syuの日記・気まま旅

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千葉市内空中散歩(モノレール)-4

2016-04-08 | syu散歩
2016年3月31日現在
「千葉常胤」 1118-1201  鎌倉幕府草創の筆頭御家人ー武将・下総介、相馬郡司、
保元の乱に源頼朝に従って出陣。平治の乱で相馬御厨を佐竹氏と争っていて出陣せず、頼朝が挙兵し、石橋山から流れて千葉へ逃げると。
「鎌倉を拠点とすべし」と進言したと云う。富士川の戦い後、上洛すると「関東を固めよ」と進言。
平家追討の戦功でー下総守護。「奥州征伐時ー東海道大将軍で各地の所領で子孫が。

千葉モノレール1号線へ。
1号線は、千葉港のポートパーク「千葉みなと」駅~千葉県庁前~千葉駅。
懸垂型モノレールー3.2km-

 JR総武線・千葉駅一つ手前の「本千葉」駅へ(亥鼻公園近い)


経営は、千葉都市モノレール(株)千葉県・市などの出資、第三セクター方式で設置


       赤い線が「一号線」・グリーンが「二号線」(千葉駅~千城台)


     県庁前長洲1丁目交差点ーここからスタート(右手に県庁ビル)


                 この先は、何時に


                   中央区内


               葭川公園・文化センター・プラザ―等
    

                  繁華街栄町付近
    

            ショッピングセンター・千葉三越・そごう千葉等が
  

                        千葉駅へ


       千葉駅 二号線は、千葉公園~動物公園~都賀~千城台に


                     現在、千葉駅は、大工事中






次回は、茂原公園へ。

2015年7月掲載のものです。
JR総武本線が通り、それに沿ったタウンライナー(モノレール)・JR内・外房線、千葉急行鉄道・京成千葉線、、と駅周辺には
大型デパート・商業中心の高層ビルが立ち並んでいる。
1871年「廃藩置県」で「千葉県」成立し県庁がおかれ、行政機関が集中し中心として機能を担う。
千葉医学専門学校・病院・文教文化施設も設置され、地方中心都市化、又、国防衛線の一環として歩兵学校・兵器補給廠・鉄道第一連隊・気球連隊
軍部県でもあった。日立航空機・埋め立て「川崎製鉄」が、東京電力千葉火力発電所等重化学工業が促進された。
現在「千葉幕張新都心」で大型ホテルなどが建ち国際的ビジネスセンターとなっている。
埋立地も広がり、新都心ヘリボート・千葉マリンスタジアムの幕張海浜公園・検見川の浜・稲毛の浜・千葉港ポートパーク(JR京葉線)・川崎製鉄
と開発されている。



千葉みなと駅から県庁前駅を結ぶ1号線と、千葉駅から千城台駅を結ぶ2号線の2路線を持つ。
1988年3月に最初の区間である2号線スポーツセンター駅 - 千城台駅間が開業し、1999年3月に1号線を含めた全線が開通した。
総営業距離15.2kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で、2001年にギネス世界記録に認定 。

日本国内最長のモノレールは大阪府にある大阪モノレール、世界最長のモノレールは中国重慶市にある重慶軌道交通である。


「千葉寺」-真言宗・山号 海上山
                 坂東三十三か所 第29番札


千葉駅から北約500mにある。
709年「行基」の開基と伝わる。
    

「行基」668-749 奈良時代の百済系渡来氏族出の僧。社会事業で多くの人を救っている。
法相宗「道昭」に学ぶ、大仏建立を助け、大僧正に任じられる。
業績ー僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船息2・池15・溝7・堀川4・道1、、。朝廷は弾圧している。その為第二の行基は出なかったと云う。

    

千葉寺は、千葉氏の祈願所として尊信を集めた。
「県の巨木・寺のイチョウ」
名前, 千葉寺のイチョウ,ー 幹周/樹高, 8m / 30m. 樹種, イチョウ(公孫樹), 保護 指定, 県指定天然記念物. 推定樹齢, 1300年。

           梅竹文透 釣燈籠は、青銅の重文ー国立博物館寄託
    

BC28000頃餅ケ崎遺跡・文六第一遺跡ーBC3000頃荒屋敷貝塚・加曾利貝塚・月ノ木貝塚。
400年頃大覚寺山古墳・七廻塚古墳・上ノ台遺跡
600年頃人形塚古墳・荒久古墳
645-東国国司の任命・下総国千葉郡に
717-千葉郡内に千葉・山家・池田・三枝・・・七郷が置かれる。
1126-千葉常重(大椎から千葉へ移る。
1180-千葉常胤、国府台で源頼朝軍参陣・(頼朝挙兵)
1185-千葉常胤・下総の守護に。
1274-千葉頼胤蒙古襲来で九州へ出陣ー千葉氏二派に別れるー下総-九州。
1331ー千葉貞胤、「北条高時」支配下に征西軍参加ー元弘の変
ー「奈良時代・上総国国分寺」ー後継寺院は、市原市真言宗豊山派・山号、[医王院」本尊ー薬師如来

周囲に谷や古墳があるため寺域は四角形ではないと云う。
南北478m、東西は北辺:254m・中央:345m・南辺:299m、面積は139,000m2に及ぶ(武蔵・下野に次ぐ大きさ)。
主要な伽藍地は南北219m、東西194mで、大官大寺式の伽藍配置。伽藍は大きく2期の造営時期が確認され、1期目は仮設的意味合いが強いと云う。
旧国分寺は応永年間頃まで存続が確認されていたと云う。
(千葉県立中央博物館内に当寺の復元予想模型が、市原市役所内に塔の復元予想模型がある)

「奈良時代・下総国国分寺」-市川市国府台の南端に所在。
創建時の国分寺跡地上に立ち、「金光明寺」と号していたという。
1190年-1199年、1243年、1264年-1275年に当寺の寺領を指すとみられる文献が残っている。
戦国時代の2度の国府台合戦や数度の火災によって詳細な文献は失われており、変遷は不明と云う。
本堂ー境内は国分寺跡上に位置し、本堂は金堂跡の場所にあたる。境内には創建時の礎石が多く残っていると云う。
国分寺跡の伽藍は現在の国分寺と重複する位置にあり、金堂跡は現在の本堂の場所にあたる。
金堂と塔が東西に並ぶ法隆寺式伽藍配置である。塔は、西に、金堂・講堂は東に傾いており、堂塔の向きは一定ではない。
一帯は、須和田遺跡や国府跡推定地が残り、古くから文化的中心地であった。
僧寺・尼寺とも変遷は明らかでないが、9世紀代は充実している一方で10世紀代から衰退が見られ、大きな変容が認められる。
金堂 - 東西31.5m、南北19m。講堂 - 本堂裏の墓地内に位置する。東西26m、南北18m。七重塔 - 18m四方。礎石は本堂前に移動されている。

          上・下総国分尼寺も接近して残っている。


「平忠常の乱」
平安時代、房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で1028年に起きた反乱。
平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱と云う。平将門の叔父平良文の子孫に当たる「平忠常」が乱を起こし、
朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。
有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏したと云う。
この乱により房総三カ国は大いに荒廃し「長元の乱」ともいう。
1030年、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。
朝廷は、後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかったと云う。
忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭って抵抗、乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、
下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。
朝廷は、平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。
頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。
長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした1031年、春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。
頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、美濃国野上で忠常は病死し、頼信は忠常の首をはねて帰京。
忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。
1032年、功により頼信は美濃守に任じられた。
平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(今昔物語集)ためであるともいわれている。この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、
上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。
だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している(「左経記」長元7年10月24日条)。

この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。


「頼朝挙兵」
「三浦義澄」は、源頼朝軍の合流を目指し石橋山に向かうが、丸子河(酒匂川)の濁流に阻まれ、撤退を余儀なくされ、帰路途中・小坪の浜において
畠山重忠軍と遭遇し合戦に及んでいる。
その後、畠山重忠・河越重頼・江戸重長の三軍が衣笠城に押し寄せ、義澄の父・三浦義明が命を落としている。三浦軍は安房に渡り、源頼朝と合流
し、安房(一戦場)において、平家に味方する安房国・長狭常伴が頼朝の宿泊の隙を狙って夜襲をかけようと兵を挙げたが、事前に事態を察知した
三浦義澄が先回りし機先を制し長狭一族は敗北、 一方、「東(千葉)胤頼」は、源頼朝の使者・藤九郎盛長を父・千葉常胤とともに丁重に出迎え、
この上ない返事を盛長に持ち帰らせ頼朝を喜ばせている。
東胤頼が父に進言した。「下総国の軍勢のほとんどは平家に従う者達。私達一族全員が国境を出て頼朝様の居る安房国へ行ってしまえば、その隙を衝いて必ずや攻め込んでくるに違いない。まず足下の敵を攻め殺しておく必要があるのでは」との意見を述べ、 常胤もこの意見に同意。
「では、直ぐに攻め込んで撃ち滅ぼせ」と下知したため、東胤頼とその甥に当る千葉成胤は部下を連れて千葉の代官屋敷へ攻めかかった。
千葉の平家の代官(紀季經)は元からの大豪族なので数十人の兵隊で防戦した。
丁度北風が強く吹くので、千葉成胤は下郎達を館(市川市国府台)の後ろに回らせて、建物に火を付けて燃やさせたので、代官は火事に逃げ惑い、防戦のすべも無いままに、東胤頼が代官の首を獲っている。
頼朝は、この二人の味方で平家打倒の挙兵を。

平清盛                 源頼朝                 千葉常胤
    

「千葉常胤」 1118-1201 鎌倉幕府草創の筆頭御家人ー下総介
保元の乱頼朝と出陣・拠点を鎌倉進言・下総守護、頼朝征夷大将軍になると貴族の政所下文にならって「家司」、奥州征伐東海道大将軍で出陣
子孫は、各地に。

    

      「白幡神社」新宿町鎮座、頼朝が来訪時、境内に白旗を揚げたと云う


千葉氏系図
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王ーーー千葉常兼ー常重ー常胤ー胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼・日胤
成胤ー胤綱ー時胤(下総千葉氏)ー頼胤(九州千葉)ーーーーー満胤ーー直重 常秀ー秀胤(上総千葉氏)

安土桃山時代の小田原合戦、豊臣秀吉と小田原北条氏との戦いのなか、千葉介直重率いる下総千葉氏の手勢は小田原城に入って豊臣勢と戦い、本拠地の佐倉も攻め落とされ、鎌倉時代から連綿と続いた大名としての下総千葉家は滅亡した。

    

1274年、千葉頼胤軍は、九州出陣。
1331年、千葉貞胤軍は、北条高時の支配下で征西軍の参加。

「元寇」
日本の鎌倉時代中期に、大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻。
1度目を「文永の役」1274年、2度目を「弘安の役」1281年。ー蒙古襲来ー
特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊で、九州北部が戦場となった。

関東の鎌倉政権の下に元軍が対馬に襲来した報せが届いたのは、日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後で、元軍撤退後に元軍の対馬襲来の報せが
関東に届いた理由は、大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて「12日半」ほどは掛かったためと云う。
「勘仲記」によると、幕府では対馬での元軍が「興盛」である報せを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを総司令官として元軍討伐に派遣するか
議論があり、議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せている。
高麗からクビライの下へ派遣された「金方慶、印公秀」は、
三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やしたこと、加えて民は日本征討(文永の役)による戦艦を修造するために、働きざかりの男たちは
ことごとく工役に赴き、日本征討に加わった兵士たちは、戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために、今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであること、さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って飢えを凌ぐ者があるなど、
「民の疲弊はこの時より甚だしい時はなかった」といった高麗の疲弊した様子を伝えている。
そして、再び日本征討の軍を挙げるならば、小邦(高麗)は、戦艦・兵糧の支給には耐えられないとクビライに訴えている。



1222年ー日蓮・安房国生まれる・1247年ー千葉秀胤、三浦氏の乱に連座し打たれる・1455年ー千葉胤直など一族焼き討ち・自殺
1538年ー後北条氏家・氏康軍ー足利・里見(義尭)連合軍、下総国府台で敗れる・1564年ー里見義弘ー北条軍に敗れる。、、、、