syuの日記・気まま旅

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成東駅ー総武本線の旅2

2016-04-15 | 気まま旅

千葉県山武郡成東町・県中東部、九十九里平野と下総台地にまたがって広がる町である。
「成東」の町名は、日本武尊が東征のおりに太平洋の荒波にちなんで「鳴涛」と名付けたと云う。中世は、千葉氏の支配下になったが、近世には
旗本領地に分割さた地域。
平野部は、1965年に両総用水の完成で米作が安定し、施設農園の野菜の生産が増産されたと云う。落花生栽培の発祥地で、イチゴ狩りも盛ん。
白幡地区は工業団地が造成され、海岸は、潮千狩で人気である。
市の境に、天然記念物・東金食虫植物群落でも知られている。

「成東駅」は、歴史が有る。 1897年の明治30年、 総武鉄道の駅として開業し、明治40年、 総武鉄道が買収され、国有鉄道の駅に。
昭和20年8月13日
太平洋戦争による空襲(機銃掃射)に遭い、駅に停車していた貨車に積まれていた高射砲四門と弾薬に引火する。
客車5両も焼失し、駅員や陸軍近衛第3師団将兵が消火作業に当たったものの、爆発・炎上し、駅舎およびホームが全壊され、
駅員15名、将兵27名の計42名が死亡した。


                  成東駅前に慰霊碑が。
    

「津辺城址」は、成東駅に近い城跡で、山武郡津辺とあるが探す事は出来ず。
築城は、室町時代の天正期以降、廃城は、徳川譜代の「石川康通」が、「関ヶ原の戦い」後、美濃の大垣へ移っており、それで廃城したと思われる。
成東城との関係など不明である。


   町の中に小さな「五郎神社」が鎮座、ラクビー選手の「五郎丸」が。
    


「伊東左千夫」ー歌人・小説家 (1864 - 1913)
千葉県成東町殿台に生まれ、 年少の師「正岡子規」に傾倒し、長塚節とともに、島木赤彦、斎藤茂吉ら次の世代に師。
「野菊の墓」「分家」等の小説の名作もある。
万葉的な熱い情けに富んだ一世の詩家として懐かしまれる。

伊東左千夫「野菊の墓」
・・・15の政夫と17の従姉民子。政夫の母親の体調がよくないので、民子は看護や仕事の手伝いで斉藤家にやってくる。
小さい頃から仲がよかった2人は、次第に男女の恋愛感情を抱くようになる。
しかし、兄嫁や作女のお増はそれが気に入らずに、母親に告げ口などをする。
母親は2人に、もう子どもではないのだから、あまりべたべたしてはいけない、という内容の説教をする。
それに民子は2歳上の女。世間体的にもふたりが結ばれるなどとは考えられない。その説教以来、民子は政夫のもとへあまり近づかなくなってしまった。それが原因なのか、政夫は民子を女性として感じるようになる。
ある日、2人は少し遠い斉藤家の畑まで、収穫にいくようにと、母親に頼まれる。
久しぶりに2人で語らえるので、お弁当を持って楽しみにでかける。
道々、野菊が生えている。
ふたりとも野菊が好きだ。
そして、民子は野菊に似ている、と政夫は言う。このニュアンスを2人は意識し、会話は少なくなる。
想いは通じていた。
世間体の悪さから(明治時代なので)、政夫は早めに中学校(いまの高校か)に進学させられる。
下宿なので、民子と離れなければならない。政夫は、お見送りにきた民子に想いを込めた手紙を渡す・・・・。

     伊藤左千夫の代表作「野菊の墓」像(伊藤左千夫記念公園内に)
  

・・・・ある日、政夫のもとに電報が届く。
急いで家に帰ったところ、民子が死んだことを告げられる。
母親は無理に嫁にやったことを後悔しており、取り乱している。
民子の気持ちが本心ではないので、半年ほどで離縁され、その後、民子は病気になり死んでしまったのだ。
死後、民子が手に持ち、胸に押し寄せていたのもは、政夫の写真と手紙だった。ここにきて、政夫と民子の強い気持ちを知り、皆、すすり泣く。
政夫は民子の墓に参る。
周りには野菊がたくさん生えている。政夫は7日間通いつめ、民子の墓の周囲一面に野菊を植えた・・・・・。

       左千夫記念公園ー先に、生家・歴史民俗資料館が
    

左千夫は、(上総国武射郡殿台村・現在の千葉県山武市)の農家出身。
明治法律学校(現・明治大学)中退し、明治31年、新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。
歌よみに与ふる書・に感化され、正岡子規に師事。
子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木・アララギ」の中心となって、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成したと云う。
1905年の明治38年、には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表。
夏目漱石に評価される。代表作に「隣の嫁・春の潮」などを次々に。
東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。
常音の兄である真宗大谷派僧侶の「近角常観」とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌「求道」(求道発行所)に短歌を寄稿する。
1913年の大正2年、に脳溢血のため死去。

                公園内には、記念碑が多数ある。
    

左千夫の菩提寺は、東京普門院、
真言宗智山派の寺院。山号は福聚山という。亀戸七福神・毘沙門天を祭っている。
寺は、以前掲載し、普門院は、1522年に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建された古刹
元和年間(1615年~1624年頃)に現在の土地に移った寺。
歌の世界に生き甲斐を見出した時は、37歳、それから50歳で没する13年間に「馬酔木」を経て「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、斉藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などの大歌人が出ている。短歌と小説、随筆、写生文などの幅広く才能を発揮した。

          明治22年墨田区江東橋(錦糸町駅に近い)で乳牛改良社を開業している。
    

茶の湯・左千夫は、茶道にも通じており、正岡子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けたと云う。
一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。(現在では生家に移築)
左千夫はもともと旧派の和歌を詠んで、号は「春園」。
正岡子規より年長だが、子規に議論を吹っ掛けにいって、逆に論破され、門下に連なったとも云う。
子規の死後、機関誌をもたない「根岸短歌会」のために「馬酔木・あしび」を創刊するも、雑誌は売れず廃刊。
三井甲之の「アカネ」がこれを引き継いだが、同人の間に不満続出。紆余曲折を経て、「アララギ・当初は漢字書き」を創刊。
雑誌の経営難・資金難、さらに自宅が洪水の被害を受けるなどの困難がふりかかる。
「アララギ」が安定したあとも、島木赤彦の作品をめぐって、斎藤茂吉と誌上で激論を交わした。
それでいて斎藤茂吉の異色な作品をかばったとある。
島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明などの個性の違う弟子たちや、長塚節・岡麓らの子規門下をまとめ、いわば「根岸短歌会」の「重石」だった。
岡井隆のいう「大同団結」の気風をアララギの中に育んだのは、伊藤左千夫の功績。
生前、自身の歌集を出版することはなく、小説の執筆に傾倒したこともあり、「野菊の墓」などの作品が。




「作田川」ー2級水系(高倉川と合流する)20.7km・河口ー九十九里海岸。

千葉県山武市北西の大木地区付近に源を発する。
JR総武本線とほぼ平行に流れ、同市雨坪付近で源川を合わせる。
日向橋以降は河川改修により拡幅されており、同市椎崎付近では旧河道が残る。
八反目橋で狭まり、成東堰にて両総用水を分ける。程なくして山武市街に達し、成東・東金食虫植物群落のすぐ北側を流れる。
河川幅が徐々に広がり、東金市に入ると武射田堰を越え、山武市との境界付近で境川を合わせる。
両市の境界を流れ、白幡ニュータウンを越えると九十九里町に入る。
鶴巻堰手前で真亀川より分流してきた高倉川を合わせ、更に河川幅は広がる。
九十九里橋を過ぎると、片貝漁港より太平洋へ注ぐ。周囲は九十九里浜で、作田川を境として東に作田海水浴場、西に片貝海水浴場が広がる。
流路延長20.7kmのうち、源川合流地点より下流18.218kmが二級河川に指定。
明治・大正時代までは支流の境川の名称が使われていたが、近年になって「作田川」に改められた。


大橋に、童べの時 覚えねど 岡負へる日南成東は 春によろしもー左千夫


           左千夫も子供時代は、この川で遊んだであろう
    

「成東の神舞・お竜頭の舞」
源頼朝の家臣が代参した際に始まった「三匹獅子舞」
白幡八幡神社の秋大例祭に疫病退散を祈願して奉納される。 露払いの弓持ちと旗持ちの先導で、拝殿から獅子の行列が短く練り込む。
獅子は、男獅子・子獅子・女獅子の三匹で、腹の羯鼓をバチで叩きながら舞う。 演目は「十二番・四方固め・弓くぐり・橋かがり」が伝わる。
獅子頭は真っ黒な目が特徴で、鎌倉期の作と伝えられる。
白幡八幡神社八幡宮伝承文化保存会が伝統を継承している。 旧暦9月9日に近い日曜日 ・ 山武市指定無形民俗文化財

    


次回も成東の浪切不動院へ。