syuの日記・気まま旅

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香取神社

2014-11-20 | 気まま旅

千葉県佐原市「香取」は、市の東部、利根川下流南岸・霞ケ浦水系で軍事要衝であった。畑作・稲作の農業地帯。
下総国一の宮「香取神宮」がある。
                  香取駅南約1kmに鎮座


「旧官弊大社・祭神経津主大神」で、茨城県の「鹿島神宮」「息栖神社」と共に三社巡りで知られている香取神宮。

式年神幸祭は、12年に1度の午年に行われ、境内前までの神幸祭は毎年4月中旬、大規模に行われる。
古くは「軍神祭」「軍陣祭」とも称された。この祭は、経津主神による東国平定の様子を模したものといわれ、元は「式年遷宮大祭」の名で、
20年に1度の式年造営に伴って行われたという。
式年造営と同じく応仁の乱の頃に衰え、1568年を最後として明治まで絶えていたと云う。
その後、1875年に復興され毎年執行されていたが、明治15年 1882年以降は午年毎の執行と定められて、現在に至っている。

                 香取の森約3700坪と広い(県指定天然記念物)
    

経津主大神 1柱。「 別名を伊波比主神・斎主神、斎之大人」

「祭神について」
香取神宮の主祭神は、経津主として知られ、その出自について、「日本書紀」(720年)では、一書として、伊弉諾尊が軻遇突智を斬った際、
剣から滴る血が固まってできた岩群が経津主の祖。
別の一書として、軻遇突智の血が岩群を染め磐裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神がフツヌシを生んだとしている。
その後「日本書紀」本文は、、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲へ派遣され、
大国主命と国譲りの交渉を行なったとある。(なお、「古事記」ではフツヌシは登場しない)

             水戸光圀公手植えの「黄門桜」・石灯篭が参道両側に 
    

フツヌシと香取の関係については、「日本書紀」では一書として、
「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」とあり、「檝取(楫取、かとり) = 香取」との関係が記されている。
その後、「古語拾遺」807年で、「経津主神云々、今下総国香取神是也」、「延喜式」927年 所収の春日祭の祝詞で、
「香取坐伊波比主命」と記されていると云う。
                        境内中央に池


フツヌシが国土平定に活躍したという書紀の説話から、「武神・軍神」と見なされ、名称の「フツ」についても、記紀に見える
「フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣と同様、刀剣の鋭い様を表した言葉であるといわれる。
軍神の認識を表すものとしては、平安時代末期の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」(「梁塵秘抄」)という歌が知られる。
「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から、古くは「航行を掌る神」として祀られたという見方もある。
そのほか、フツヌシとイハヒヌシ(伊波比主・斎主)という異名称の扱いや原始祭祀氏族には不明な点が多く、香取神宮の創祀も含めて諸説が多い。

                          旧拝殿
    

鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。
その神威の背景には、両宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海」という内海が広がっており、両宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座。
この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両宮はその拠点とされ、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として
東北沿岸部の各地で祀られたと云う。

           狛犬            本殿前楼門                 手水舎
    

創建ー社伝は、初代神武天皇18年の創建と伝える。
黎明期に関しては明らかでないが、古くは「常陸国風土記」(8世紀初頭成立)「香取神子之社」として分祠の記載が見え、
それ以前の鎮座は確実とされる。また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。

          重要文化財 楼門は、1634年水戸初代藩主徳川頼房公が奉納している


奈良時代、香取社は藤原氏から氏神として鹿島社とともに強く崇敬され、768年には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現 春日大社)が創建。鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請されている。
その後も藤原氏との関係は深く、777年 藤原良継の病の際には「氏神」として正四位上の神階に叙されていると云う。

平安時代以降の神階としては、836年に正二位、839年に従一位への昇叙の記事があり、882年には正一位勲一等。

                    地元酒蔵の献上樽酒


927年成立の「延喜式」神名帳には下総国香取郡に「香取神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列しており、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。
同帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮と当宮の三社のみ。下総国では一宮に位置づけられ、下総国内からも崇敬された。

                                    古瀬戸黄 狛犬
    

中世、武家の世となってからも武神として神威は維持されており、源頼朝、足利尊氏の寄進に見られるように武将からも信仰。
千葉氏を始めとする武家による神領侵犯も度々行われていた。
常陸・下総両国の海夫(漁業従事者)・関を支配し、香取海を掌握して多くの収入を得ていたと云う。

「千葉常胤」1118-1201 鎌倉幕府筆頭御家人・平家追討の戦功で下総守護、源頼朝房総へ逃れると、鎌倉に拠点を進めた。
奥州征伐で東海道大将軍として出陣している。
                    社殿・本殿


千葉氏の滅亡後、代わって関東に入った徳川家康の下、1591年に1,000石が朱印地として与えられた。
その後開かれた江戸幕府からも崇敬を受け、1607年に大造営、1700年に再度造営が行われている。

        樹齢1000年の巨杉・御神木勝運の神に祈願して
    

現在の本殿・楼門・旧拝殿(現・祈祷殿)は、この元禄期の造営によるものである。
明治4年、近代社格制度において官幣大社に列し、昭和17年 勅祭社に定められ、戦後は神社本庁の別表神社に列している。

                        御神井道が山道へ
    

国宝-海獣葡萄鏡 1面(工芸品) 。中国・唐時代の作。鏡背は葡萄唐草の地文様の上に獅子のほかさまざまな鳥・獣・虫を表す。鏡名の「海獣」は、鏡背中心部の鈕に表された狻猊を指す。狻猊は中国の伝説上の生物。
正倉院の南倉には本鏡と瓜二つの銅鏡があり、香取神宮鏡は正倉院の鏡と全く同一の鋳型から造った同笵鏡ではないが、両者は関係があると推定される。

重要文化財(国指定)ー本殿・楼門(計2棟)(建造物)古瀬戸黄釉狛犬 1対(工芸品) 阿吽一対の古瀬戸の狛犬。陶製。
阿形像の高さは17.6cm、吽形像。技法・作風から、鎌倉時代後期または室町時代初期の作と見られている。

双竜鏡 1面(工芸品)1149年の銘があり、鏡背文様を有する在銘の和鏡としては最古の例である。
鏡背文様の様式は一般的な和鏡とは異なり、中国の宋あるいは朝鮮の高麗鏡に影響を受けたものと見られる。

香取大禰宜家文書 15巻7冊(381通)(古文書) 大禰宜を世襲した香取家に伝わる古文書。
平安時代後期から江戸時代までの文書381通からなる。関東の神社文書としては代表的な遺品とされる。等がある。

                     芋のソフトクリーム・草団子を
    

次回は、茨城県鹿島へ