「ソフイア通り」
•四ツ谷駅 (JR線・丸の内線・南北線)•麹町駅 2番出口 (有楽町線)•赤坂見附駅 D出口 (銀座線・丸の内線)•永田町駅 7番出口 (半蔵門線・有楽町線)通りの角が、紀尾井ホール、ホテルニューオータニ ザ、メイン・喰違見付跡・料亭福田屋・オフイスビル・上智大学・聖イグナチオ教会・
四谷駅新宿通り、右折すると麹町方面。ソフイア通り左手は、桜の名所の外堀土手沿いでになる。

ホテルオータニから、ここ一帯は、江戸時代、「尾張名古屋藩徳川家の麹町邸」であった。
寛永14年(1637年)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々、尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置。
義直は、1603年、甲斐府中藩主、ついで1607年、尾張清州藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地とした。
尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続く。
明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名。
四ツ谷駅方面に



「上智大学」
16世紀にキリスト教イエズス会の宣教師として来日したフランシスコ・ザビエルが、日本の首都に大学を建学したいという意思をローマへ書き送っており、上智大学はこれが同大学設立に結びついたとしている。
数世紀を経た後の1906年に、ローマ教皇ピウス10世はイエズス会に対し、日本へ宣教師を派遣して高等教育機関を設置することを要請され、これを受けて1908年、日本に大学を設立するために3人のイエズス会員が来日、1911年 財団法人上智学院を設立、1913年に専門学校令による大学を開校。
1928年には大学令による大学となり、文学部と商学部から成る旧制大学となる。
第二次世界大戦の敗戦後、上智大学はGHQ/SCAPの兵士とその子弟の高等教育機関として指定され、国際部夜間部が設立。
同部は比較文化学部への改組を経て、現在の国際教養学部の源流、1957年までは男子のみが入学を許可されていたと云う。
2013年には創立100周年を迎える伝統校。
上智大学正門 聖イグナチオ教会


「聖イグナチオ教会」
カトリック麹町教会、カトリック東京大司教区の教会およびその聖堂。
イエズス会に運営を委託されており、上智大学に隣接。聖堂名が、「聖イグナチオ」。
一般的には聖堂名に因んで「聖イグナチオ教会」として広く知られている。四ツ谷駅。
教会内とホール


「犬山城」最後の藩主、「成瀬正肥」は、新政府でも高官に任ぜられ、当初の男爵から子爵に昇進。
その末裔の成瀬正勝(1906-73)は東大教授で近代文学の研究家。
その明治以降の膨大な文学書コレクションは戦災ですべて焼失したが、戦後再び約2万册を収集し直し、現在は博物館明治村の「旧名古屋衛戍病院」の中に「成瀬正勝文庫」として収蔵されていると云う。
(「麹町界隈 わがまち人物館-成瀬隼人正屋敷跡」より)]
江戸時代の麹町と四谷御門付近

「六番町」
江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。
大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれている。
実際には、一番町がさらに堀端一番町、新道一番町というように細分化されており、江戸時代の大番組の組番号。(現在の町目の境は一致しない)

四ッ谷寄りの道は「成瀬横丁」と呼ばれていたと云う。「番町文人通り」と呼ぶにふさわしい一筋の道と云う。
住んでいた時期は必ずしも同じではなかったが、この通りの周辺に、東から西に向かって、
藤田嗣治、島崎藤村、初代中村吉右衛門、泉鏡花、有島武郎、有島生馬、里見とん、菊池寛、武田鱗太郎、明治女学校、与謝野晶子・寛夫妻、網野菊、
串田孫一、川喜田半泥子といった人々が住んでいた。
「六番町の有島邸」は、大正・昭和文学の梁山泊だった。
白樺派の作家として知られる有島武郎をはじめ、その弟の洋画家で作家でもあった有島生馬や作家・里見とんなどが育ったのが下六番町(現:六番町3)
政府の役人から実業界に転じた彼らの父・武が明治29年に大きな長屋門がある広大な旗本屋敷を買い自邸とし、 有島武郎の死後は、有島兄弟たちが住む一方、広大な敷地の一部を作家・菊池寛が一時住み、文藝春秋社もここに置いたとある。
JR四ツ谷駅前新宿通り 昔は堀今は鉄道が



「雙葉中学校・高等学校」
六 番町(旧東京府東京市麹町区)に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等 学校。
高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校。キリスト教系。
校名の「雙葉」はフタバアオイから取られたと云う。
サンモール修道会が1897年、東京の赤坂葵町に語学塾(英語・フランス語・西洋作法・西洋技法)を開き、その町名から「雙葉会」と名付け、フタバアオイは2枚の葉をつける。それと同じように、西洋女子と日本女子が手を携えてほしい、との願いが込められたと云う。
創立以来、カトリックの精神に基づき、一人一人を大切にし、神に与えられたその人ならではの使命に気付かせる教育。
伝統校・雙葉 JR中央線



外濠の北東側には飯田橋駅付近から四ッ谷駅南側にかけて、外濠から中央線の線路を挟んで土手上に遊歩道が続いている。
新見附橋付近、市ケ谷駅付近、四ツ谷駅付近でそれぞれ街路により分断されている。
四ツ谷駅西側には「外濠公園総合グラウンド」として、かつて濠があった場所にナイター設備や観客席を備えた野球場やテニスコートなどの運動施設が設置されているが、ここと他の部分はJR中央線の線路で隔てられている。
分断されている部分の間は徒歩数分以内で行き来できる。四ツ谷駅付近は「無番地」の地としても知られる。
公園付近にはオフィスや学校が多く、散策以外にも通勤通学、昼の休憩にも利用され、公園内には桜の木が多く、花見の名所としても有名。
春には桜が咲き乱れる。
年々変わっていく四谷見附

「靖国通り・一口坂」
いもあらいざかとも読み、「いも」はあばた、疱瘡、天然痘などの皮膚病を指し示し、種痘の無かった江戸時代、神仏に治療を祈願するのが最適の方法
「いも」を霊験あらたかな水で清めて「洗う」ところから、名前が。
東京では、神田駿河台、港区六本木、そして九段北の三ヶ所がある。
九段北のこの坂付近には大きな沼があったようですが、疱瘡を治してくれる神様の記録は無い。
濠に架かる新身附橋にでる。
道路と鉄道の間に残る 石垣



「ソメイヨシノ染井吉野」
日本原産種のエドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で生まれたと考えられる日本産の園芸品種。
日本では明治の中頃より、サクラの中で圧倒的に多く植えられた品種と云う。
老木が残っているが手入れがされずに


「宗教法人・靖国神社・全国護国神社本社」
大村益次郎 1824-69 長州藩士・幕長戦争で参謀を務め戊辰戦争で幕府軍彰義隊討伐で功績、明治2年兵部大輔となる。博徒に襲われ死亡
日本陸軍の創設者で靖国神社の創建に力を尽くした。西郷隆盛立像は、上野公園。
荒川区南千住「円通院」 1868年の上野山門・上野彰義隊見せしめ放置死体の戦死者無縁墓と碑を建て供養した和尚(仏磨和尚)。
(私の先祖は、貧乏旗本の彰義隊にいました)
靖国通り 大村益次郎像 拝殿



「千鳥ヶ淵戦没者墓苑・無名戦士の墓」は、国立墓地、満州・中国・南方諸島で収集された無名戦士者8.7万体の遺骨が祀られている。
次回は、江戸城。