2016年3月31日現在
市川の弥生時代・古墳時代は、各地に集落があった。大集落に「須和田」が出現した。古墳も多く、弘法寺古墳・法皇塚古墳・明戸古墳は、
前方後円墳で真間山古墳の円墳が残っている。
645年国府台に「下総国府」が置かれ、政治・経済・文化の中心地であった。
日蓮宗・弘法寺、真間山山門から

仁王門(運慶作)

弘法寺境内の桜並木

樹齢400年の枝垂れ桜


6000~3000年前ー市川北部の台地・段丘に多くの貝塚が

古くから桜の名所、真間の住宅地が

濃幾観世音菩薩 弘法大師真筆額 日蓮聖人親刻大黒天が

「山部赤人」生没不詳・奈良初期宮廷歌人ー柿本人麻呂に並ぶ歌人
万葉集に49首・赤人は、歴史書に出てこず、下級官人だったのか?。藤原氏と親しい関係にある。(政治的不遇を寓意した作品もある)
風景をおおらかな表現が多いので国府の役人を歴任したと云う。
「葛飾の 真間の入り江にうちなびく 玉藻刈りこむ 手児名し 思ほう」-山部赤人・挽歌ー
玉藻は、食料か・加工か・神に捧げるのか・・・。

われも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城ところ(城は墓)
弘法寺「手児奈霊神堂」

お堂

真間は、沢山の洲があり、それら洲の間に「渡し橋」が万葉集に歌われている
境内に風雪に耐えてる松一本(真間には老松が多い)

行かむ駒もが 葛飾の真間の 継橋やまず通はむー馬が欲しい

1635年弘法寺の隠居寺の「亀井院・瓶井坊」の本堂裏手に万葉集歌人「高橋虫麻呂」の歌
「真間の井の歌ー勝鹿の真間の井を見れば 立ち中し 水汲みましけむ 手児奈し思ほゆ」
伝説の美女・手児奈が水を汲んだ「真間の井」-北原白秋も使っていたと云う

万葉集に十首あると云う

「継橋」は、奈良・平安時代から鎌倉時代前期にかけての歌枕(歌の名所)で多くの歌人が詠んでいる。

「つぎはし」で結ばれていた

「継橋」 都にも知られてたー真間

次回は、真間川の桜を
市川の弥生時代・古墳時代は、各地に集落があった。大集落に「須和田」が出現した。古墳も多く、弘法寺古墳・法皇塚古墳・明戸古墳は、
前方後円墳で真間山古墳の円墳が残っている。
645年国府台に「下総国府」が置かれ、政治・経済・文化の中心地であった。
日蓮宗・弘法寺、真間山山門から

仁王門(運慶作)



弘法寺境内の桜並木

樹齢400年の枝垂れ桜


6000~3000年前ー市川北部の台地・段丘に多くの貝塚が

古くから桜の名所、真間の住宅地が


濃幾観世音菩薩 弘法大師真筆額 日蓮聖人親刻大黒天が



「山部赤人」生没不詳・奈良初期宮廷歌人ー柿本人麻呂に並ぶ歌人
万葉集に49首・赤人は、歴史書に出てこず、下級官人だったのか?。藤原氏と親しい関係にある。(政治的不遇を寓意した作品もある)
風景をおおらかな表現が多いので国府の役人を歴任したと云う。
「葛飾の 真間の入り江にうちなびく 玉藻刈りこむ 手児名し 思ほう」-山部赤人・挽歌ー
玉藻は、食料か・加工か・神に捧げるのか・・・。



われも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城ところ(城は墓)
弘法寺「手児奈霊神堂」


お堂

真間は、沢山の洲があり、それら洲の間に「渡し橋」が万葉集に歌われている
境内に風雪に耐えてる松一本(真間には老松が多い)

行かむ駒もが 葛飾の真間の 継橋やまず通はむー馬が欲しい


1635年弘法寺の隠居寺の「亀井院・瓶井坊」の本堂裏手に万葉集歌人「高橋虫麻呂」の歌
「真間の井の歌ー勝鹿の真間の井を見れば 立ち中し 水汲みましけむ 手児奈し思ほゆ」
伝説の美女・手児奈が水を汲んだ「真間の井」-北原白秋も使っていたと云う


万葉集に十首あると云う


「継橋」は、奈良・平安時代から鎌倉時代前期にかけての歌枕(歌の名所)で多くの歌人が詠んでいる。


「つぎはし」で結ばれていた



「継橋」 都にも知られてたー真間

次回は、真間川の桜を