1457年「太田道灌」が、古河公方「足利成氏」に対抗するため拠点の城を築いた「江戸城」・「千代田城」。
江戸時代に入り徳川氏15代の居城とし、1868年新政府は、江戸から東京と改称、年号を「明治」とした。江戸城を東京城とし、東京城を「宮城」と定め
京都の太政官を移す。
1872年、明治5年本丸・西の丸・吹上地区を「皇居」に、1873年西の丸御殿焼失で、一時赤坂離宮が仮皇居に、1879年西の丸地区に新宮殿が造営
これが明治宮殿ー大広間と正殿謁見の場、豊明殿・千種の間と区画されて、天皇の生活は、奥宮殿(昭和20年空襲で焼失。
宮殿を皇居改称、1968年完成された。正殿と豊明殿に国民参賀皇族出御される春秋の間・松風の間・石橋の間・表御座所など入母屋造り和風外観となって回廊で結ばれている。
天皇の住居・吹上地区など1961年建設されている。新宮殿に隣接し、宮内庁・道灌濠を隔て賢所があり、生物学研究所、又、乾豪と蓮池豪旧本丸には、
城の天主跡・石垣・富士見多門・富士見櫓・百人番所・同心番所・東華楽堂等が建つ。
二の丸・三の丸は、庭園として整備されている。東御苑面積21万m2ある。
石垣・天然記念物に、ヒカリゴケ生育地 田安門 牛ヶ淵
大手門・平川門・北桔橋門・東御苑など一般解放
史跡ー江戸城外堀跡 重文ー田安門・清水門・桜田門・高麗門・半蔵門・伏見櫓・富士見櫓・渡櫓(江戸城の遺構として残されている)。
園内には、国立近代美術館・科学技術館・文書館・武道館と千鳥ヶ淵中心に桜の名所。
「日本武道館」は、北の丸公園内の多目的ホール。1964年、東京オリンピック大会で柔道会場に。
法隆寺夢殿を模した正八角形。
北の丸公園へ 武道館
皇居周囲の緑地と堀、広場、北の丸公園、外苑は、都民の憩いの場と観光名所となっている。
江戸時代には、馬場先門から和田倉門外にかけて大名屋敷地であった。現在は、芝生の中に黒松樹林地が広がって、皇居北部の北の丸公園には、御三家
の田安家・清水家の屋敷地であった。
清水門
明治以降は、近衛師団が置かれ、1969年昭和天皇の還暦を記念して解放され、美術館・科学館・公文書館・武道館が出来て行く。
「国会議事堂」は、皇居南西部1936年昭和11年完成している。
面積53,466m2・左右206m・中央の高さ65,5m・外装花崗岩張り・左衆議院、右参議院・正面に伊藤博文、大隈重信、板垣退助の銅像がある。
江戸時代初期には、加藤清正の屋敷跡、その後、陸軍参謀本部、1972年憲政記念館が出来て居る。尾崎メモリアルホールが館内にある。
平河濠付近 九段会館 竹橋方面
「平将門・首塚・神田明神」
古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた地。
地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来。
関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。
「平将門」~940、東国桓武平氏の一人、京都藤原忠平に仕え、下総に帰郷し、武蔵国の官人と土豪の争いに介入後、東国国司を追放して、
新皇と称したが、平 貞盛・下野藤原秀郷に討たれる。将門の首は、京都へ送られ晒首に、その首が飛んで大手町に落ちたという。
神田明神跡・将門塚・酒井家屋敷跡
「酒井家上屋敷跡」でもあるここは、酒井雅楽頭の中庭、歌舞伎の「先代萩」伊達騒動の場の、原田甲斐殺害された所であるようである。
山本周五郎「樅の木は残った」の、原田甲斐(1619-71)伊達家の重臣原田宗資の嫡男、伊達宗勝(正宗の末男)仕え、政敵の伊達宗清等の陰謀で、
不正を訴えられ対決していく、最後は、酒井忠清に謀刹される。歌舞伎とは違うようだ。
下馬大名「前橋の酒井家」
「小さくなった大手町ビル」
東西に200mと細長い、そのため、従来のビルに見られた中庭からの採光ではなく、エレベーターなどを建物の中央部に集める形態。
日本で初めて全館冷房を採用したビル。
屋上には大手町観音が安置され、毎年4月17日には入館者の繁栄・息災を祈願して供養が行われる。
東京メトロ丸ノ内線大手町駅に直結しており、改札前通路と地下2階がつながっている。
地下2階部分は東京メトロ半蔵門線大手町駅の改札通路、東京メトロ千代田線大手町駅の改札通路とも接続されており、特に丸ノ内線改札からは、乗り換えの乗降客もビル内を通過して乗り換える。
現在の大手町ビル(三菱・協和キリン等)
「東京駅」皇居東部丸の内東京表玄関を成している。
東海道・東北・上越新幹線・本線・中央本線・総武本線・京葉線・横須賀線の起点で、京浜東北線・山手線・営団地下鉄丸ノ内線が乗り入れ、
内側駅舎は、辰野金吾設計で1914年完成したルネサンス煉瓦造りであったが、数回取り壊され、一部変更されてきたが、西洋造りの原型は生かされている。
大手濠・桔梗濠・大手門・皇居東御苑・大手町ビル街・東京駅
「田安宗武」 1715-71 国学を極めた将軍の子、田安家当主8代将軍吉宗の次男で、幼少時から聡明誉れ高く次期将軍の望む声が、9代家重失政諫言で
謹慎を。国学者荷田在満に師事していたが対立する。歌人・川柳に親しんだ。
宗武の次男「田安定信」は、白河の松平家養子に、のちの老中と成る。
大手門
「服部半蔵」 1542-96 伊賀忍者を手足とした鬼半蔵
家康に仕え、掛川城攻め・姉川の戦い・三方ヶ原の戦いで戦功、遠江国8千国。
半蔵門の地名は、半蔵が江戸城麹町御門の警護を担当したことに因む。
松並木と大手濠
「酒井忠清」 1624-81 上野国厩橋(前橋)藩主、酒井忠世は祖父で大老、幼い4代将軍家綱補佐役し大老、江戸城大手門外下馬札に近いので「下馬将軍」と称されていた。権勢は絶大であったと云う。5代将軍綱吉時権力の座から追われ、病死。
幕末には、271家あったと云う。呼出には、大手門前に参集、「下馬札」に従い、城内へ、大手三之御門から中之御門、最後に中雀御門を通りようやく
「本丸玄関前」にたどり着く。門を通るたびにお供を徐々に減らすよう細かく定められていたと云う。
橋前外広場には、主人の帰りを待つ人人。槍の鞘型に書く大名家の旗印など示す。城門内には幕府方が並び相互挨拶、緊張が走ると云う。
桔梗門 皇居外苑・内堀通り・外堀通り
「二重橋」鉄橋、奥が二重橋と石橋のめがね橋で儀式のみ使用する。奥が伏見櫓。
「井伊直弼」 1815-60 桜田の門に散った大老、近江国彦根藩主、直中の14男。徳川家茂将軍継嗣し、反対派を厳しく処罰「安政の大嶽」推進。
水戸浪士に城さくら度の門で襲撃され落命。
二重橋(石橋)新宮殿は、この奥。 桜田門は、二重橋濠と桜田濠の間
「東御苑」旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡地を整備して作られた公園で、特別史跡に指定。
富士見櫓・松の廊下跡・天守台や「三の丸尚蔵館」など数多く、長い江戸の歴史を身近に感じることができる。
また四季おりおりの花の名所としても人気がある。出入りは大手門・平川門・北桔橋門から可能。最近は、見学できる範囲が広がっていると云う。
桜田濠 皇居前広場から
「日比谷公園」は、皇居の南東部に面した公園、江戸時代は、鍋島・毛利・南部藩邸があった所。明治以降は、練兵場として使われていた。
1903年明治36年「本多静六設計によるドイツ風洋式庭園で開園している。
面積16万m2・園内に図書館野外音楽堂・大噴水、都内で最初の市民ホールが出来「日比谷公会堂」は、1929年開館している。
尾崎幸雄普通選挙法促進の演説地など日本近代史の舞台でもある。
北東部には、有楽門の日比谷見附跡の石垣が残っている。
日比谷公会堂 レストラン松本楼 音楽堂
「日比谷公園内の洋食レストラン。松本楼」
1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営の「小坂梅吉」が落札し、「日比谷松本楼」としてオープン。
当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には東京料理店番付で西の関脇に押し上げられたほどだったと云う。
公園が日比谷焼打事件など、度々政治活動の舞台となっていた。
1923年に関東大震災により焼失。その後バラック住宅から復活し、これを機に小坂光雄が2代目社長となる。
梅吉はその後1936年に貴族院議員に当選し、後太平洋戦争に突入するまで、引き続き人気のあるレストランとして日比谷公園の顔になった。
1942年に東京に空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年、遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となり、終戦後にはGHQ宿舎として接収され、
約7年に渡り営業できない日々が続き、1951年にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切った。
日比谷公園中央
明治大学駿河台校舎前の「大久保彦左衛門屋敷跡」1560-1639
所在 区神田駿河台2-2、徳川家康が亡くなった元和2年・1616年、駿府詰めだった旗本たちが江戸へ戻ってきた。
当時神田川を掘削して神田山を開発していた幕府は、この神田台の土地を旗本たちに与えたと云う。
以後、駿河にいた旗本たちが住んだ高台は、駿河台とよばれるようになった。「天下のご意見番」大久彦左衛門もその一人であった。
「一心太助」も付近であろう。彦左衛門の孫、本家「忠隣」改易処分になるなど不遇の時代が続く、武士が乱世を忘れ軟弱化に怒り「三河物語」を籍している。
駿河台・明治大学 大学前の彦左衛門屋敷跡碑
神保町「こんごう庵」で、日本酒一杯。
伝統越後長岡のへぎそばと日本酒八海山と越乃寒梅と越後酒。場所は、神保町交差点千石ビル1F。03-3518-2661
新潟県の蔵元数は、全国でも2~3位、100家以上200銘柄以上あり、技の越後杜氏は、全国に散っている。
次回は、小田原方面へ。
江戸時代に入り徳川氏15代の居城とし、1868年新政府は、江戸から東京と改称、年号を「明治」とした。江戸城を東京城とし、東京城を「宮城」と定め
京都の太政官を移す。
1872年、明治5年本丸・西の丸・吹上地区を「皇居」に、1873年西の丸御殿焼失で、一時赤坂離宮が仮皇居に、1879年西の丸地区に新宮殿が造営
これが明治宮殿ー大広間と正殿謁見の場、豊明殿・千種の間と区画されて、天皇の生活は、奥宮殿(昭和20年空襲で焼失。
宮殿を皇居改称、1968年完成された。正殿と豊明殿に国民参賀皇族出御される春秋の間・松風の間・石橋の間・表御座所など入母屋造り和風外観となって回廊で結ばれている。
天皇の住居・吹上地区など1961年建設されている。新宮殿に隣接し、宮内庁・道灌濠を隔て賢所があり、生物学研究所、又、乾豪と蓮池豪旧本丸には、
城の天主跡・石垣・富士見多門・富士見櫓・百人番所・同心番所・東華楽堂等が建つ。
二の丸・三の丸は、庭園として整備されている。東御苑面積21万m2ある。
石垣・天然記念物に、ヒカリゴケ生育地 田安門 牛ヶ淵
大手門・平川門・北桔橋門・東御苑など一般解放
史跡ー江戸城外堀跡 重文ー田安門・清水門・桜田門・高麗門・半蔵門・伏見櫓・富士見櫓・渡櫓(江戸城の遺構として残されている)。
園内には、国立近代美術館・科学技術館・文書館・武道館と千鳥ヶ淵中心に桜の名所。
「日本武道館」は、北の丸公園内の多目的ホール。1964年、東京オリンピック大会で柔道会場に。
法隆寺夢殿を模した正八角形。
北の丸公園へ 武道館
皇居周囲の緑地と堀、広場、北の丸公園、外苑は、都民の憩いの場と観光名所となっている。
江戸時代には、馬場先門から和田倉門外にかけて大名屋敷地であった。現在は、芝生の中に黒松樹林地が広がって、皇居北部の北の丸公園には、御三家
の田安家・清水家の屋敷地であった。
清水門
明治以降は、近衛師団が置かれ、1969年昭和天皇の還暦を記念して解放され、美術館・科学館・公文書館・武道館が出来て行く。
「国会議事堂」は、皇居南西部1936年昭和11年完成している。
面積53,466m2・左右206m・中央の高さ65,5m・外装花崗岩張り・左衆議院、右参議院・正面に伊藤博文、大隈重信、板垣退助の銅像がある。
江戸時代初期には、加藤清正の屋敷跡、その後、陸軍参謀本部、1972年憲政記念館が出来て居る。尾崎メモリアルホールが館内にある。
平河濠付近 九段会館 竹橋方面
「平将門・首塚・神田明神」
古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた地。
地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来。
関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。
「平将門」~940、東国桓武平氏の一人、京都藤原忠平に仕え、下総に帰郷し、武蔵国の官人と土豪の争いに介入後、東国国司を追放して、
新皇と称したが、平 貞盛・下野藤原秀郷に討たれる。将門の首は、京都へ送られ晒首に、その首が飛んで大手町に落ちたという。
神田明神跡・将門塚・酒井家屋敷跡
「酒井家上屋敷跡」でもあるここは、酒井雅楽頭の中庭、歌舞伎の「先代萩」伊達騒動の場の、原田甲斐殺害された所であるようである。
山本周五郎「樅の木は残った」の、原田甲斐(1619-71)伊達家の重臣原田宗資の嫡男、伊達宗勝(正宗の末男)仕え、政敵の伊達宗清等の陰謀で、
不正を訴えられ対決していく、最後は、酒井忠清に謀刹される。歌舞伎とは違うようだ。
下馬大名「前橋の酒井家」
「小さくなった大手町ビル」
東西に200mと細長い、そのため、従来のビルに見られた中庭からの採光ではなく、エレベーターなどを建物の中央部に集める形態。
日本で初めて全館冷房を採用したビル。
屋上には大手町観音が安置され、毎年4月17日には入館者の繁栄・息災を祈願して供養が行われる。
東京メトロ丸ノ内線大手町駅に直結しており、改札前通路と地下2階がつながっている。
地下2階部分は東京メトロ半蔵門線大手町駅の改札通路、東京メトロ千代田線大手町駅の改札通路とも接続されており、特に丸ノ内線改札からは、乗り換えの乗降客もビル内を通過して乗り換える。
現在の大手町ビル(三菱・協和キリン等)
「東京駅」皇居東部丸の内東京表玄関を成している。
東海道・東北・上越新幹線・本線・中央本線・総武本線・京葉線・横須賀線の起点で、京浜東北線・山手線・営団地下鉄丸ノ内線が乗り入れ、
内側駅舎は、辰野金吾設計で1914年完成したルネサンス煉瓦造りであったが、数回取り壊され、一部変更されてきたが、西洋造りの原型は生かされている。
大手濠・桔梗濠・大手門・皇居東御苑・大手町ビル街・東京駅
「田安宗武」 1715-71 国学を極めた将軍の子、田安家当主8代将軍吉宗の次男で、幼少時から聡明誉れ高く次期将軍の望む声が、9代家重失政諫言で
謹慎を。国学者荷田在満に師事していたが対立する。歌人・川柳に親しんだ。
宗武の次男「田安定信」は、白河の松平家養子に、のちの老中と成る。
大手門
「服部半蔵」 1542-96 伊賀忍者を手足とした鬼半蔵
家康に仕え、掛川城攻め・姉川の戦い・三方ヶ原の戦いで戦功、遠江国8千国。
半蔵門の地名は、半蔵が江戸城麹町御門の警護を担当したことに因む。
松並木と大手濠
「酒井忠清」 1624-81 上野国厩橋(前橋)藩主、酒井忠世は祖父で大老、幼い4代将軍家綱補佐役し大老、江戸城大手門外下馬札に近いので「下馬将軍」と称されていた。権勢は絶大であったと云う。5代将軍綱吉時権力の座から追われ、病死。
幕末には、271家あったと云う。呼出には、大手門前に参集、「下馬札」に従い、城内へ、大手三之御門から中之御門、最後に中雀御門を通りようやく
「本丸玄関前」にたどり着く。門を通るたびにお供を徐々に減らすよう細かく定められていたと云う。
橋前外広場には、主人の帰りを待つ人人。槍の鞘型に書く大名家の旗印など示す。城門内には幕府方が並び相互挨拶、緊張が走ると云う。
桔梗門 皇居外苑・内堀通り・外堀通り
「二重橋」鉄橋、奥が二重橋と石橋のめがね橋で儀式のみ使用する。奥が伏見櫓。
「井伊直弼」 1815-60 桜田の門に散った大老、近江国彦根藩主、直中の14男。徳川家茂将軍継嗣し、反対派を厳しく処罰「安政の大嶽」推進。
水戸浪士に城さくら度の門で襲撃され落命。
二重橋(石橋)新宮殿は、この奥。 桜田門は、二重橋濠と桜田濠の間
「東御苑」旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡地を整備して作られた公園で、特別史跡に指定。
富士見櫓・松の廊下跡・天守台や「三の丸尚蔵館」など数多く、長い江戸の歴史を身近に感じることができる。
また四季おりおりの花の名所としても人気がある。出入りは大手門・平川門・北桔橋門から可能。最近は、見学できる範囲が広がっていると云う。
桜田濠 皇居前広場から
「日比谷公園」は、皇居の南東部に面した公園、江戸時代は、鍋島・毛利・南部藩邸があった所。明治以降は、練兵場として使われていた。
1903年明治36年「本多静六設計によるドイツ風洋式庭園で開園している。
面積16万m2・園内に図書館野外音楽堂・大噴水、都内で最初の市民ホールが出来「日比谷公会堂」は、1929年開館している。
尾崎幸雄普通選挙法促進の演説地など日本近代史の舞台でもある。
北東部には、有楽門の日比谷見附跡の石垣が残っている。
日比谷公会堂 レストラン松本楼 音楽堂
「日比谷公園内の洋食レストラン。松本楼」
1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営の「小坂梅吉」が落札し、「日比谷松本楼」としてオープン。
当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には東京料理店番付で西の関脇に押し上げられたほどだったと云う。
公園が日比谷焼打事件など、度々政治活動の舞台となっていた。
1923年に関東大震災により焼失。その後バラック住宅から復活し、これを機に小坂光雄が2代目社長となる。
梅吉はその後1936年に貴族院議員に当選し、後太平洋戦争に突入するまで、引き続き人気のあるレストランとして日比谷公園の顔になった。
1942年に東京に空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年、遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となり、終戦後にはGHQ宿舎として接収され、
約7年に渡り営業できない日々が続き、1951年にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切った。
日比谷公園中央
明治大学駿河台校舎前の「大久保彦左衛門屋敷跡」1560-1639
所在 区神田駿河台2-2、徳川家康が亡くなった元和2年・1616年、駿府詰めだった旗本たちが江戸へ戻ってきた。
当時神田川を掘削して神田山を開発していた幕府は、この神田台の土地を旗本たちに与えたと云う。
以後、駿河にいた旗本たちが住んだ高台は、駿河台とよばれるようになった。「天下のご意見番」大久彦左衛門もその一人であった。
「一心太助」も付近であろう。彦左衛門の孫、本家「忠隣」改易処分になるなど不遇の時代が続く、武士が乱世を忘れ軟弱化に怒り「三河物語」を籍している。
駿河台・明治大学 大学前の彦左衛門屋敷跡碑
神保町「こんごう庵」で、日本酒一杯。
伝統越後長岡のへぎそばと日本酒八海山と越乃寒梅と越後酒。場所は、神保町交差点千石ビル1F。03-3518-2661
新潟県の蔵元数は、全国でも2~3位、100家以上200銘柄以上あり、技の越後杜氏は、全国に散っている。
次回は、小田原方面へ。