 居てもすずしや 島の月」
「江島神社(辺津宮)」
島には、三つの宮が、辺津宮・中津宮・奥津宮を総称して江島神社と呼ぶ。宮にはそれぞれ、海の守護神である女神が祀られている。
「辺津宮」は、その本社で、田寸津比貴命が祀られ、1206年に僧 良真が荘厳な社殿、「辺津宮」したと云う。
現在は、1976年に改築されている。
仲見世通りを抜けると赤鳥居・瑞心門・杉山検校の墓と検校がつまずいた福石・道標。検校は管鍼術考案する
中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想動物として描かれ、我が国には密教曼荼羅の中の唐獅子か9世紀に渡来し定着、
以後仏法のみならず邪悪なものを退け国家鎮護を祈念する形代として飾られるようになる。
瑞心門唐獅子は、御祭神の守護とあわせて参拝者の厄災なきことを祈願している。
瑞心門と唐獅子が迎える
「八坂神社」は、京都の八坂神社と同様に、祇園精舎の守護神牛頭天王を祀る社。毎年7月中旬に行われる「神幸祭・江の島天王祭」は、
ここ八坂神社と腰越の小動神社の神輿が、海上渡御を行われる勇壮な祭りで、県祭りの50選にも選ばれている。
「奉安殿」裸弁財天・妙音弁財天・八臂弁財天。
安芸の宮島、近江の竹生島と並び三大弁財天の一つである。七福神の紅一点としても人々の信仰を集めている。鎌倉時代には、戦勝祈願
八臂像、江戸時代から芸能・音曲の上達祈願二臂像と進行目的が変わってきていると云う。
裸弁財天
「さながらに 生きるが如く 見まつりぬ 御神ながらも 肌ゆたかなり」沼田頼輔の歌碑。与謝野晶子は、長谷大仏の美男賛歌と好一対を
さしていると評されている。
八坂神社・辺津宮・奉安殿・石碑、古碑・境内などが
「荒井城址公園」は、真鶴駅近くにあるかつて荒井城があった城跡を公園に整備した場所。
荒井城は、後三年の役 1083年に源義家の配下であった荒井実継の本拠地だと言われているが、その後鎌倉幕府の時代には、荒井氏に代わり源頼朝に仕えた湯河原の有力御家人である「土肥氏」の持ち城。
戦国時代には後北条氏の烽火(のろし)台として機能していたと伝えられている。
城址とは言うものの、城跡を彷彿とさせる跡はほとんど無く、空堀と呼ばれる跡が辛うじて残るのみとなっている。
真鶴駅から徒歩5分程度 公園入口 園内へ
「土肥 実平」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
桓武平氏良文流中村宗平の次男。小早川氏の祖とされる。相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を勤め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。(現在のJR東海道本線「湯河原駅」から城願寺城山の辺りが居館)
案内板 土塁・堀 公園中央の広場
真鶴海岸・漁港。 江戸城の石はこの港から
石橋で敗れた源頼朝等が逃げ込んだ真鶴港
1180年石橋山で敗れ隠れた「岩窟」真鶴港波打ち寄せていたとある
「うたい坂」は、、源頼朝が石橋山の合戦に負け敗走中に、土肥実平が無事を祝い再起を願って、うたい踊ったのに由来するという。
そして、坂を下り道祖神と石碑の前を通り過ぎると、目的の岩海岸が現れる。
源頼朝は、最終的にここから船に乗り房州(千葉県)まで逃れたという。
「岩海岸」は、入江のような地形になっていて、中央部は砂浜があるものの、左側は岩場、右側は漁港になっている。
正面には、「かながわの橋100選」にも選ばれた岩大橋が架かっている。
「土肥実平」は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となる。
富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられている。
土肥氏と西国との関わりはここに始まり、平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を続けた。
湯河原城主土肥実平は頼朝の再起を祝い踊り謡ったとある
「源頼朝船出の浜」は、石橋山の戦いに敗れ、1180年8月28日房総に船出した浜が、ここ岩海岸である。
夏は、海水浴場で賑わう。
岩海岸から千葉県房総に
次回は、真鶴三ツ石冬の花へ 。