syuの日記・気まま旅

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香取神社

2014-11-20 | 気まま旅

千葉県佐原市「香取」は、市の東部、利根川下流南岸・霞ケ浦水系で軍事要衝であった。畑作・稲作の農業地帯。
下総国一の宮「香取神宮」がある。
                  香取駅南約1kmに鎮座


「旧官弊大社・祭神経津主大神」で、茨城県の「鹿島神宮」「息栖神社」と共に三社巡りで知られている香取神宮。

式年神幸祭は、12年に1度の午年に行われ、境内前までの神幸祭は毎年4月中旬、大規模に行われる。
古くは「軍神祭」「軍陣祭」とも称された。この祭は、経津主神による東国平定の様子を模したものといわれ、元は「式年遷宮大祭」の名で、
20年に1度の式年造営に伴って行われたという。
式年造営と同じく応仁の乱の頃に衰え、1568年を最後として明治まで絶えていたと云う。
その後、1875年に復興され毎年執行されていたが、明治15年 1882年以降は午年毎の執行と定められて、現在に至っている。

                 香取の森約3700坪と広い(県指定天然記念物)
    

経津主大神 1柱。「 別名を伊波比主神・斎主神、斎之大人」

「祭神について」
香取神宮の主祭神は、経津主として知られ、その出自について、「日本書紀」(720年)では、一書として、伊弉諾尊が軻遇突智を斬った際、
剣から滴る血が固まってできた岩群が経津主の祖。
別の一書として、軻遇突智の血が岩群を染め磐裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神がフツヌシを生んだとしている。
その後「日本書紀」本文は、、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においてタケミカヅチ(鹿島神宮祭神)とともに出雲へ派遣され、
大国主命と国譲りの交渉を行なったとある。(なお、「古事記」ではフツヌシは登場しない)

             水戸光圀公手植えの「黄門桜」・石灯篭が参道両側に 
    

フツヌシと香取の関係については、「日本書紀」では一書として、
「斎主神云々、此神今在于東国檝取之地也」とあり、「檝取(楫取、かとり) = 香取」との関係が記されている。
その後、「古語拾遺」807年で、「経津主神云々、今下総国香取神是也」、「延喜式」927年 所収の春日祭の祝詞で、
「香取坐伊波比主命」と記されていると云う。
                        境内中央に池


フツヌシが国土平定に活躍したという書紀の説話から、「武神・軍神」と見なされ、名称の「フツ」についても、記紀に見える
「フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣と同様、刀剣の鋭い様を表した言葉であるといわれる。
軍神の認識を表すものとしては、平安時代末期の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」(「梁塵秘抄」)という歌が知られる。
「楫取 = かじ(舵)取り」という古名から、古くは「航行を掌る神」として祀られたという見方もある。
そのほか、フツヌシとイハヒヌシ(伊波比主・斎主)という異名称の扱いや原始祭祀氏族には不明な点が多く、香取神宮の創祀も含めて諸説が多い。

                          旧拝殿
    

鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。
その神威の背景には、両宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海」という内海が広がっており、両宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座。
この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両宮はその拠点とされ、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として
東北沿岸部の各地で祀られたと云う。

           狛犬            本殿前楼門                 手水舎
    

創建ー社伝は、初代神武天皇18年の創建と伝える。
黎明期に関しては明らかでないが、古くは「常陸国風土記」(8世紀初頭成立)「香取神子之社」として分祠の記載が見え、
それ以前の鎮座は確実とされる。また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。

          重要文化財 楼門は、1634年水戸初代藩主徳川頼房公が奉納している


奈良時代、香取社は藤原氏から氏神として鹿島社とともに強く崇敬され、768年には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現 春日大社)が創建。鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請されている。
その後も藤原氏との関係は深く、777年 藤原良継の病の際には「氏神」として正四位上の神階に叙されていると云う。

平安時代以降の神階としては、836年に正二位、839年に従一位への昇叙の記事があり、882年には正一位勲一等。

                    地元酒蔵の献上樽酒


927年成立の「延喜式」神名帳には下総国香取郡に「香取神宮 名神大 月次新嘗」と記載されて式内社(名神大社)に列しており、月次祭・新嘗祭では幣帛に預かっていた。
同帳で当時「神宮」の称号で記されたのは、伊勢神宮・鹿島神宮と当宮の三社のみ。下総国では一宮に位置づけられ、下総国内からも崇敬された。

                                    古瀬戸黄 狛犬
    

中世、武家の世となってからも武神として神威は維持されており、源頼朝、足利尊氏の寄進に見られるように武将からも信仰。
千葉氏を始めとする武家による神領侵犯も度々行われていた。
常陸・下総両国の海夫(漁業従事者)・関を支配し、香取海を掌握して多くの収入を得ていたと云う。

「千葉常胤」1118-1201 鎌倉幕府筆頭御家人・平家追討の戦功で下総守護、源頼朝房総へ逃れると、鎌倉に拠点を進めた。
奥州征伐で東海道大将軍として出陣している。
                    社殿・本殿


千葉氏の滅亡後、代わって関東に入った徳川家康の下、1591年に1,000石が朱印地として与えられた。
その後開かれた江戸幕府からも崇敬を受け、1607年に大造営、1700年に再度造営が行われている。

        樹齢1000年の巨杉・御神木勝運の神に祈願して
    

現在の本殿・楼門・旧拝殿(現・祈祷殿)は、この元禄期の造営によるものである。
明治4年、近代社格制度において官幣大社に列し、昭和17年 勅祭社に定められ、戦後は神社本庁の別表神社に列している。

                        御神井道が山道へ
    

国宝-海獣葡萄鏡 1面(工芸品) 。中国・唐時代の作。鏡背は葡萄唐草の地文様の上に獅子のほかさまざまな鳥・獣・虫を表す。鏡名の「海獣」は、鏡背中心部の鈕に表された狻猊を指す。狻猊は中国の伝説上の生物。
正倉院の南倉には本鏡と瓜二つの銅鏡があり、香取神宮鏡は正倉院の鏡と全く同一の鋳型から造った同笵鏡ではないが、両者は関係があると推定される。

重要文化財(国指定)ー本殿・楼門(計2棟)(建造物)古瀬戸黄釉狛犬 1対(工芸品) 阿吽一対の古瀬戸の狛犬。陶製。
阿形像の高さは17.6cm、吽形像。技法・作風から、鎌倉時代後期または室町時代初期の作と見られている。

双竜鏡 1面(工芸品)1149年の銘があり、鏡背文様を有する在銘の和鏡としては最古の例である。
鏡背文様の様式は一般的な和鏡とは異なり、中国の宋あるいは朝鮮の高麗鏡に影響を受けたものと見られる。

香取大禰宜家文書 15巻7冊(381通)(古文書) 大禰宜を世襲した香取家に伝わる古文書。
平安時代後期から江戸時代までの文書381通からなる。関東の神社文書としては代表的な遺品とされる。等がある。

                     芋のソフトクリーム・草団子を
    

次回は、茨城県鹿島へ

佐原と伊能忠敬

2014-11-18 | 気まま旅

「千葉新産業三角構想と道路構想」首都圏南部にあり、都市化が進んだとはいえ千葉県は、まだ緑多い大地が続き、農業・水産業の地位は高い。
農業では、ネギ・トマト・カブ・サトイモは、全国一の生産高。
西部は、都市化が進み、農業は後退・東部は、施設園芸で東京市場に、米作・果樹栽培・畜産と比較的均衝の農業生産地帯に、その一方人口は、
過密地域と過疎化地域が歴然としてきた。
県も、幕張新都心・成田国際空港都市・かずさアカデミアパークの三大構想を柱に「業務核都市づくりプロジェクト」首都圏・全国と結ぶ道路整備に
着手している。「千葉市~木更津・君津~成田」三角で今回は、千葉市ー成田ー佐原・香取ー茨城県鹿島へ。

「JR佐原駅」下車。
1898年明治31年 - 成田鉄道(初代)の駅として開業・旅客・貨物取扱い駅。大正9年 成田鉄道が買収され、国有鉄道の駅。昭和6年 佐原 - 笹川間延伸開業。昭和59年 貨物取り扱い廃止。昭和62年  国鉄分割民営化により、JR東日本に継承。平成19年「ちばディスティネーションキャンペーン」に併せて駅舎をリニューアルに。
平成21年 Suica導入に合わせて自動改札機導入。東京近郊区間に組み込まれる。平成23年  2代目駅舎一部供用開始し、 2代目駅舎竣工、完成。

                          佐原駅正面


「佐原市」は、県北東部で中心部が利根川に面し、利根川水運で栄えた商都、北部は、利根川水域の底湿な水田地帯が広がる。
南部が「下総台地」の堆積地「砂原」・香取神社の土器「浅原」から、佐原となったと云う。
古代は、町に香取海が入り組んでいたが、江戸幕府が1654年利根川流域・流路を「銚子」に変えられて「低湿地帯」となった。

小野川 田舟                      十一橋など観光の女船頭
    

中世は、「千葉氏」~一族の「国分氏」が小野川上流に城郭を構え、荘園開発が進んでいた。江戸時代に入り、「幕府領」「旗本領」で、利根川下流
の農地に十六島が出来江戸幕府の防衛上の新田として開発された。
東北地方の物資は、銚子~佐原と「牧」が開け~江戸に運ばれていた。小野川沿いに商家が軒を並べ、江戸との交流も盛んになり、松尾芭蕉・小林一茶
十返舎一九・渡辺崋山・山県大弐など多数の文人墨客が訪れている。

「お江戸見たけりゃ佐原へこざれ、佐原本町江戸まさり」と云われている。

「十二橋」十二橋駅北、加藤洲水路の架かる橋名、水路両側の人家を結ぶ一枚板[水戸光圀公考案」
水路田舟は、女船頭で、水郷の風情を、現在は橋は、11橋が残っていると云う。

                正文堂書店や乾物屋や東薫酒造や馬場酒造や商店が並ぶ
  

「伊能忠敬」 1745-1818 日本地図を作った商家の隠居で測量家。18歳で伊能家婿養子、酒造業・米穀で傾いたが建て直し、50歳で隠居。
天文学「高橋至時」の門下となり、測量術習得、17年間かけて全国の測量を行い、「大日本沿海與地全図」を編纂する。
56才で蝦夷地測量の旅に出ている。一歩65cmの歩測・72才で全土測量を終えている。
19才年下の師「高橋至時」の傍らに葬るように遺言している。

                        伊能忠敬画


「佐原」は、江戸時代から利根川水運の中継港として発展、商人の町として栄えた。
伊能忠敬記念館は、その、街中央の小野川に架かる忠敬橋、伊能忠敬旧宅・樋橋を挟み・記念館がある。船着き場にも近い。
所蔵数・2345点で国宝に指定されている。入館料¥500。

                   記念館・団体で混雑


1794年49歳で隠居・翌年50歳で江戸深川に住み、天文方「高橋至時」に入門。1800年56才東北・北海道第一次測量・関東・東海・第4次測量北陸後
1804年59才正式幕府登録される。翌年畿内・中国・九州、、1816年71才で第10次測量江戸を済ませ、1818年73才で江戸ハ丁堀亀島宅で没す。
浅草「源空寺」遺言通り、(高橋至時菩提寺)に埋葬される。

             伊能忠敬 50歳までの前半生など紹介
  

1800年、忠敬は、蝦夷地までの第一次測量出た、その動機は、測地学上命題であった「緯度一度の子午線長を実測で決めることにあった」と云う。
忠敬の得た緯度一度の長さは、現在の測量値と=1000分の1し笠が無いと云う。

                 測量に使われた道具なども
  

昼は、検(間)縄と歩測による距離測定と方位盤による方位測定を繰り返し、一日約10里を熟している。
夜は、象限儀で恒星の高度を観測して緯度を算出し、野帳を整理して地図の原図をつくると云う方法。  3700日を超えていると云う。

                   年代順に判りやすく展示されていた。      
  

全国海岸線と街道を測量し約43000KM以上。忠敬は、幕府から約半分の手当てがあったと云うが、不足不足で自ら資金を出し補足している。
忠敬死後三年目で「大日本沿岸與地全図」弟子たちの編集により完成され、幕府に上程され、新明治政府も活用されている。

                     伊能図の完成までが
  

伊能図には、大図214枚縮尺1・36000、中図8枚同1・216000、小図3枚同1・432000の他、測量ごとに作った地図や名勝地を数多く描いている。
それは、正確・芸術的な美しさを備えている。
19世紀まで世界は、我が日本の姿をどのように理解していたであろう、同時に日本人は自分の国をどう見て、理解していたのであろう。
73才で亡くなる忠敬は、測量終えてどう日本を見直したのであろうか?。

                川を挟み向かいに伊能家旧家が(工事中でした)


北総小江戸水郷の佐原         三菱館(旧三菱銀行佐原支店)大正3年県文化財、現在交流館に
    

「八坂神社」
香取市佐原本宿にある神社。佐原の大祭(祇園祭)で知られる。
古く佐原諏訪山近傍の天王台に創建。
江戸時代前期の天和年間(天正以前の説あり)に現在地へ遷座し、佐原・本宿地区の総鎮守に。
明治初年社殿改造の際に現在の八日市場側(千葉県道55号佐原山田線・通称香取街道側)にも増設された。
それ以来、この神社には、正門が2か所存在し、それぞれ浜宿口、八日市場口という呼び方がされ、正門は、1年置きに交代すると云う。

境内には水郷佐原山車会館がある。
                           八坂神社
    

「水郷佐原山車会館」
利根川舟運により河岸として発展し,江戸の祭礼文化の影響のもと、享保年間には山車と囃子を中心とする祭礼が行われるようになった。
飾り物については、当初それぞれの町内で趣向を凝らして製作していたが、近世末期に大人形の飾り物が出現し(関戸区)、江戸の人形職人に飾り物の製作を依頼するようになったと云う。
佐原の山車と囃子の形態は、市内の小見川地区、東庄町、多古町など、茨城県の潮来市潮来、牛堀、鹿嶋市、行方市麻生などに見られ、周辺地域の祭礼に大きな影響を与え佐原を中心とする山車文化圏を形成している。
平成16年、「佐原の山車行事」として重要無形民俗文化財に指定。

                           山車会館
    

関東三大山車祭りに数えられる佐原の大祭。
祭礼を華麗に彩るのは、夏祭りで曳き廻される本宿地区10台の山車と、秋祭りで曳き廻される新宿地区14台の重厚な山車。
会館には交替で2台の山車が展示され、高さ8メートルにも及ぶ総欅造りの山車を下からも上からもじっくりと見ることができる。

                          館内
    

幕末から明治に造られた名工の手による見事な彫り物や江戸から昭和初期にかけて活躍した名人形師が手がけた大人形など、現在では同様に造ることが困難な希少価値の高い山車飾りも展示。

           山車大人形    3階から見下ろせる
    

「佐原の大祭」/国指定重要無形民俗文化財・関東三大山車祭りの一つと称され、約300年の伝統を有する。

開催日・平成26年は、夏祭りが、7月11日(金)~13日(日)の3日間
           秋祭りが、10月10日(金)~12日(日)の3日間と云う。

                          見事な彫刻
      

次回は、香取神社へ。

成田山

2014-11-16 | 気まま旅

JR中央線快速「東京駅上り」御茶ノ水駅で乗り換え、JR総武線で「錦糸町駅」から快速千葉駅行きに乗りえた。
錦糸町駅ホームから「東京スカイツリー」が良く見える。
錦糸町は墨田区南部・大横川の堀の西岸で、関東大震災1923年、千代田区神田の菓子製造者が集団で移転し、お菓子問屋の町として発展。
汽車工場跡に「江東楽天地」が出来、区内最大の商業と娯楽の中心の町であった。

今回の旅は、千葉県成田ー市原ー香取ー茨城県鹿島へ。

浅草橋ー両国の間を流れる「隅田川」               錦糸町駅ホームから
    

電車は亀戸・平井駅を過ぎ「荒川」を、平井大橋が   「江戸川」市川市に、ここから千葉県
    

成田街道は、江戸から下総成田に至る街道で、江戸から佐倉までを佐倉街道と重なっている。成田新勝寺参詣の旅人が多く通った街道。
江戸の人間は、千葉県市川行徳まで船を利用していたと云う。途中の船橋宿は、成田詣でで栄えた。
「市」は、北部で、熱田が転嫁(豊作の水田)説が有力。北部に、利根川に注ぐ「根木名川流域」の低地で、西部に「印旛沼」の低地が開けている。
台地上に先土器時代の石器が出土し「三里塚」で、又、多数の貝塚や遺構がある。
「鎌倉時代」は、千葉一族が支配、江戸時代は、佐倉藩や旗本の領地となった。中世以来「成田山新勝寺」の門前町で栄え、鉄道も1897年開通している。
現在は、昭和41年下総御料牧場から三里塚中心に新国際成田空港・空の玄関口として、外人観光客で賑わっている。
周辺は、成田ニュータウンや工業団地や駅前商店ビルなど人口も急増している。

                  JR成田駅中央改札・提灯が


「三橋鷹女」
昭和期に活躍した代表的な女性俳人。中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに4Tと呼ばれたが、4人のなかでも表現の激しさと前衛性において
突出した存在と云う。
代表的な句

鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし 愛は奪うべし            夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり                

この樹 登らば鬼女と なるべし 夕紅葉               ひるがほに 電流かよひ ゐはせぬか

薄紅葉 恋人ならば 烏帽子で来など。
晩年は、孤独と幽玄の度合いを深め、

老いながら つばきとなつて 踊りけり               墜ちてゆく 燃ゆる 冬日を 股挟みー句も残している。

商店通りに老木                               三橋鷹女の像
    

成田新勝寺の参道にある「長命泉」

県の酒蔵の歴史は江戸時代からとされており、この地域は、利根川などの水運に近い野で銘酒が多く、長い歴史をもつ酒蔵が数多く存在。
中でも、成田山に深い係わりを持つ長命延命霊力の酒「長命泉」の滝沢本店は、参道沿いにある。

成田市の手前に、酒々井町。
滝沢本店の長命泉と甲子正宗の飯沼本家のほか、水運で栄えた佐原の酒「東薫」の東薫酒造、糀善の馬場本店酒造が知られている。

                   滝沢本店「長命泉」蔵元
  

長命・延命霊力の酒,「長命泉」や、甘党の米屋總本店がある。
また、敷地内 には、成田羊羹資料館があり、羊羹の歴史に関する資料など展示。

成田は、利根川や印旛沼などの自然に恵まれ、漁業が発達、そこで獲れる魚介類を使った料理や加工品も、数多く生み出されてきた。
中でも栄養価の高いうなぎ料理は、この地域の食文化として広く定着し、全国でも珍しい「うなぎ」の街とも云える。
「成田うなぎ祭り」は、今年6回目を迎え、、毎年土用の丑の日を中心に、7月中旬から8月中旬にかけて開催される。

成田と云えば 鰻 店先でさばいている。         参道にいろいろなお店が並んでいる
    

「鰻丼とそばセット」¥1400・今日の昼食。

             少々カロリーオバー


「成田山 新勝寺」

真言宗智山派大本山・939年「平将門の乱」の際し、東国鎮護の霊場として「朱雀天皇」が創建した。
1688~1704年元禄に江戸深川に、出開帳・歌舞伎の市川団十郎(成田屋)が演じる不動明王によって、江戸庶民の参詣が急増したと云う。
現在でも年間1千万人以上が参詣すると云う。
                        総門・(伽藍)


「朱雀天皇」在位期間・930年-946年。先代ー醍醐天皇・次代ー村上天皇。誕生ー923年・崩御ー952年。陵所ー醍醐陵
父親ー醍醐天皇・母親ー藤原穏子。皇居ー大内裏。

「平将門」~940 武将、東国桓武平氏の一人。武蔵国官人・土豪の争い国司追放し、一族の平貞盛らに討たれる。首は京都に送られたが江戸城大手門
飛んできて(大手町)に落ちた。首塚がある。

総面積約5万5000m2、本堂裏に成田山公園がある。

大提灯                手水舎                    中楼門・光輪閣 仁王門
    

939年,朱雀天皇の密勅により寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つと云う。
寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年、海路にて上総国尾垂浜に上陸。
平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行い、新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。
乱平定の後の1566年頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地。
「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。
その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていたとも云う。

                     仁王池の亀石
    

境内の石段


1858年本堂改築完成した時の様子を描いている。下総国成田山境内生写之図


明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなったと云う。
「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰され、満州事変から1945年の敗戦に至るまで、
「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。
18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて、地域の民衆に対して、日本古来の伝統的思想の教化に積極的に努めた。
1938年には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納、また真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した記録が残る。
                        大本堂


三重の塔(重文)・ 正徳2年(1712)建立


一切経堂・(1722)建立 鐘楼は、1701年建立


江戸歌舞伎の第一人者、初代團十郎、舞台に暫や鳴神に代表される荒事を取り入れ、人気を博した。
しかし、跡継ぎに恵まれず、成田山の本堂・薬師堂で一心に子授けを祈願し、すると見事、待望の長男を授かったと云う。

不動さまの御利益りやくにむくいる父子で演じる「兵根元曽我」、中村座で親子共演した「兵根元曽我」は、お不動さまへの祈願が成就して長男を得たことに感謝をあらわした舞台であったと云う。
不動明王をテーマにした初めての歌舞伎で、舞台が大当たりしたことに感謝し、成田山に大神鏡を奉納した。
また、この共演を機に、市川家は、「成田屋」の屋号を使うようになったと云う。

     薬師堂                      釈迦堂
  

「出世稲荷」は、釈迦堂前の小高い丘の上に位置し、 総門を通り大本堂を正面に左手に進み、正面の長い階段を登ると、左手に出世稲荷が。

そのまま抜けると詣り道が、この道は、車道からも離れますので、静か、しばらく進むと、緑の木立が広がる。 成田山三学院が見えてきた。
成田山三学院とは、成田山の将来を担う法資(仏弟子)を育成する「発心院」、真言宗智山派並びに成田山の教師を育成する「勧学院」、成田山が招いた外国人留学生の勉学する施設「修智院」に。
中に入ることはできませんが外観は。

光明堂・額堂・多宝塔・仏塔など。  出世稲荷はこの奥に           新勝寺の前楼門
    

寺 大本堂の奥にある165,000㎡の広大な広さを誇る成田山公園の秋の紅葉を。
もみじまつりは、平成12年より始められ、15回目を迎ると云う。
旧齊藤家夏の別荘や渋澤榮一邸などを手がけた庭師、2代目松本幾次郎により昭和3年に完成、自然が織り成す四季を通じて変化に富んだ、日本庭園。
完成から80有余年を経て、立派に成長を遂げた公園内の樹木は見事である。
モミジ、クヌギ、ナラ、イチョウといった約250本の樹木の葉は、11月半ばから12月上旬に赤や黄色に色づく。

次回は、佐原へ。

日光山裏山の紅葉

2014-11-15 | 気まま旅
奥日光はすでに紅葉も終わり、東照宮の辺りを散策しました。

栃木県西部の市、「日光」
市の75%が那須火山帯の山地・国際観光都市「世界文化遺産」に登録された。
日光の地名の起源は、仏教語で、男体山の山岳信仰に発し、観音の浄土をいう補陀落の名による「二荒山」の山号からおこったと云われている。
二字の「二荒」の字をニコウと音読し、「日光」字を当てはめたと云う。
町は、大谷川の神橋を境にして、東を東町(出町)・西を西町(入町)に分けられている。
二荒神社・東照宮・輪王寺の寺社地一帯は、「山内」と総称される。
西町(入町)は、東照宮の造営のあたった職人の町が形成され、大工町・板挽町・・の名が残って、現在匠町あたり。
音読から当て字は、兵庫ー武庫群(大阪)・六甲山ー摂津・神社の名等に多い。

日光東照宮の裏山、今紅葉が終わる所(11/10)






東照宮の大鳥居






滝尾神社と白糸の滝




神橋






菅原道真の北野神社 学問の神菅原道真を祀る。寛文元年(1661)筑紫安楽寺の大鳥居信幽が勧請したもの。祭日は8月25日。
鳥居や祠の奥の巨岩に天満宮の梅鉢紋がみられる。

真鶴から多賀

2014-11-13 | 気まま旅

真鶴町は、神奈川県足柄郡、県南西部、地名は、鶴が羽を広げた形から。
地場産業の一つ「小松石採掘り」は、知られている。小田原築城・江戸城築城に用いられた。他に、ミカン・漁業・観光(三ツ石)真鶴岬の相模湾に
突きだした先端部の海食崖は、箱根火山の溶岩流で出来た台地で、奇岩が多い。
真鶴半島は、県立自然公園になっている。
                     JR真鶴駅


「本小松石」真鶴町でしか採る事のできない石。それが本小松石で、 真鶴半島は、箱根火山の外輪山の形成過程(約40万年前)に溶岩流が海に押し出された事によって出来た。
地表に流れ出した溶岩が急に固まったもので安山岩として産出される。マグマが最初から最後まで、地中でゆっくりと固まった花崗岩と違い、
地表に流れ出したマグマが急に固まった安山岩は、固まる時すでにそれぞれの形に分裂、石は、最初から割れ石として掘り出される。
大きな石、小さな石、掘り出される石の大きさを人間がコントロールすることは出来無い。独立した形で掘り出される本小松石は掘り出される地層によっても密度も色も全て違っている。
内部の色とは異なった茶褐色の皮に包まれ、独立した形で掘り出されるので一種、完成品のように生まれ、その素材に手を加えることによりさらに、新しい温かみや、やわらかさが加わります。墓石に適する。
本小松石は、磨きによって表出するきめ細かな石肌、独自な色味と希少性などが特徴と云える。

                      早川石
  

江の島に事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で「豆相人車鉄道」を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。

ここ真鶴でも人車軌道・豆相人車鉄道が、1920年には廃車している。

                   豆相人車鉄道
  

      コースは、吉浜ー坂口駅(現真鶴駅)-黒田長政供養碑ー小松石採場(龍門寺付近)


「荒井城址公園」
真鶴駅近く、「荒井城」があった城跡を公園に整備した。
荒井城は、後三年の役 1083年に源義家の配下であった「荒井実継」の本拠地だと言われているが、その後鎌倉幕府の時代には、荒井氏に代わり源頼朝に仕えた湯河原の有力御家人である「土肥氏」の持ち城になっている。
戦国時代には後北条氏の烽火(のろし)台として機能していたと伝えられている。

城址とは言うものの、城跡を彷彿とさせる跡はほとんど無く、空堀と呼ばれる跡が残るのみ。

                   荒井城址公園入口付近
    

「土肥 実平」
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
桓武平氏良文流中村宗平の次男。小早川氏の祖とされる。相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を勤め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。
(現在のJR東海道本線「湯河原駅」から城願寺城山の辺りが居館)。
平家に追われた源頼朝を真鶴・岩海岸から千葉に船を出している。

                      本丸付近


真鶴のシンボルともいえる、三ツ石海岸。浜辺から約200mに渡って続く岩礁の先に、3つの巨大な岩が顔を出している。
笠島とも呼ばれている。磯遊びにも適し、干潮時には岩まで歩いて行く事もでき、真鶴の人気のスポット。
半島に沿って海岸線を歩け、「潮騒遊歩道」もある。

                     真鶴岬と三ツ石
  

真鶴の貴船神社・貴船祭りは、毎年7月下旬、航海安全祈願の神輿渡御式は、迫力。

「三ツ石上階段の、見晴らし台休憩所」
常に、色付いた花々が咲き誇っているレストラン喫茶、地元のママさんが真鶴の情報を提供してくれる。
    

「多賀海上花火大会・百八体かがり火」で知られる多賀は、熱海と網代の間、伊豆多賀駅下車する。
多賀湾の夜空を色鮮やかな花火・長浜海水浴場北突堤から打ち上げられ、花火会場近くに住民が用意した約3キロにも及ぶかがり火が海岸線に並び
壮観な景色が広がると云う。地元では、熱海の花火に劣らないと自慢する。

相模湾は、三浦半島から湘南海岸、伊豆半島へと東西に広がる大きな湾、その西側が熱海市街から伊豆半島の小さい湾がある。
熱海市街の温泉街の隣に小さな町、多賀、漁港網代に当たる。、
湾岸には国道135号が走っており、伊豆の山稜が海岸に迫っているのでそれほど広い地域ではない、海岸美の繰り広げられるリゾート地と兼住宅地となっている。
多賀の海は東に開けていて、非常に明るい。沖にはマリーンスポーツの島”初島”が浮かんで、多賀の海に出る朝日は、ことに”素晴らしい”の一語。

与謝野晶子は、「風涼し ひがしの伊豆の 多賀に見る 水平線のめでたき日かな」と詠んでいる。
「与謝野鉄幹(1873-1935)・晶子(1878-1942)」
夫妻は、伊豆吟行の折、熱海のここ、多賀にも足をはこび、数首の歌を残している。
夫妻のこの歌碑は多賀の海を一望できる熱海市多賀に碑が建てられている。
多賀の景観を詠んだ。
                 熱海市上多賀・長浜海岸、与謝野晶子歌碑
  

「秋葉灯籠」
火伏せの神、遠州秋葉山への秋葉講が多賀にもあり、火を大切にする心、火の恐ろしさを忘れてはならないという 秋葉神社に対しての信仰から、この灯籠が奉納されましたと云う。

    

海側を背に伊豆特有の急山坂道を1km以上の登った。高校を過ぎると今日の宿泊民宿・みはらし・に。いろいろお世話になり有難うございます。 

    国道135号線          民宿みはらし玄関          
    

宿を出るとすぐ、95才のおばあさんと立ち話、息切れも無く元気。旅は、楽しい。 

    地元の95才元気なおばあちゃん           山道を下り終わると多賀神社
    

上多賀の「多賀神社」

鳥居をくぐり、境内に入ると数本の背の高い木が枝を広げ、社殿左の大きなクスノキが立派である。
境内奥に拝殿があり、後方に本殿で、参拝する。
神社の創祀年代は不詳、 一説によると、往古、山中に山王の祠があった。近世になり、日の御影と呼ばれる木像が浜に流れ着いたため、山王の祠を、
ここに遷し、伊弉諾尊・伊弉册尊の二柱を祀ったという古社。
日少宮と称するようになり、、漂着神を祀る神社っているという。。山中の旧跡には、影降石が残ると云う。

神社巨木・神木                     拝殿
    

神社は標高227mの向山を背にして集落の中央に鎮座する。
前方に海をひかえ、背後に山地をもち、西には清流の大川があつて、地形上からみて古代人の居住には好適地であつたと思われる。
縄文時代から歴史時代初期にわたる集落の跡であつて、古墳時代を中心とする古代の祭祀遺跡。
本殿の裏にある神木(梶)の根株からは祭祀遺物がおびただしく出土・発見されて、地主神の石祠のそばにある大石は、神霊を迎え、その前で祭祀を行なう磐座とみられると云う。

     境内の夫婦石
  

伊豆終わります。