佐原ー香取ー「成田線」は、利根川に沿って銚子方面に、「鹿島線」は、利根川を渡り、霞ケ浦常陸利根川を渡り潮来ー「北浦」を渡りー
サッカ―で知られたカシマスタジアムのある終点「鹿島神宮駅」に到着し、可愛い二両編成の水戸行き・鹿島臨海鉄道が停車していた。
「北浦」茨城県鹿島郡と行方郡に挟まれた南北25kmの細長い湖。
縄文海進最盛期「6000年前」に台地を「巴川」の谷に侵入した入江が堰止湖となったもの。「流海」の霞ケ浦の北部にあたる。霞ケ浦を西浦とも云う。
近世には、江戸への水上輸送路として、鉾田・江川・津賀等の河岸がさかえた。
帆引き漁でも知られた鯉・鮒・ワカサギなどの漁獲が盛ん。
北浦
最近の北浦は、漂砂にふさがれ「鹿島臨海工業地帯」の工業用水・都市用水の水源となっているが、排水の流入も進み、汚染対策に追われていると云う。
南部は、水郷筑波国定公園に含まれる。
面積ー35.2km2・周囲68km・深さ7m。
北浦(電車の窓から)
「鹿嶋市」は、県南東部、鹿島台地の最南端、市名は、常陸国一宮「鹿島神宮」から、東が鹿島灘に面する砂丘・西は、「北浦」に面した湖岸低地
三方が水域に囲まれている。気候は温暖で、「鹿島神宮」で商業が栄えた。
新全国総合開発の波に乗り、砂丘Y字掘り込み「人口港湾」の整備・鉄銅工業コンビナートの鉄の町と転身した。
1990年鹿島アントラーズ・サッカーチームが誕生している。3年後にスタジアム完成。
天然記念物・ハマナス自生地。
鹿島神宮駅前
鉄道は、鹿島臨海鉄道。
道路は、東関東自動車道「潮来IC」・国道51・124等
「塚原ト伝」 1489-1571 新当流開祖・将軍に剣術を伝授した達人。
鹿嶋神宮の祝部ト部「覚賢」の子で、塚原城主「塚原安幹」に養子。名を「高幹」と云い、実父・養父から兵法を学び「一つの太刀」秘技獲得し一流を開く。将軍義輝や多くの戦国武将に刀術を伝授している。
「足利義輝」 1536 ~ 1565、 室町幕府の第13代将軍、上泉 信綱・塚原卜伝から剣を学んだ剣豪将軍として知られる。
天下五剣をはじめとする、 名高い業物を宝具として複数所有した刀剣蒐集家であったと云う。
19回の真剣勝負で負け知らず。
ト伝が船に乗り乗客の中に兵法を自慢する男がいた。
ト伝は、「戦いは勝つのではなく、負けないように頭を使い工夫するごとが極意である、、、、」するとその男怒りだし「勝負しろ」と騒ぎ出した。
ト伝「乗客に迷惑だから、あの離れ小島で戦おう」男は承諾、
舟が小島に着くとその男飛び降りた。
ト伝は、船頭から棹を借りると、船を出してしまった。小島の残された男、怒鳴ったが後の祭りであった。
現代にも通じる話。
里山にト伝の墓
「鹿島城跡・公園」
鹿島氏は常陸大掾氏の一族である吉田成幹が平安時代末頃に鹿島の地方を与えられて鹿島氏を名乗ったのが起こりと言われている。
城は、「源頼朝」に仕え、鹿島宮総追捕使に任じられた成幹の三男である政幹が築いたと言われている。
この後、1524年に島崎氏の後押しで老臣たちが城主義幹を追い出し、府中城主「大掾高幹」の弟「通幹」を城主に据えている。
最後は戦国時代末期の 1591年に「佐竹義宣」により他の鹿行郡の城主とともに常陸太田に呼び出されて謀殺、城も佐竹軍に攻められ落城した。
別名ー吉岡城・城主ー鹿島政幹・幹重・義幹 中世の連郭平山城
鹿島神宮駅の500m程南東側に見える小高い丘に「鹿島城の跡」。
現在は城址公園。本丸は丘陵地が北に向かって張り出している所を堀で区切り郭としている。
二の丸は住宅地、城の遺構らしいものは無い。
鹿島神宮の表参道である大町通りは、往時の鹿島城内であり、中世においてはここで流鏑馬がおこなわれていたという。
天正年間に常陸平氏の国人領主たちが佐竹氏に虐殺されたいわゆる「南方三十三館の謀殺」後に、佐竹氏は鹿島城に兵を差し向け、これを落城。
佐竹氏は鹿島城の跡地に陣屋を築いたという(鹿島神宮文書より)。
徳川幕府が成立すると、佐竹氏は国替えになり、元の鹿島氏が再興している。
現在の国道51号線と茨城県道18号茨城鹿島線が交わる鹿島小学校前の交差点の付近に鹿島城の大手門があったと伝わる。
国道51号線は大船津から鹿島神宮に至る道があったのでこれを圧迫する作用もあり、51号線を通す際に空堀を埋めて道路を造っている。
県道18号線の鹿島城の縄張り内をとおる部分には鹿島城の堀があったという(鹿島城は二重、三重に掘があったとされる)が江戸時代にはいって不要として埋められたと云う。
堀・土塁は、わずかに。
堀を渡って本丸の中に入ってすぐの所から駐車場・公園となっている。
公園としての整備が進んでいるため、城跡の遺構は少ない。
本丸と二の丸の間の空掘跡、腰郭跡、土塁の一部などが少々残っている。
「鹿島氏」は、鎮守府将軍平貞盛の甥維幹を祖とする常陸大掾七党の一流で、大掾繁幹の子吉田清幹の三男成幹が常陸国鹿島郡鹿島郷に土着して、鹿島の地頭となったことに始まる。
成幹の子政幹は、はじめ宮本郷粟生に住み、のちに鹿島神宮の西方にある宮中の吉岡に城を築き、以後、戦国時代末期まで鹿島氏は吉岡城主として続いた。常陸大掾一族は平氏だが、清和源氏との関係が深く「前九年・後三年の役」には大掾致幹が、源頼義・源義家に属して出陣している。
鹿島城は本丸跡の鹿島城山公園に若干の遺構を残すのみである。大部分の遺構は様々な事象や理由によって破壊されてしまったと云う。
「宮中野古墳群」
夫婦塚古墳は、全長108mの前方後円墳。県内では5番目の大きさと云う。6世紀の前半と推定。宮中野古墳群の一つ。
鹿島開発で古墳の数が分ったと云い、100基以上と言われ、小さい物も合わせると200基とも云う。今はその数も宅地化で数が減って100基以下
これだけの古墳が集まる場所は県内でも最大級で、古代から鹿島地方では多くの人が住んでいた事が分かる。
夫婦塚古墳の内部は何も入って無いので発掘調査は行われて無いと云う。(市指定史跡)
須賀町T字路に鎮座の村社か郷社 その近くに「宮中野古墳群」の小山がある
1865年、明治維新も目前、北陸の港町敦賀で,水戸藩(茨城県)からやってきた武士や農民ら350人余りの大量処刑が行われた。
「天狗党」とよばれた彼らは,なぜ敦賀に来たのか。そして,なぜ処刑されなければならなかったのか。
幕末最大の悲劇である。
「天狗党」は,水戸藩の尊王攘夷派の呼び名。
尊王攘夷とは,天皇を尊び,外国の勢力を打ち払おうという思想で,幕末にさかんに唱えられ,多くの志士たちをつき動かした。
実は,水戸藩こそが,その尊王攘夷思想の発信地。水戸藩の尊王攘夷思想は,2代藩主徳川光圀が始めた歴史書「大日本史」の編さんを通じて,
次第に形成されていった。それが全国に影響をあたえるようになるのは,強硬な攘夷論者であった。
9代藩主斉昭の時代である。
1829年に藩主となった斉昭は,学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し,質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置・全領の検地を柱とし、積極的な藩政の改革を行う。
やがて,ペリーの来航で対外危機が高まると,斉昭は幕府の政治にも関わるようになり,斉昭とその側近の東湖は,全国の尊王攘夷派のシンボル的存在。
暴走する水戸藩は、結局幕府は開国を実施、斉昭は、大老井伊直弼と対立し,「安政の大獄」で処罰を受けた。
これ以降,藩内では,「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と,「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しくなっていく。
この一方で,尊王攘夷派の浪士たちによる過激な事件がくり返されるようになった。
3つの事件は,いずれも水戸浪士が中心になって引き起こした事件である。
天狗党の墓地は、一番奥の雑木林に
1860年、桜田門外の変(大老井伊直弼を襲撃・井伊は死亡。1861年、第1次東禅寺事件・イギリス公使館を襲撃した事件。館員が負傷。
1862年、坂下門外の変は、老中安藤信正を襲撃、安藤は負傷。
全国各地で尊王攘夷運動が活発になる中,藤田小四郎(東湖の子)を中心とする水戸藩の尊王攘夷派の急進グループが,ついに行動を、1864年,攘夷の実行を幕府に迫るとして,筑波山で兵を挙げたのである。
この挙兵に際し,藤田は,長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)から軍資金の提供を受けていたと云う。
彼ら天狗党には,水戸藩士ばかりでなく,尊王攘夷運動に共感を覚える農民や他藩の武士なども加わって,たちまち数百人の勢力。
天狗党は,幕府の追討軍や諸生党の軍と筑波山や水戸の周辺でしばしば戦うが,次第に追いつめられ、水戸藩領北部の大子に逃れたと云う。
天狗党の無縁墓地
鹿島市内には、七つの井戸が。その一つ。七つ石・七つ踊りも。 根本寺参道
「根本寺」
聖徳太子の開基と伝えられる寺。
仏頂和尚を禅の師と仰ぐ俳聖・松尾芭蕉も 1687年に鹿嶋へ月見に訪れていると云う。
その様子は「鹿島紀行」に記され、境内に句碑が建てられている。
”月はやし梢は雨を持ちながら”
「仏頂禅師」は、1642年、常陸国に生まれ、8歳で冷山和尚の根本寺に入り禅門の道を歩みはじめ、1655年14歳の春に、諸国の名僧との出合いを求めて旅に出、1674年33歳の時に冷山和尚から根本寺を受け継ぎ、二十一世住職に就任している。
芭蕉が、江戸市中から深川の草庵に移ったのが 1680年の冬で、このころ仏頂禅師は、鹿島神社との係争で江戸に出て臨川庵に仮住まい。
芭蕉は深川に住んで間もないころに禅師と運命的な出会いをし、川向うの臨川庵に参禅する日々を送ったと云う。
「天狗党」斉昭の懐刀、藤田東湖の息子「藤田小四郎」は、父の薫陶を受け(学者・文人・政治家・武士)江戸・京都で尊攘運動で、桂小五郎らと東西
呼応して事を起こそうと図り、しかしうまくいかず、筑波山で挙兵ー24歳で斬首。
「武田耕雲斎」天狗等の乱の理論的・実践的支柱ー斬首63才(武田信玄家臣家系)
「水戸市・回天神社の鰊蔵」福井・敦賀で捕われた天狗党のひとびとは、16棟の「鰊蔵」に押しこめられ過酷な扱いを受け、鰊のにおいが充満していたと云う所から「鰊蔵」と云う。その一棟が水戸の回天神社にある。
現在敦賀と水戸市は姉妹都市に。
次回は、鹿島神宮御参り。