syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

浅草鷲神社と一葉

2011-11-11 | syu散歩
樋口一葉「にごろえ」
銘酒屋の遊女お力が、落ちつぶれて妻子とも別れた源七と情死するまでを描く。作者の住む丸山福山町を舞台に、ここに生きる住民を描写している。

丸山福山町の銘酒屋街に住むお力。お力は客の結城朝之助を愛したが、それ以前に馴染みの客源七がいた。源七は蒲団屋を営んでいたが、
お力に入れ込んだことで没落し、今は妻子ともども長屋での苦しい生活をおくっている。しかし、それでもお力への未練を断ち切れずにいた。
ある日朝之助が店にやって来た。お力は酒に酔って身の上話を始めるが、朝之助はお力に出世を望むなと言う。
一方源七は仕事もままならなくなり、家計は妻の内職に頼るばかりになっていた。そんななか、子どもがお力から高価な菓子を貰ったことをきっかけに、
それを嘆く妻と諍いになり、ついに源七は妻子とも別れてしまう。お力は源七の刃によって、無理とも合意とも知らない無理心中の片割れとなって死ぬ。

樋口一葉1872-96 中島歌子弟子入り「萩の舎」同門田辺花圃に刺激され小説を書く、「闇桜」「うもれ木」「たけくらべ」
「にごりえ」「十三夜」24歳で没した。

「一葉記念館 無料公開」
一葉記念館では一葉の命日にちなんで一葉祭を開催し、今年は4日間(11月21日~24日)無料公開。11月25日(水)は休館。
開館時間 午前9時~午後4時30分、

  

「飛不動尊」1530年、本山派修験僧の正山上人によって開かれた修験系天台宗の単立寺院。
                      


浅草酉の市「鷲神社」は、三ノ輪から浅草まで露天が何千店と並ぶ、神社でやはり熊手を徹底的に値引きが楽しい。今では少なくなったが、
農産物土産だった唐の芋を「頭(かしら)の芋」と呼び、浅草名物となった。食べると人の頭になれると洒落て開運出世の縁起物にした
江戸っ子もさすがなら、今では、たった一軒になっても商い続けている露店もさすが。以前は笹竹に芋を通していた。

平成23年酉の市は、11月02日(水)一の酉、11月14日(月)二の酉、11月26日(土)三の酉



「鷲神社」の神、天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされ、
後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされた。
その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」。
この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となった。



「吉原神社」は、大門から坂を入ると、吉原神社に出る。
吉原遊郭の栄枯盛衰を見守り、遊女の祈りを聞いてきたであろうこの神社は、浅草七福神の1つとしての顔を持つ。
 

「吉原神社弁財天」1657年の明暦の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転命令が実行され、現・台東区千束に移転した。
これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、防止法の成立で廃止、その名残を記す碑が「花吉原名残碑」
 
    

次回は今戸神社方面へ

三ノ輪と投込寺

2011-11-09 | syu散歩

「三ノ輪(箕輪)」
都電荒川線の終点として有名、昔は、浅草田圃の新吉原が近く、「雨の三の輪の里こえて、田の面に落つる雁の声」の芝居台詞で有名。

南千住から三ノ輪に向かうと、「円通寺」がある。その入り口に黒門が、1868年彰義隊の激戦となった上野戦争の山門である。
至る所に弾痕や刀傷の跡が残っている。彰義隊戦死者200名以上は、見せしめの為放置されたという。
これを「円通院」の和尚が、焼骨し寺内に墓石死節之墓をたてた、その本門はその縁で移された。

  

「都電荒川線」
現在東京都内を走っている都電は、早稲田~三ノ輪橋を走る都電荒川線一本のみ。
線路は荒川区・北区・豊島区・新宿区の四つの区をまたぎ、全30駅ある12kmの区間を約50分で運行している。
交通手段として何度か利用している、馴染みのある乗り物。終点の「三ノ輪橋」駅である。

「ジョイフル三ノ輪」商店街、下町の雰囲気を今に残した商店街、三ノ輪橋駅と隣接

「三ノ輪橋」とは,かつてあった音無川に架かっていた橋の名前によるもの、三ノ輪とは,かつては東京湾に出た台地の先端部だったことから、
「みのはな(水の鼻)」と呼ばれていたものが,三ノ輪になったといわれている。

  

音無川(石神井用水)滝野川の王子大堰で石神井川から取水され、王子から北側に用水を分けつつ南西に流れ、
日暮里からは北東に向きを変え最終的には隅田川に落ちていた灌漑水路。三ノ輪で山谷堀・思川などを分ける。
石神井川の北側に分水される根村用水・上郷用水に比して下郷用水とも呼ばれた。
江戸時代に開削された人口水路で、明治後期という比較的早い時期に廃止された。

    


「浄閑寺」
「生きては苦海 死しては浄閑寺」は、吉原遊女の投げ込み寺としてしられ、1657年から200余年約1万を超える遊女が葬られているという。
遊女たちの骨に雨が降り、リンが燃えて墓地のあちこちで青い火がともるという。

「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もあるが、
それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など
吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。

  

無縁の遊女たちの供養塔「新吉原総霊塔」と永井荷風が寺内を散策し、荷風の遺品を埋め荷風碑もある。

永井荷風1879-1959 断腸主人と号した、「アメリカ物語」文名上げる、「闇の叫び」「夢の女」「日記断腸亭日乗」
文化勲章受章、江戸情緒の美を求めた。

  

次回浅草方面に


南千住の地蔵

2011-11-08 | syu散歩
東海道の品川、中山道の板橋、甲州街道の新宿、それに今回の日光街道の千住、これが江戸の最初の四宿である。
多くの大名も、日光参拝の道中第一宿地として賑わっていたのだろう、千住宿は、三代将軍家光の頃と云う。
今でも町の中央を日光街道が横切っている。常磐線、日比谷線、千代田線など北千住から放射状に広がり、北都随一の発展をしている。
今日は、その「南千住」駅、日比谷線北千住の一つ手前で下車した。近くには隅田川の千住大橋がある。



「回向院」
南千住駅南方向に、江戸の処刑場である「小塚原刑場」があった。奥州街道の江戸への出入り口にあたるが、当時は、死肉を漁る
野良犬や烏等の群がる薄気味悪い場所であった。明治に入り廃止された。約20万人は処刑されたという。
回向院は、1667年に刑死者や震災の死者を弔うため創建、両国の回向院別院で、安政の大獄以降、政治犯のほとんどがここに埋葬された。

    

吉田松陰、橋本左内、桜田門外の変、坂下門事件の関係者、鼠小僧次郎吉、高橋お伝などの墓がある。
1771年に杉田玄白、前野良沢等は刑死体の解剖に立ち会っている。玄白は、オランダ語の解剖書の正確さを学んだ。
それが、「蘭学事始」に詳述され苦心の末、それが「解体新書」となった。境内に記念碑「観臓の碑」が建っている。

杉田玄白 1733-1817 外科医オランダ医書を手に人体解剖・ 橋本左内 1834-59 福井藩蘭学秀才、安政の大獄で断罪に
前野良沢 1723-1803 豊前国藩士蘭学秀才 青木昆陽、玄白と翻訳、自分の名は拒絶した。

    

「延命寺」浄土宗の寺、
現在、回向院は電車の高架により二分され、1部が昭和57年延命寺として独立したが、そこには、1741年に建てられた1丈2尺(約4m)
の延命地蔵菩薩がある。
その別命は、首切り地蔵と呼ばれているが、血なまぐさい歴史の中で多くの人々を救ってきたお地蔵さんで、今でも参詣人が絶えない。 

小塚原刑場に立っていた首切り地蔵    戯曲「吹雪花小町 静」の舞台にもなった。
    

3・11地震で地蔵に被害が出た。
  


「素戔雄神社」神石出現したことにより795年創建したと伝えられる。小塚原町、箕輪町、通新町、三河島村、町屋村等の鎮守。
 
1751-64年まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う神事で、「東都歳時記」にその雄壮な様が描かれている。

  

1689年松尾芭蕉は、隅田川を上り、「奥の細道」の出発に「千住と云う所よりふねを上がれば、前途三千里の思い、
胸にふさがりて幻の昔に別離の泪を注ぐ」と書いている。1820年漢学者 亀田氏の句碑がある。

  

次回は三ノ輪方面へ。


下町の散策 谷中

2011-11-07 | syu散歩
「谷中」上野の山に続く本郷台からの谷間を谷中と名がついた。1667年明暦の大火後、神田、日本橋の寺院がどんどん転入された。
明治7年に天王寺の墓地が都立谷中霊園、桜並木も有名である。谷の中で坂道が多い、関東大震災、戦災を免れ、江戸、明治期の下町の風情を残している。

「朝倉彫塑館」と日暮里は二度目で、ここは何度も来ている。
展示作品も、建物自体もとても好きである、残念ながら修復工事のため長期の休館(3年間!)美術館正面。屋上に彫刻があり出迎えてくれる。
建物は西洋建築のアトリエと、日本建築の住居に分かれ、天井の高いアトリエは採光もよく、とても気持ちがいい空間。作品が展示してある。
見どころがたくさんある中庭。とても大きな石、「仁の石」という、2階部分には、愛猫家だった朝倉が制作した猫の彫刻がずらりと展示された部屋がある。

工事中の朝倉邸
  

「観音寺」
新義真言宗の寺は、蓮葉山妙智院、1596-1615年の創建で、もと本所弥勒寺末。
赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、
赤穂浪士討入りの会合にもよく使われ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立された。
御府内八十八ヶ所霊場42番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場32番札所。

    



上野桜木の交差点の角に、吉田屋酒店の昔の店舗が保存されている。昔ながらの建物、改築し、中は昔のまま。

エビスビールの昔の木箱、ポスター、看板等、砂糖も販売していたようで、大日本精糖のポスターがあり、 砂糖を入れたケース
も残っている。

昔の酒屋「吉田酒店」


次回は荒川区南千住へ 

上野戦争と日暮里

2011-11-05 | syu散歩
道灌山を抜けると日暮里駅に出る、ここは江戸末期に、幕府軍彰義隊と新政府軍の長州藩が戦い、彰義隊は日暮里を通って下町へ逃げた。

新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備して
さらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。

大村は三方に兵を配備し、谷中・根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。
作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか。」と問うと大村は
「そうです」と答えたという。


「養福寺」
真言宗豊山派の養福寺は、補陀落山観音院という。湯島円満寺の木食義高によって中興された。
 
    

「啓運寺」
寺はもとは上野山下にあったが、幕末の上野戦争の兵火に逢い、明治18年(1885)現在地に移転した。
 
  

  

「日暮里諏訪台通り」
JR西日暮里駅脇にある、急峻な坂道=間の坂(あいのさか=坂上から、西日暮里駅ホームを見下ろす)を、登りきると、そこが諏訪台と呼ばれる高台。
 
それに対して、道灌山通りで分断された、開成学園側の後背地、田端方面への連なりを含めて、高台一帯の総称は、
江戸時代~明治期の景勝地として、道灌山と呼び習わしている。
谷地にあたる、JR架線側から、見上げると、かなりの高さがあるように思える。

長屋
  

「経王寺」
日蓮宗の寺院で山号を大黒山。1655年当地の豪農が寺地を寄進し堂宇を建立したことに始まるという。
本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており地域の人々の崇敬を広くあつめている。
1868年の上野戦争の時敗走した彰義隊士を匿ったため新政府軍の攻撃を受ける事となり、山門には今も銃弾の痕が残っている。

    

次回は桜木町方面へ