syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

松本 旧開智学校

2011-11-19 | 気まま旅

「地蔵清水の井戸」                                 
太鼓橋を出て、その北側の通りは神社や教会が立ち並んでいろ。その通りにひっそりと佇んでいる小さな井戸が、「地蔵清水の井戸」、
市街地に点在している他の井戸とは少し変わった井戸で知られている。
井戸自体が他の井戸と比べると小さい、井戸としては目立たない。
湧き出してくる水量が少なく常に湧き出してはおらず、時期によって水が湧き出るときもあれば湧き出ていない時もあるなどといわれている。

「松本神社」
縁結びおよび郷土発展の神として信仰を集めた暘谷大神社である。
御神木の大欅は境内の外、道路の中央分離帯上にある。

    

松本城の城主は、6家23人の城主がその任に当たり、この間幾度か時代の大きな波に洗われた。初代石川氏は改易という大きな処罰を受けた。
水野家も断絶は免れたもののその危機に遭遇し、家臣は離散し城下は荒れて文化は衰退した。
特に戸田家に至っては幕末明治維新の洗礼を受け時代の波に翻弄され、とりわけ1871年の廃仏毀釈は、松本城下はもとより、
藩領一円にわたって寺院の破壊が行われ、仏教文化を荒廃した。

  


「松本市旧司祭館」
市旧司祭館は、市にある最も古い西洋館。県内に現存する最古の西洋館で、アーリーアメリカン風建築。
設計者は最初の居住者でもある松本カトリック教会のクレマン神父。
1889年に宣教師用住居として松本城下・地蔵清水町の武家屋敷跡地に建設され、その後松本市へ寄贈。
 
重要文化財「旧開智学校」

旧開智学校は明治時代の代表的な擬洋風建築で、日本瓦葺きの木造2階建て、外壁は漆喰塗である。校舎は白を基調としており、中央に塔があり、
その下に彫刻がある。地元出身で東京で西洋建築を学んだ大工棟梁の立石清重により作られた。
東京の開成学校と東京医学校を参考に作られたと言われる。
 
  

松本藩校崇教館の流れを汲む。
また当校内に中学水準に相当する課程として設置された英学課は、旧制松本中学・長野県松本深志高等学校の祖となった。


  


松本城主の水野氏が三河から運んで安置した古いものと伝えられている。
地蔵さんは、子どもの身代わりとなって首が切り落とされたという。
この首を借りていって祈願すると、子どもの病が治るというので、首は方々へ借りられていったという。
たまたま首を返さない人がいて、長く「首なし」でいましたが、近くの石工が新しい首を造ったらしい。


  

松本城下町に現存する貴重な武家住宅
「高橋家住宅」は、市内に現存する数少ない武家住宅のひとつ、 高橋家は、美濃国加納(現在の岐阜県岐阜市)で戸田家に召し抱えられてから、
代々戸田家に仕えていました。1726年に、志摩国鳥羽、から戸田光慈が松本藩主として移ってきたが、その時に藩主に従って松本に移り住み、
松本藩が藩士の住まいとして所有したいわば官舎。


  

「稲荷社と市指定保存銀杏」民家の玄関先の空き地に銀杏の大木が茂っていた。
「北島場柳の井戸」字のごとく柳の古大木が、松本市には、所々に湧水、井戸の跡地が残って名がついている。

    


次回は、町中へ

風雪に耐えた松本城

2011-11-18 | 気まま旅

現役の頃、長野県を担当していたので懐かしく暇ができると行ってみたくなる。今回は松本、上田、別所温泉あたりをまわってきた。
約10回ほどになりそう、飽きずにご覧ください。

「諏訪湖」中央高速諏訪エリアから見た湖。諏訪盆地にある断層湖で面積は県内一、浅いので汚染、浄化が必要。
厳寒期には、氷が割れ「御神渡」と呼ばれている(諏訪大社上社の男神が下神の女神の基に通う道)現象がある。
温泉が湧出し観光地となっている。面積13.3km2、周囲17km、深さ6m。

  

400年余の風雪に耐えた
国宝、「松本城」。市は、古くは筑摩、深志と呼んだ、平安初期、信濃(上田)の国府が松本に移された。
中世「信濃一国守護館」の所在地。1590年石川氏が松本城整備し城下町を築いた。以降小笠原、戸田、松平が入封、
1726年以降松平藩戸田氏6万石の城下町に。

江戸時代は、糸魚川、飛騨、伊奈、等の街道の中心地で商業都市として発展した。その丸の内に城があり、「深志城」「鷲湖城」ともいう。
小笠原貞慶が改名し松本城を、その後石川数正、その子康長が継ぎ1594年完成。天守は屋根五重、内部六重である。姫路城、彦根城、犬山城と並ぶ城。

  

小笠原氏の家臣等が林城取り囲むように守りを固め、その後甲斐の武田信玄が、「小笠原長時」を追い占領し信濃の拠点にした。
1582年本能寺の変「小笠原貞慶」が回復し、「松本城」と改名。徳川家康に従い、小笠原氏は、下総へ、豊臣秀吉は「石川数正」を松本城に。
数正・康長父子は、天守三棟、御殿、太鼓門、黒門、櫓、堀などで本丸、二の丸を固め三の丸に武士を集めた。城下町の経営のも尽力した。

    

築城技術を今に伝えている。天守六階、天守四階、天守三回、特徴的窓、丸太の柱、渡り櫓、石落としの狭間、月見櫓、太鼓門
黒門、御殿跡など、風格ある環境景観と歴史、文化を感じさせる。     観覧料¥600

  

木造天守としては、日本最古の城「松本城」。歴代藩主石川数正、康長(1590-1613)。小笠原秀政、忠真(1613-1617)
戸田康長、康直(1617-1633)。松平直政(1633-1638)。堀田正盛(1638-1642)。水野9代~14代(1642-1725)
戸田15代~23代(1726-1869) 六家二十三代のめまぐるしい交替。

  

石川数正 ~1592 家康を裏切った老臣、今川方から家康の子「信康」を奪還し西三河の旗頭。家康のもとを出て、秀吉に臣従し、
信濃の国松本8万石に転封された。
家康背信行為説、秀吉の人柄に魅了された数正は、同僚から顰蹙を買った、家康のスパイなどと、周囲からは、家康裏切り者として寂しく没している。

城内で「菊まつり」が開催されていた。
  

次回は旧開智学校方面へ。

東本願寺と源空寺

2011-11-16 | syu散歩

「仁丹塔」は、浅草国際通り(田原町)に面したT字路に立っていた。 明治23年に建造され、浅草のシンボルで関東大震災で倒壊。
「十二階」・凌雲閣 を模して昭和7年に建てられた広告塔。この近くにあった。

「菊水通り」は、浅草の中でものんびりしている。昔、牛もつ肉の「菊水」があり量り売りしていた。
その後、菊水会館となり、結婚式場て成長したが、通りには無くなっていた。
浅草びいきの作家たちも昔はよく通っていて坂口安吾が手をついてやけどをしたという「お好み焼き」などが目に付いた。

「浅草東本願寺」は、1651年、東本願寺第12世教如が神田に江戸御坊光瑞寺を建立、その後、京都の東本願寺の掛所(別院)となった。
1657年(明暦3年)明暦の大火により焼失し、浅草に移転。浅草門跡と称されるようになり、21の支院と35の塔頭を抱え、境内は1万5000坪に及んだ。
その伽藍は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』に「東都浅草本願寺」として描かれている。

1868年には、渋沢成一郎や天野八郎などの旧幕臣ら百数十名により、大政奉還後、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の擁護を目的とする
「彰義隊」が結成され、その拠点となった。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により本堂等を焼失、1939年、焼失した本堂を再建、1945年、空襲により本堂内部を焼失する。
真宗大谷派からの独立

親鸞 1173-1262 浄土真宗の開祖、9歳で慈円について出家、主著「教行信証」「歎異抄」など、越後に配流された。

  

文化財は、都指定有形文化財(彫刻)・木造阿彌陀如来立像(鎌倉期)・区指定有形文化財(絵画)・絹本着色親鸞上人絵伝(室町末期)・
絹本着色親鸞上人絵伝(江戸期慶長年間)・区指定有形文化財(工芸品)・銅鐘(江戸初期)・その他紫雲亭襖絵(棟方志功作)(昭和36年)など。

親鸞  
       


「源空寺」
浄土宗の源空寺は、五台山文殊院、1590年 湯島に草創した。明暦3年の大火で類焼し、この地へ移転。
境内には、高橋景保、谷文晁、幡随院長兵衛、高橋至時、伊能忠敬の墓がある。

  

伊能忠敬 1745-1818測量家 天文学者 「高橋至時」 (ここに墓あり)の門下生測量技術を習得、56才で蝦夷地の旅に。
     72才で、日本全土の測量を終える。遺言で師の高橋至時の傍らに葬る。


    

    

「幡随院長兵衛」元は唐津藩の武士・塚本伊織の子で、口入れ屋を営んでいた。
江戸の幡随院(京都の知恩院の末寺、その後焼失し現在は小金井(東京都小金井市)に移っている)の裏に住んでいたため、
幡随院長兵衛と呼ばれるようになった。1657年に旗本奴の頭領、水野成之(十郎左衛門)に湯殿で殺されたとされる。


「谷文晁」は30歳になるまで日本全国をさかんに旅し、行ったことのない国は四、五か国に過ぎなかった。旅の途次に各地の山を写生し、
名著『日本名山図譜』として刊行した。山岳の中では最も富士山を好み、富士峰図・芙蓉図などの名品を多数遺している。

  

ここで日暮里、三ノ輪、浅草を終わります。

姥ヶ池と浅草寺

2011-11-14 | syu散歩
「浅草」江戸中期浅草寺の裏手 奥山には見世物やが並んでいた。天保の改革で「中村」「市村」「守田」江戸芝居三座が浅草の色彩を強めていた。
浅草寺一帯を浅草公園と云っていた。1区観音堂、2区仲見世、3区伝通院、4区木馬館、5区花やしき、6区映画興行街と1884年整備された。
大正のオペラ、昭和の軽演劇女剣劇などが次々出来て行った。1970年木馬館、国際劇場閉館し活気を落とした。
年中行事の3月観音示現会・金龍の舞、5月三社祭、7月ほうずき市、8月カーニバル、11月酉の市、12月羽子板市などの賑わいは
衰えていない。

「助六」碑は、「助六にゆかりの雲の紫を弥陀の利剣で鬼は外なり」団洲、の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮亳したもの「団洲」は団十郎の雅名である。
歌碑は明治12年、九世市川団十郎が中心となり、日頃から世話になっていた日本橋の須永彦兵衛(通称棒彦)という人を顕彰して彦兵衛の
菩提寺仰願寺(清川1-4-6)に建立したが、大正12年の関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが後に発見しこの地に再造立された。

ほぼ完成のスカイツリー                       花川戸公園                   
    

姥ケ池碑・昔隅田川に通じた大池で、明治24年に埋め立てられた。姥ケの池の伝説は、浅草寺本堂に展示してある大きな絵馬の「一ツ家」にも描かれている。
浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいて、道行く旅人を家に泊めてはその頭を叩き殺していた。
それを知った浅草観音は旅人に変身してその家に泊まり、老女は例によって旅人をしとめるが、なんと殺したのはわが娘であった。
なげき苦しんだ老女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。

その池はここ、「花川戸公園」辺りに位置し、園内には人工の池が作られ、碑もある。
    


「仲見世商店街」は、「新」といえば、新仲見世に対して、ただの仲見世と言えば、江戸の仲見世、昭和の新仲見世で区別している。
浅草 最大の商店街。                        浅草寺山門
  

「浅草寺」鎌倉時代の『吾妻鏡』に、181年、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。
また、1192年、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加。

1590年、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。
浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは1631年、1642年に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、
1648年に五重塔、1649年に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。

浅草寺境内
  


「仲見世・新仲見世・伝通院通り」伝通院から浅草寺の参道の両側に,びっしりと商店が軒を並べ石畳の道は賑やかな門前町を形成している。
小店ばかりだが,江戸時代からつづく老舗が多く,扱う品もさまざまで,

仲見世商店街               伝通院通り
  

「六区通り」 浅草の街は浅草寺を中心に、北は言問通り南 は雷門通り、西は国際通り東は隅田川に囲まれた一体を浅草。
その中の繁華街が「六区通り」と云う。
縦横無尽に幾つもの細い道がひしめき合っている。

一番の繁華街 六区通り
  

国際道りを横断、菊水通りの東本願寺へ。

招き猫と今戸神社

2011-11-12 | syu散歩

「浅草名所七福神」
浅草寺 大黒天 聖観音宗・浅草神社 恵比須 神道・本龍院 待乳山聖天 毘沙門天 聖観音宗 ・今戸神社 福禄寿 神道
不動院 橋場不動院 布袋尊 天台宗・石浜神社 寿老人 神道・吉原神社 弁財天 神道 ・鷲神社 寿老人 神道
矢先稲荷神社 福禄寿 神道

浅草名所七福神は九社寺ある。「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。
九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したことによる。

浅草名所七福神の一つ、
「待乳山・聖天」は、十一面観音菩薩を本地仏とする聖天さま(大聖歓喜天)、
仏法を守護し、仏道を行ずる人々を 守護する天部の神様であり、衆生の迷いを救い、願いをかなえると言い伝えられている。

境内に大銀杏が茂っている。

    

「池波正太郎」
1923年、ここ浅草の聖天町に生れ、父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職今井教三の長女で、正太郎は長男であった。
時代小説・歴史小説作家。
『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家。

    

「今戸神社」
招き猫発祥の地「今戸神社」は、伝わっているところによると、江戸時代末期、界隈に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、
夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして売ったところ、
たちまち評判になったという。これが招き猫の発祥とも言われ、現在では今戸神社は招き猫発祥の地として多くの招き猫が奉られている。
焼物として使うこの土地の粘土が良質の物だった事から、今戸焼が栄えた。沖田総司の終焉の地、幕末の志士・沖田総司の終焉の地とも言われている。
結核を患っていた沖田総司を診ていた松本良順が当時今戸神社を仮の住まいとしていたことからきている。 縁結びの神様。

「沖田総司」1842-68 新撰組天才剣隊士、白河藩士の子、一番組長を務めた。肺結核で千駄ヶ谷植木屋で息を引き取った。

    

神社は、1063年 源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。
  

山谷堀公園「今戸橋」
江戸時代の姿なのか?、今戸橋は現在の314号線にまたがってあり、その幅も長さも大きいもの。
目の前には隅田川を渡る「竹屋の渡し」もあり、多くの人が行きかったことが想像できる。生活に密着していた橋。今戸神社すぐ

  

次回は浅草寺方面へ