千葉県「旭市」ー九十九里平野北端の市、旭将軍「木曽義仲」の子孫が江戸時代この地を領有したことから「旭」将軍の旭市に。
木曽義仲19代子孫「木曽義昌」の菩提寺「東漸寺」が海岸寄りにある。
施設園芸・農業・商業が盛んな地方都市で、古くから、「椿海」と呼ばれた湾入である。
1670年、幕府は、千拓に援助を、干潟8万石の水田開発がされてきた。近世は、十日市場として発達し、現在、農村地域を背後に商業機能が強い。
米・芋・麦・野菜施設園芸へと変わってきている。
人気が海水浴場・海浜植物園・温泉も湧く、鎌数伊勢大神宮(祭神天照大神)の神楽は県無形民俗文化財に、又、落花生栽培も盛ん。
「八日市場」九十九里平野北部で、8の日に木綿の市が立ったことに由来すると云う。中世の匝瑳氏が支配、近世は幕府直轄領・旗本領に。
旭・八日市場と千潟8万石の一角で穀倉地。大利根用水が1951年完成し安定した水田農業と養豚が盛ん。
徳川幕府の庇護を受けた日蓮宗学問所、飯高寺がある。
「銚子」県北東端・利根川河口(利根川の河口が酒器の銚子に似ている所から付けられた)と黒潮の流れと醤油醸造の町に入る。
「総武本線」は,「佐倉駅」を出ると、終点の「銚子駅」まで単線となる。
「佐倉駅」を出ると複線の成田線と2kmほど並行。
国道51号と交差後に成田線は北側に離れていき、総武本線は、南東の雑木林の中を進む。単線区間最初の駅が「南酒々井駅」同駅を出ると三たび東関東自動車道をくぐり、平野部にある「榎戸駅・八街駅」へ。
山武市に、「日向駅」を過ぎ、東金線が分岐する「成東駅」に至る。
「成東駅」からは国道126号と並行し、南東の太平洋に面した九十九里浜から5kmほど離れた平野部を進んで銚子を目指す。
「成東駅」を出て東金線が南方向へ分かれていくと、左にカーブして北東方向へ。沿線は田園地帯が続き、「旭駅」手前では線路の方向が東向きに変わる。
「旭駅」を出ると国道126号が南側へ分かれ、「銚子駅」の手前にある「松岸駅」までは丘陵地帯の合間をカーブしながら進む。
この区間の「飯岡駅 - 倉橋駅」間にはトンネルが1か所存在。
「松岸駅」で成田線と合流すると国道356号と利根川に沿い、市街地に入ると総武本線の終点 -「銚子駅」に至る。
銚子駅の構内で、「ありがとうの銚子電鉄線」が接続している。
銚子の主産業は、昔から醤油醸造と漁業。これは、紀州・関西との関わりで始まっている。
黒潮沿いに海路を往来した人々によって、この産業が定着した、銚子半島の南東端の外川浦は、石畳の坂道を挟んで家が密集し、漁業の町。
1658年、房総半島沿いに漁業をして銚子までたどり着いたー紀州の漁師「崎山次郎右衛門」により開かれたと云う。
駅構内にも漁業大漁旗が
醤油2代工場ーヤマサ・ヒゲターが「銚子駅」を挟んでいる。
ヒゲタは、「田中玄蕃」が、1616年に兵庫県西宮の酒造家に教えられ「溜醤油」を造ったのが始まりと云う。
気候風土醤油造りに最適で400年以上の歴史
ヤマサは、紀州広村の「浜口家」によって創業され、いずれも、1700年前後に、江戸を指向してん「本格醸造」に乗り出した。
醤油の原料は、大豆と小麦粉で関東平野で収穫し、「塩」は、千葉県市川の行徳などを使用した。
運搬は、船と水路を利用した。
醤油の生産量は、1)千葉県野田市の醤油、2)千葉県銚子・・・生産量年約全国120万kI・内銚子は、約22万kI。
ヤマサ工場見学がー銚子駅から徒歩で7~8分
「威徳寺」-真言宗のお寺。
寺伝ー創立は嵯峨天皇弘仁元年の810年、 弘法大師東国遊化の砌り、下総国銚子港荒野袋町(現 銚子市双葉町) に草庵を結び本尊薬師如来の尊像を自ら彫刻せられ安置。
ー 清和七年(864年) 益信大徳、京より当寺へ来たりて、堂宇を増築、不動明王の尊像を安置する。 天歴元年(947年) 空也上人当寺の草庵に来り一宇を造し、彌陀の尊像を安置 念仏三昧を修し諸人教化し給う。
これ空也坊の始にして後に荒野坊と称したと伝えられる。
往古には当寺は地化寺と称され、境内には明暦年間(1650年頃) に再建された本堂をはじめ、 薬師堂、観音堂、閻魔堂、二重塔、鐘楼が立ち並び、 圓妙院、不動院、千手院、龍性院、自性院、普門院、地福院の七坊の塔頭を有し 白幡神社の別当職を兼ねる一大巨刹として栄えるが、明治維新の廃仏毀釈により一時衰微する―とある。
明治の1889年、火災に、1911年、大本山 高尾山薬王院の援助、檀信徒の努力により現在地に移転再建。
「妙福寺」-真言宗から1312年、日蓮宗・山号ー海上山。
本尊ー妙見菩薩を祀り「妙見宮」が。旧本山法華経寺
藤の花でも知られている。
「浄國寺」(無衰院)
三祖良忠上人開山。
寺所蔵「海上郡浄国寺事実」によると、時が移り変り、当山の開基事実を訪ねても定かでないと史料のなさをなげいており、中興助上人は、この地が良忠上人ゆかりの地であるとしてここに庵を結んだとある。
その後、寛文元年の1661年、に顕譽智典上人が庵室をたずね、現在の地に一寺を建立することを願い、深川ー 霊巌寺の末寺となったとある。
山号・一立山・無衰院・浄国寺と号し、浄国寺々宝「称讃寺規式条々」には、この寺号に関して、1810年以前は東照山称讃寺と号したが、寺が衰廃してしまい、現在の辺田村に再建したが、寺号 が徳川家に対して申し訳ないので、熊野権現の夢告に従って今の寺号にしたとある。
現在の概観は、その後、延宝から正徳年間までにできあがった。
浄土宗全書所収「深川霊巌寺志」に「開山記主禅師東関開創四八宇の随一と云々」とあり、現在、県下浄土宗寺院筆頭の別格寺院である。
望西台と呼ぶ庵があって、明和年間から文化・文政年間にかけて、渡辺華山・小林一茶を始め、数多くの文人墨客がここを訪れ、多くの作品を残している(墨画帳に現存)。
一立山 浄国寺 無衰院ー開山、然阿良忠上人・開創ー1255年(建長7年)
酒仏ー酒に関する祈願・願掛けをする。徳利や膳の形のお墓を云う。
鐘楼 本殿 酒仏の鈴木玄庵の墓(医師)
「小林一茶」1763-1827 俳人・俳諧師、農民の子苦労を重ね「我と来て 遊べや 親のない雀」51歳で故郷で安住、死の前年、大火で家を失い土蔵の中で死の床に。
「松尾芭蕉」1644-94 俳人ー奥の細道の旅にでた。最後の句 ー旅に病で 夢は枯野を かけ廻るー大阪で客死。
句碑ー枯れ枝に カラスのとまりけり 秋の暮ー芭蕉
銚子電鉄のレトロ列車にのって
大正12年の歴史ある銚子電鉄は、ここJR銚子駅からありがとう外川駅までで6.4km・約20分で結んでいるローカル線。
車両がツートンカラーのレトロ色で、約40kmが最高速度銚子以内を長崎鼻灯台の外川へ。
運賃も、一日乗車券・往復・片道(350)
犬吠崎温泉駅へ
犬吠崎温泉駅は、東端に位置し、三方海に囲まれ景勝地。
ぬれ煎餅のイシガミ犬吠店
次回も、銚子電鉄で。