「地蔵清水の井戸」
太鼓橋を出て、その北側の通りは神社や教会が立ち並んでいろ。その通りにひっそりと佇んでいる小さな井戸が、「地蔵清水の井戸」、
市街地に点在している他の井戸とは少し変わった井戸で知られている。
井戸自体が他の井戸と比べると小さい、井戸としては目立たない。
湧き出してくる水量が少なく常に湧き出してはおらず、時期によって水が湧き出るときもあれば湧き出ていない時もあるなどといわれている。
「松本神社」
縁結びおよび郷土発展の神として信仰を集めた暘谷大神社である。
御神木の大欅は境内の外、道路の中央分離帯上にある。
松本城の城主は、6家23人の城主がその任に当たり、この間幾度か時代の大きな波に洗われた。初代石川氏は改易という大きな処罰を受けた。
水野家も断絶は免れたもののその危機に遭遇し、家臣は離散し城下は荒れて文化は衰退した。
特に戸田家に至っては幕末明治維新の洗礼を受け時代の波に翻弄され、とりわけ1871年の廃仏毀釈は、松本城下はもとより、
藩領一円にわたって寺院の破壊が行われ、仏教文化を荒廃した。
「松本市旧司祭館」
市旧司祭館は、市にある最も古い西洋館。県内に現存する最古の西洋館で、アーリーアメリカン風建築。
設計者は最初の居住者でもある松本カトリック教会のクレマン神父。
1889年に宣教師用住居として松本城下・地蔵清水町の武家屋敷跡地に建設され、その後松本市へ寄贈。
重要文化財「旧開智学校」
旧開智学校は明治時代の代表的な擬洋風建築で、日本瓦葺きの木造2階建て、外壁は漆喰塗である。校舎は白を基調としており、中央に塔があり、
その下に彫刻がある。地元出身で東京で西洋建築を学んだ大工棟梁の立石清重により作られた。
東京の開成学校と東京医学校を参考に作られたと言われる。
松本藩校崇教館の流れを汲む。
また当校内に中学水準に相当する課程として設置された英学課は、旧制松本中学・長野県松本深志高等学校の祖となった。
松本城主の水野氏が三河から運んで安置した古いものと伝えられている。
地蔵さんは、子どもの身代わりとなって首が切り落とされたという。
この首を借りていって祈願すると、子どもの病が治るというので、首は方々へ借りられていったという。
たまたま首を返さない人がいて、長く「首なし」でいましたが、近くの石工が新しい首を造ったらしい。
松本城下町に現存する貴重な武家住宅
「高橋家住宅」は、市内に現存する数少ない武家住宅のひとつ、 高橋家は、美濃国加納(現在の岐阜県岐阜市)で戸田家に召し抱えられてから、
代々戸田家に仕えていました。1726年に、志摩国鳥羽、から戸田光慈が松本藩主として移ってきたが、その時に藩主に従って松本に移り住み、
松本藩が藩士の住まいとして所有したいわば官舎。
「稲荷社と市指定保存銀杏」民家の玄関先の空き地に銀杏の大木が茂っていた。
「北島場柳の井戸」字のごとく柳の古大木が、松本市には、所々に湧水、井戸の跡地が残って名がついている。
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