久し振りに下町散策で懐かしい道を歩いた。
「西日暮里駅」の改札を出ると道灌坂、右手に「私立開成高」が見えた。初代校長は元総理大臣・大蔵大臣の高橋是清。
沿革1871年、現 神田淡路町に共立学校として創立され、6年制中高一貫の開成中学校・高等学校、また、現在の道灌山の校地に移転したのは、
関東大震災により淡路町校舎が消失した1924年のこと。
新堀を道灌山より臨めば春秋の景色日の暮るをもわするるこころにて日暮の里と言ならはせり。山手線29番目の新駅。
「道灌坂花見」。日暮里・道灌山に向かう坂道を行き来する風俗、広重の浮世絵、江戸時代の優雅な季節の楽しみを描いている。
場所を陣取ることは、この時代から盛んだったようである。花見以外に和歌を詠むとか、浮世絵に登場する。
JR西日暮里駅 開成中・高校
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/1d/6d2718aa89e6d96795798dbca2bcb4d5.jpg)
「日暮里諏訪神社」は、信濃国上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。1205年、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。
江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里、谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。
新堀村といったこの地は享保年間から日暮里と呼ばれ、暮れていく日のことを忘れるほど美しい、
「日暮らしの里」と言われた、遠く筑波山を望むことが出来たという。
拝殿、本殿、と素晴らしい彫刻の彫ってある手水舎、良い面構えの狛木鼻、花に囲まれた猛禽類の彫刻、摂社・稲荷神社の社殿と碑・双方とも
吽で宝珠を乗せた渦巻きカールの江戸中狛犬・1816年の江戸尾立ち狛犬等、保存状態が良く、現在でも瘤や巻き毛なども良く残っている。
道灌山公園 日暮里諏訪神社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/06/b23fbee179f6fd534c64e51083dcad2e.jpg)
「道灌山の浄光寺」
道灌山の公園、 諏訪神社を通り過ぎると江戸時代「雪見寺」として有名だった浄光寺。寺の山門を入るとすぐに右手のところに大きな石碑がある。
福神漬の顕彰碑がある。
真言宗浄光寺の本尊は薬師如来。一説には太田道灌の建立といい、また、元亨年間(1321-24)豊島左衛門尉経泰の創建とも伝える。
諏訪台の好所を寺域としていたことから眺望が良く、特に雪見に適していたので雪見寺と呼ばれた。
境内に無空が勧化して建立した江戸六地蔵のうち三番に当たる一体がある。
近くには、富士見坂」という坂がある、下ると江戸時代には妙隆寺といわれた寺があっがあった。
浄光寺
山門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/a8/3b0e70be8b765f5ff0720d34cf9e5362.jpg)
時代を思わせる石仏
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/f4/38856b7f3b4a635fc734ce6dac9ebc29.jpg)
西日暮里4丁目付近の台地は道灌山と呼ばれ、江戸時代には日光の連山、下総国府台城なども望むことができたという。
また、「虫聴き」の名所、涼を求めて人々が集まった、歌川広重の錦絵や正岡子規の歌などにも出てくる景勝の地で、「道灌」の名は、
太田道灌が石神井城を攻める時に出城を築いた由縁という説から、
『新編武蔵国風土記稿』は、戦国時代・後北条氏時代にこの地に居住した土豪・関道閑という者の名が道灌に、「道灌公園」、
その辺りが城址ではないかとされる。築城に向いた地形をしている。
谷中方面に向かう。
「西日暮里駅」の改札を出ると道灌坂、右手に「私立開成高」が見えた。初代校長は元総理大臣・大蔵大臣の高橋是清。
沿革1871年、現 神田淡路町に共立学校として創立され、6年制中高一貫の開成中学校・高等学校、また、現在の道灌山の校地に移転したのは、
関東大震災により淡路町校舎が消失した1924年のこと。
新堀を道灌山より臨めば春秋の景色日の暮るをもわするるこころにて日暮の里と言ならはせり。山手線29番目の新駅。
「道灌坂花見」。日暮里・道灌山に向かう坂道を行き来する風俗、広重の浮世絵、江戸時代の優雅な季節の楽しみを描いている。
場所を陣取ることは、この時代から盛んだったようである。花見以外に和歌を詠むとか、浮世絵に登場する。
JR西日暮里駅 開成中・高校
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/1d/6d2718aa89e6d96795798dbca2bcb4d5.jpg)
「日暮里諏訪神社」は、信濃国上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。1205年、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。
江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里、谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。
新堀村といったこの地は享保年間から日暮里と呼ばれ、暮れていく日のことを忘れるほど美しい、
「日暮らしの里」と言われた、遠く筑波山を望むことが出来たという。
拝殿、本殿、と素晴らしい彫刻の彫ってある手水舎、良い面構えの狛木鼻、花に囲まれた猛禽類の彫刻、摂社・稲荷神社の社殿と碑・双方とも
吽で宝珠を乗せた渦巻きカールの江戸中狛犬・1816年の江戸尾立ち狛犬等、保存状態が良く、現在でも瘤や巻き毛なども良く残っている。
道灌山公園 日暮里諏訪神社
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「道灌山の浄光寺」
道灌山の公園、 諏訪神社を通り過ぎると江戸時代「雪見寺」として有名だった浄光寺。寺の山門を入るとすぐに右手のところに大きな石碑がある。
福神漬の顕彰碑がある。
真言宗浄光寺の本尊は薬師如来。一説には太田道灌の建立といい、また、元亨年間(1321-24)豊島左衛門尉経泰の創建とも伝える。
諏訪台の好所を寺域としていたことから眺望が良く、特に雪見に適していたので雪見寺と呼ばれた。
境内に無空が勧化して建立した江戸六地蔵のうち三番に当たる一体がある。
近くには、富士見坂」という坂がある、下ると江戸時代には妙隆寺といわれた寺があっがあった。
浄光寺
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/44/f7c486c6fe1689924db686d664157326.jpg)
山門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/a8/3b0e70be8b765f5ff0720d34cf9e5362.jpg)
時代を思わせる石仏
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西日暮里4丁目付近の台地は道灌山と呼ばれ、江戸時代には日光の連山、下総国府台城なども望むことができたという。
また、「虫聴き」の名所、涼を求めて人々が集まった、歌川広重の錦絵や正岡子規の歌などにも出てくる景勝の地で、「道灌」の名は、
太田道灌が石神井城を攻める時に出城を築いた由縁という説から、
『新編武蔵国風土記稿』は、戦国時代・後北条氏時代にこの地に居住した土豪・関道閑という者の名が道灌に、「道灌公園」、
その辺りが城址ではないかとされる。築城に向いた地形をしている。
谷中方面に向かう。