syuの日記・気まま旅

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鹿 島 神 宮

2014-11-26 | 気まま旅
「御船祭」
常陸国風土記ー「毎年7月に舟を造りて津宮に奉納する」
外海の太平洋(鹿島灘)内海の北浦と古代東国文化の要衝であった。「御船祭」は、鹿島に鎮座し関東開拓鎮撫にあたる「鹿島の大神」を奉ずる人々
に伝えられた「祭」は、1700年前の応神天皇の御代より伝わる「神宮最大の祭典」と云う。
12年に一度の式年大祭が、今年平成26年9月2日・十二支の午年一巡に斎行された。
天下泰平・願成就・魔陣退散・邪気・不景気を祓う一陽来復の願いが込められた祭りと云う。

「鹿島立ち」陸上大行列(約2000人の供奉者が大船津・北浦水上一之鳥居・桟橋神輿と共に「御座船」へ(見どころ)

  

竜頭で飾られた「御座船」は、80余と云う。その御座船は千葉県香取市潮来の加藤洲まで、船団御渡は、2時間と云う。
「香取神社」で御迎祭があり、又船団は、一路帰途へ、翌日「行宮祭」斎行・本宮に「還行祭」が行われ大祭は終わりを告げろと云う

鹿島の山車ー仲町「天照大神」・大町「塚原ト伝」・新町「聖徳太子」・桜町「ホ花咲耶姫」・角町「武蓺槌大神」
1857年曳き回す山車の歴史を持っている。鳴物は、江戸中期以降「成田詣・東国三社詣」の往来の人々の中で伝えられてきたと云う。

  

「降魔山・護国院・経音寺」
古くより武神、東国一帯の信仰をあつめる「鹿島神宮」の大町通りから住宅の街並みを進むと、
「北関東三十六不動尊霊場第二十九番札所」-降魔山護国院経音寺。

鹿島神宮入口から歩いてわずか五分の所に位置する名刹、山門より玉砂利を敷き詰めた境内を見渡すと、正面に華麗な威容を見せる本堂、
左手に小作りながら穏やかな美しさに満ちた大師堂が佇む。
本堂には、通称厄除不動尊をはじめとする五大明王が安置。
五大明王とは不動明王のほか、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大尊。

元明天皇の和銅二年 709年、開基と云う。千三百有余年もの寺歴で、鹿島神宮境内にあったと云う。
    

足利尊氏の信仰を受けて国家安全の護摩祈祷を修し、護摩堂と呼ばれる.
1677年、現在地。この地方は大師信仰の盛んな所で、毎年4月1日から15日まで大師尊巡錫が行われているが、これは実に江戸時代から続けられている。
北関東三十六不動尊霊場はすべて東密と呼ばれる真言宗か台密と呼ばれる天台宗のお寺と云う。密教では大日如来を教主、大日如来は、お不動さんに悪を滅ぼす様命を下された仏様である。

    

「鹿嶋神社」常陸国一宮 旧官幣大社 
祭神は、天照大神の命を受けた「経津主大神」。
大和朝廷の兵站基地であったことから武神として崇敬され、奈良時代には、九州防備に赴く東国の防人たちが、武運長久を祈願して出立したと云う。
鹿島立ちはここら生まれた。

    

「祭頭祭」は、3月9日として伝わり、812年住吉大社・香取神宮と共に、20年に一度の式年造替の制度が定められたと云う。
皇室や藤原氏・源頼朝等の武家崇敬を受けている。



重文ー本殿・石の間・幣殿・拝殿・奥の院本殿・楼門
国宝ー直刀(頼朝が寄進)   重文ー梅竹蒔絵鞍など。



楼門ー1634年、徳川頼房公奉納、我が国三大楼門の一つ、檜と朱色の門・扁額は、東郷平八郎元帥直筆と云う。

鹿島と鹿
神宮の鹿は神の使いとされ、神鹿と呼ばれている。奈良公園の鹿は、鹿島の発。サッカーの「鹿島アントラーズのアントラーズ」は、鹿の角
勝利の神と云う。

    

「要石」
地震除けなら要石と云い、地震を起こす大鯰の頭を押さえていると古くから言い伝えられる。
光圀公も鹿島を訪れ7日7晩部下に掘らせたが一向に底が見えずと記録にある。

社殿・1619年秀忠公奉納 重文    巨木の神木の根回り12mで樹齢1200年と推定
    

本殿ー鹿園ー奥宮ー要石ー御手洗をつなぐ参道は、老樹古木の緑が続く。

    

奥の宮は、1605年、徳川家康公が「関ヶ原」の戦勝で、鹿島神宮の本殿として奉納死と云う。二代将軍秀忠公は、社殿奉納の際、奥の宮は現在地に移動

  

奥宮からさらに細い道をたどって要石に、境内に参詣客は少なめ、
拝殿先の奥参道ではまったく人影を見なかった。
薄暗い樹林の道では、砂利の足音が、

要石に参拝。石の鳥居、石の柵の中の砂からそれらしきものが頭を少し出している。
            
 芭蕉句碑           「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」 詠まれた句ではない.
  

             芭蕉句碑           「此松の実生せし代や神の秋」
    

            一茶句碑           「大なゑにびくともせぬや松の花」


「御手洗池」
滾々と湧き出す清水、清らかな水の御手洗池。
鹿島七不思議として、大人も子供も池に入っても水面が胸の高さを超えないと云われている。
昔は、ここが神宮の玄関で、神聖な場所と云う。



古代の霞ヶ浦は広大な内湾をなし、北は北浦、南は印旛沼、西は手賀沼からさらに今の利根川・鬼怒川流域に広がっていた。
東の入口に「鹿島神宮」。

            浪高き鹿島が崎にたどり来て、東の果てを今日見つるかな    夫木抄

 枕詞に「あられ降り鹿島」ともいひ、鹿島の神(武甕槌たけみかづち命)は、天孫降臨に先立って高天原より天降って来た武神とされる。

            み空より跡垂れ初めしあとの宮、その代も知らず神さびにけり  夫木抄

            めぐり逢ふ初め終りの行方かな、鹿島の宮に、かよふ心は    慈円

    

これで成田ー鹿島の旅は終わります。