syuの日記・気まま旅

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下町散歩・谷中~根岸

2014-11-29 | syu散歩

今日は、JR日暮里駅から谷中を抜けて旧上根岸JR鶯谷駅と散歩した。

「長屋文化」
江戸時代から、中層以上の商家などは表通りに独立した店を構え、それ以外の町人、職人などはほとんどが裏町の長屋に借家住まいであったと云う。
大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせた。
特に江戸時代、裏町に見られた長屋は落語や川柳の格好の題材に、密集した中で生活していたが、人情こまやかな生活を送っていた場合もみられる。
江戸時代の長屋はほとんど平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所であり、部屋はせいぜい2部屋程度。
路地に共同トイレがあり、風呂は無い。「火事の危険性が高く、防災上の理由で禁止」
入浴は、地域の銭湯。
水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取水口であったと云う。
水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が、そこから生まれた。
江戸時代に「大家」と言えば、所有者(家主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のこと、住民の相談相手になったり、何かと世話を焼いたり場合が多く、落語ではよく「大家といえば親も同然」などという台詞が、ここでも聞かれる。
狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、長屋には様々な生活物品を貸し出す損料屋が発達したと云う。

その名残が、JR日暮里駅門前町谷中周辺で感じられる。

                 谷中銀座通りに向かって左折


「朝倉 文夫」 1883ー 1964年 明治から昭和の彫刻家(彫塑家)。号は紅塐と称し、「東洋のロダン」 とも称された。
2013年 - 日本近代彫塑界の最高峰であり、文化勲章受章者。
明治40年-現東京藝術大学を卒業した朝倉文夫が、台東区谷中の地に居を構え、今でもアトリエのみ現存、昭和3年ー 現在の「朝倉彫塑館」の建物の建築を開始し、7年の歳月をかけたと云う。
昭和10年ー住居兼アトリエ、あわせて朝倉彫塑塾の教場としても利用、昭和42年 朝倉文夫死去後、3年を経て「朝倉彫塑館」として一般公開している。
平成13年ー朝倉彫塑館の建物4棟が国の登録有形文化財に。 

              朝倉彫塑館(本日休館)
    

現代,長屋は、1970年代後半から地価が高騰する1980年代後半まで、鉄筋コンクリート造の「タウンハウス」として数多く建設されてきた。

法規上では、長屋建は一般に「2つ以上の住宅を1棟に建て連ねたもので、各住宅が壁を共通にし、それぞれ別々に外部への出入口を有しているものとして、建築確認、完了検査を受けて適合性が認められると云う。
防災の観点から、独自の建築安全条例が定められ、長屋の各戸の主要な出入口は、道路又は道路に通ずる幅員二メートル以上の敷地内の通路に面して設けなければならない等もあるようだ。

近年はこうした安全規制に沿いながら、都市防災面から特に危険度の高い木造密集地域については、小さな単位から耐火造の長屋等に協調建替えに取り組む動きがみられているとも云う。
戦前の長屋の見直しも行われており、コンバージョン等により有効利用されるケースも、、、。

                     谷中の路地裏


谷中は、台東区の北西端・JR日暮里駅南西部。上野公園から続く台地上と本郷台地との間の谷間を含むので谷中と云った。太田道灌も狩りに出掛けた。
明暦の大火(1657)で、神田・日本橋から寺院が転入し、寺町が形成された。
1874年、天王寺境内が墓地とされ、これが「谷中墓地・谷中霊園」最後のエンペラー「徳川慶喜」も谷中で眠っている。
桜並木も坂道も一部街並みも江戸・明治の風情を残し観光スッポトになっている。

                   そば店とお寺と住宅
    

神戸の北野通りの「洋館長屋」を思い出した。
1908年、旧居留地に外国人向けアパートとして建設。
後年北野町の現在地に移築され、通りに面して左右対称の2棟が中央で連結し、連結部の階段の左右に入口が設けられ、その洋館として一風変わった外観が日本の長屋のようである。
神戸では、「洋館長屋」と呼ばれるようになったと云う。

谷中のヒマラヤ杉,三浦坂近く。高さ約15m、 みかどパン店の敷地内に、戦前、現店主の祖父が鉢植えから育て始めたと云う。


1590年江戸城に入城した徳川家康時代、上野は、ほとんど湿地帯で沼沢があり、葦茅が繁っていたと云う。不忍池は現在の二倍ほどの広さがあった。 1624年「天海僧正」によって、「寛永寺」が創建されると、寛永寺の門前町として大いに栄え、水茶屋等が軒を並べていたと云う。 特に、桜の時期は、花見客で大賑わいを呈した。 落語の「鈴本演芸場」の寄席は古い歴史がある。

                  谷中墓地を抜けてJR陸橋へ、


「桜木町」
下谷桜木町と呼ばれていた。上野台部分の町は上野花園町から独立したエリア、多数の寺院と共に、江戸時代の町割り、道割りの上に明治から昭和にかけての建物が混在し、歴史的重層性のある景観を作りだしている。
地名の通り桜も多く、同町や上野公園の桜は、樹齢を重ねたものが多く一本一本が独特の形をしており、綺麗な桜並木を今でも見ることができる。
町内にある寛永寺は、3代将軍徳川家光の治世に建てられた。
寛永寺は徳川家の菩提寺として知られ、都内を代表する寺院。
寛永寺は、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟がある。大慈院は、徳川慶喜が謹慎していた場所である。
言問通り沿い、かつては鶯谷駅との乗り換えが便利な京成の「寛永寺坂駅」があった。川端康成も居をかまえていたと云う。

                 かわり続ける日暮里・根岸の町


谷中墓地からJR線陸橋を渡ると、京成電鉄が上野山のトンネルを抜けて高架線のカーブのガード下に出る。この辺りが旧上根岸で、台東区・荒川区の
境で、区の北部・鶯谷駅の北東に位置する。
江戸中期から、文人墨客が、田園の野趣と音無川の清流に恵まれた地であり「隠棲」の場としていた。
特に音無川には、鶯が多く名所の一つで知られ、「初音の里」と云われている。
鳴き合わせの梅屋敷が幕末まで残っていたと云う。明治に入り、俳人・歌人の「正岡子規」等文人画家が居を構えている。
第二次世界大戦で焼失し面影は、無くなってしまった。
豆腐料理の「笹の雪」は残っていた。
                    正面が日暮里駅


台東区旧上根岸
「中村不折」 1866-1943 明治・大正・昭和期に活躍した 洋画家・書家
夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵画家。

書道博物館、
洋画家であり書家でもあった中村不折の住居に、昭和11年に開館された。面影は洋館風の玄関が残っている。
博物館には、亀甲獣骨文、青銅器、石碑、鏡鑑、拓本、経巻文書など不折が書道研究のために収集した、中国、日本の書道に関する古美術品、考古出土品などの重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16000点が収蔵されている。

向かい側が、「正岡子規庵」
    

上の句・季語に、「根岸の里のわび住まい」と続ければ、そのまま風流な俳句になってしまうという話。
根岸界隈のうち、旧下谷区中根岸町・金杉町(現下谷)あたりは戦災にも焼け残り、旧日光街道、通称・都電通り沿いには、
古い商家や長屋が数多く残っていた地域。

「正岡子規」1867-1903 夏目漱石の親友、俳句の革新に努めた。

根岸の子規庵
「鳴いて血を吐く ホトトギス」といわれ、ホトトギスは口の中が赤いので、鳴くと血を吐いているように見え、 正岡子規、22歳で結核になり喀血したとき、ペンネームを子規にしたと云う。
子規とは、「ほととぎす」、野球が好きで、「打者」「走者」「直球」などは子規の翻訳語。
子規は1897年俳句雑誌「ホトトギス」を主宰し、写生俳句を首唱、 門下には、 高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、 長塚節等が。
漱石とは学生時代から交友、子規の出身地・松山市は俳句の盛んな所で知られている。

                「卯の花の 散るまで 鳴くか 子規(ホトトギス)」
    

次回は、新潟県南魚沼・浦佐へ。