syuの日記・気まま旅

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横芝 総武本線の旅5

2016-04-21 | 気まま旅
総武本線ー成東ー松尾ー「横芝」-八日市場ー干潟ー銚子。
横芝駅下車、千葉県山武郡・県北東部・下総台地の細長く広がっている。地名は、芝山の横の集落とか、茨城県常陸の人達が芝生を広めた等の説。
上総国山辺荘に属したが、中世に「千葉氏」支配下を経て近世には、旗本領地となった。
産業は農業が主であるが、芝山古墳群の殿塚・姫塚、と儒学者「海保漁村」に生誕地・「伊能忠敬」が少年期過した神保家も横芝である。

「伊能忠敬」1745-1818 日本地図を作った商家の隠居・測量家、18歳で伊能家婿養子、酒造業・米穀取引で傾いた家運を立て直す。
50歳で天文学高橋至時の門下に、測量術を習得する。17年間全国測量し「大日本沿海興地全図」を編纂した。(高橋至時との歳の差19年下の師)縄文前期、この頃は、大部分は海であった(縄文海進)。縄文中期に、北部の中台などには、この頃の人類の生活跡である貝塚がいくつか残されている。
後期は、栗山川の河口部に形成されたラグーンが坂田池や乾草沼として残され、晩期、東京湾岸方面では人口の減少があったが、九十九里沿岸では姥山にはこの頃の標式遺跡である山武姥山貝塚が残されている。
弥生時代、海岸線の後退が著しく、現在の平野の部分に陸地が広がり、稲作が盛んに。古墳時代、小川台に下海上国造との関係が推定される
「小川台古墳群」・中台に武社国造との関係が推定される「芝山古墳群」が。
平安時代、屋形に平高望や良兼などの平氏の拠点あり、高望の孫の「平 将門」が反乱を起したので、難波津(大阪市)から「寛朝僧正」が下向し、公津ヶ原(成田市)で平和祈願の祈祷をしたとある。
室町時代に入り、篠本に連郭式城郭の初めとされる「篠本城」が、坂田に舌状台地築城の手本とされる「坂田城」が作られた。

      総武本線「横芝駅」       平野の台地が広がる
    

こんな話が言い伝わる。
夜もすっかりふけて、草木も寝しずまった頃、ふと、坊さんが目を覚ましますと、何やら外の方に人のうめき声が聞こえてくるではありませんか
ないまじぶんこんな所に、、」お坊さんは、おそろおそろ格子戸から外をのぞくと「うわつ これは何と云うむごいことを」お坊さんが腰をつぶしたのは無理もありません。
辻堂の前の杉の木に娘がくくり付けられ、その、まわりには、赤鬼・青鬼が群がっております。
鬼たちは、娘の舌を抜こうとしているのでした。お坊さんは、娘を助けるために、「なまいだ~・なまいだ~・なまいど~」拝みました。
すると、鬼も娘もいなくなり、杉の木だけが立っていました。「夢にしてはへんだな」、、、一夜を辻堂でおくり朝早く、里へ歩いてゆきました。町では、「お館さまの姫が亡くなり、お葬式があるでなー」と里人はそう答えました。
お坊さんはいろいろ話を聞くと、あの、娘さんとそっくりなので、話すと、その館の家来がお坊さんを館に連れて行きました。
お館さまと奥方が、その辻堂に案内してくれと云います。お坊さんは案内しその辻堂で夜の更けるのを待ちます。すると、鬼たちが娘をいじめるのでした。
お館さまと奥方は、お坊さんに、娘をお助け下さいと、お願いします。鬼たちが娘をいじめるのは、お館さまが、重い年貢を百姓から取りたて、苦しめたためと知ります。お館さまと奥方は心を切り替え、よい行いに励み、仏様に念じ、涙を流して悔い改め、お坊さんに、姫の供養をお願いしました。
姫の墓に杉の木を植え・辻堂にお寺を建てました。

もう1話。「磨墨桜」
市野原の馬頭観音堂に磨墨桜、この桜のまわりの草を病気の馬に食べさせると、なんと、馬が元気になると云う。
その噂を聞いて、遠方から馬主が集まった。
                        弘法大師像が
    

「坂田池」
縄文時代後期に砂州が延び海岸線が後退した頃、栗山川から流出する水が北東の海流に押され出口を失い河口の南西に作られたラグーンであったと推定されているが、栗山川水系の河川は丸木舟が多数発見されていることでも知られいる。(池でも何艘か出土)
北西の横芝光町・姥山や中台には、縄文晩期の標式遺跡である「山武姥山貝塚」などの塚から、表情豊かな人物埴輪が出土し、国の史跡に、芝山古墳群(殿塚・姫塚)も近い、北側には、中世・舌状台地築城の「坂田城」が隣接。
明治16年、大日本帝国参謀本部陸軍部測量局(後の陸地測量部)の迅速測量図「八日市場村」によると当時坂田池は現在の「3倍」と云う。
その後、埋め立てなどによって面積が減少、更にJR東日本総武本線の南側には、やはり栗山川河口の南西に作られたラグーンであったと推定される、
幅1.2km・長さ2kmの「平行四辺形」の「鳥喰沼」があったが、これも、干拓、明治44年、に着工ー大正2年、完成、農地などになっている。



「坂田調整池」
利根川から取水し栗山川を経て横芝揚水機場でポンプアップした水の一部を一時的に貯え、調整しながら下流導水路へ送水するための施設として利用されており、下流導水路には東金ダムや長柄ダム等のダムが設けられていると云う。

「ふれあい・坂田池公園」
池を含めた総面積約21haの広さを持っている。
公園として整備され、園内には4万本を越えるサクラやツツジ、ハナミズキなどの樹木が植えられ、野鳥も訪れ気軽にスポーツなどが楽しめる市民の施設となっている。
                坂田池公園も坂戸城の一部であった。


            「坂田城」は、14世紀中頃ー千葉氏築城ー
  

              横芝町恒例「梅祭り」は、2.27-3.20


南東側に九十九里平野から太平洋を望み、北東側は栗山川を挟んで下総国と境を接し、九十九里浜中央から酒々井を経て下総国府へ至る道と、牛久を経て常陸国府へ至る道の分岐点にあり、築城当時付近は要衝の地であったと推定される。

          支城に、中倉・小堤・浜手城の「坂田城」規模はかなり大きい城でった。

 
14世紀中頃、千葉氏によって築城され、「総州山室譜伝記」によれば、(弘治元年、井田刑部大輔の築城とも言う)
その後、坂田郷を領し、千葉氏に仕える「三谷大膳亮胤興」の居城となったが、
享禄年間の1528-31年、になると、1444-49年、「山辺荘小池郷」を領し、「飯櫃城」の山室氏の客将であった「井田刑部大輔俊胤」を祖とする「大台城」の「井田氏」が坂田郷に侵略する意図を見せ、それをきっかけに胤興、胤煕、胤良の三谷氏兄弟に内紛が発生、このときは主家に当たる本佐倉城の千葉勝胤が仲裁したとある。
しかし、1555年、「飯櫃城」の山室氏は坂田郷、千田荘方面へ侵攻、井田因幡守友胤は、山室氏、和田氏らの援軍を得て、金光寺に参詣した。
三谷大膳亮信慈を奇襲、宝馬野での合戦で三谷氏に大勝し、三谷氏は滅亡、
坂田城は井田氏が乗っ取ったといわれる。敗れた三谷信慈の一族、三谷蔵人佐は翌弘治二年に香取二ノ原で挙兵し坂田城奪回を試みたが、井田胤徳に反撃されて敗走した。この合戦では井田友胤の弟、氏胤が討ち死にし、友胤は合戦後剃髪入道し、嫡男井田胤徳が相続したとある。

井田胤徳は、主家の千葉氏とともに小田原北条氏の配下となり、永禄年間には里見の将、正木大膳らの侵略を受けて戦い、天正年間には栗山川流域一帯を支配する在地土豪に発展した。
さらに常陸佐竹氏の南下に際して、小金城の高城氏とともに牛久城の岡見氏を援けて在番し、井田氏は小田原北条氏の配下として軍役三百騎を負ったが、1590年、秀吉の「小田原攻め」に際しては井田胤徳は、小田原城に入城し杉田為鑑の配下で湯本口を守備、神保長門らのわずかの留守部隊を坂田城に置いたが、秀吉配下の軍勢に攻められ無血開城、廃城となった。
井田胤徳は、一旦下総に落ち延び、後に本佐倉城に入部した武田信吉(家康五男)に仕え佐倉領代官を務めたとも云う。
信吉の転封に従い、水戸城で水戸徳川家に仕えた。元治元の1864年、水戸藩士の末裔、井田好徳が来総の折、「因幡守友胤三百年忌法会」が行われ、旧臣の小関、寺田両氏が文書を頼りに各地に分散、帰農していた65名の旧臣を集め、落城後275年目に旧主従の再会を果たしたとある。

          築城は、千葉氏であるが、改修者は、「井田胤徳」。
    

「総州山室譜伝記」によると、坂田城はこの地方の領主だった三谷氏の居城であったが一族で争っていたため山室氏の客将であった井田氏に付け入られることとなり、弘治元年の1555年、「井田友胤」に急襲されて三谷氏は滅亡、井田氏に乗っ取られたといわれる。
翌年1556年、井田友胤の子井田胤徳が修復し里見氏に属した安房正木氏の永禄年間における東下総侵攻を防戦した。
しかし、天正18年の1590年、「小田原征伐」の際は、城主ー井田胤徳は、小田原城にあって、坂田城にはわずかの留守部隊しかおらず無血で敗れた。 

        「梅林」本丸付近は農家栽培・出荷用栽培畑
    

                今は、埋もれた古城跡
  

           虎口等一部を残しているが、廃城は、1590年
  

                  土塁・空堀
    

                   畑の隅に
    

「金刀比羅神社」
松尾町八田にある神社。
神社の北方、横芝に坂田池、北に坂田城址の山が続く。
居城主の「井田因幡守友胤」・一説には、この井田因幡守が讃岐國金刀比羅神社を信仰し、現在の地に金刀比羅神社を建てられたという。
その為か、この神社は珍しく社殿が北西を向いて鎮座しており、その方角には坂田城址が存在する。
金刀比羅神社のご祭神は、大己貴命(別名:大国主命)、大日霎命(別名:天照大神)、金刀比羅神社の大己貴命は八田地区全域の氏神様で総鎮守。

            例大祭は10月10日で3年に1度御神輿が出る。
    

狛犬                         境内
    

                        本殿


次回は、総武本線で銚子方面へ。

松尾ー総武本線の旅4

2016-04-19 | 気まま旅

「山武市」
明治22年の1889年、成東町・大富村・南郷村・緑海村・鳴浜村・源村・日向村・睦岡村・蓮沼村・大平村・豊岡村と「松尾村」が成立し、1898年に「松尾村」が町制施行で松尾町となっている。
昭和28年、公平村(現東金市)の姫島地区が成東町に編入し、29年に、成東町・大富村・南郷村の1町2村が合併して成東町が成立した。
29年、日向村が源村の1部(雨坪・武勝・下布田・植草の一部)を編入合併し、30年、睦岡村と日向村が廃され、山武町が成立。
30年、松尾町誕生。その後、鳴浜村の白幡・本須賀地区が成東町に合併、同年7月緑海村が成東町と合併。
平成18年に、成東町・山武町・松尾町・蓮沼村が合併し、
「山武市」が誕生した。

九十九里の砂浜と山武杉が広がり、海水浴場が6か所・マリンスポーツに興じる人達で賑わっている。「蓮沼海浜公園」「オートキャンプ場」「山武の森」と果物狩り、農産・海産物と豊富である。
 
鉄道は、JR総武本線ー八街・日向・成東・「松尾駅」・横芝ー銚子、JR東金線は、大網ー成東駅。
    
「松尾城」
明治維新により400万石にも及んだ徳川家の領地は、全て新政府に没収され、徳川家は100万石の一大名として駿河の地に配置換え、それまで駿河の地にあった大名たちは、各地に移転することとなった。
遠江掛川城主・「太田資美」は、上総武射郡と山辺郡五万石に転封となり、明治2年の1869年、この地に「松尾城」を築いた。
しかし、明治4年に廃藩置県で全国のほとんどの城と同様に廃城。
「松尾城」は、明治になってから築城されたという全国的にも珍しい城ではある。
その面影は全く残っていないのが残念である。
城は、JRの松尾駅から県道22号線を走り、小高い丘を登った先にあると云う。中学校が外郭にあたるとも云う。
城址は、かなり広かったらしいが、遺構等は、無く、中学校の周辺に土塁らしき跡が残っている。

                    急な汐見坂
    

「太田資俊」
太田掛川藩初代藩主、掛川藩主太田家5代・が掛川藩主となったことにより、代々掛川藩家老職を務め、時は移って幕末、戊辰戦争期、譜代大名として徳川幕府に忠誠を尽くし恩義を感ずる佐幕派であった主席家老「須貝十郎左衛門」と、勤王派であった「太田資逢」の二派に別れて、掛川城を東征軍に明け渡すか否かで重苦しい対立があり、時勢の流れには逆らえず、掛川城は明け渡されることになる。
明治元年、徳川家達が静岡藩70万石に封ぜられたことによって、東海道筋の掛川藩は、千葉県芝山に転封となり、藩主太田資美(太田掛川藩7代、掛川藩主太田家5代)以下、家中のものは千葉に移り住んだと云う。

「柴山藩」を立藩し、明治2年、版籍奉還を受けて、太田資美が藩知事となると掛川城の別名である松尾城と同名の城を築城を開始し「松尾藩」と改名したが、明治4年、廃藩置県により、松尾藩は、廃藩により、松尾県となり、同年に、「木更津県」に合併された。

    

中世に築城した山跡「室城」が近くにあると云う。
山の上に、土塁・空堀・帯郭の施設が現存していると云うが登っていない。
自然地形をたくみに利用した要害城と云う。山武地域における典型的な戦国時代の丘陵式城郭の1つとも云う。
この城跡は、JR松尾駅から西北に向かい約4.8kmに所在する標高34mほどの台しが転封し、三稜郭は、松尾城築城したとある。

    

                126号線沿いに鎮座「末廣神社」
    

「宝積寺」 天台宗の寺。
九十九里七福神ー福禄寿(中国の神様で、南極星の化身で短身長頭と云う姿・限りない長寿の源と幸福を)

                      本尊ー阿弥陀如来


「大堤権現塚古墳・箱根神社」
松尾駅から南西約1kmの地点に位置し国道126号線に沿って連なる台地上にある前方後円墳。
大堤古墳群の主墳とみられ、山武地方最大の規模を誇っている。
墳丘の前方部には、一部削平され箱根神社が祭られており、地区の人々が権現様と呼んでいるところから、権現塚古墳の名で親しまれている。
古墳の全長は、115m、前方部幅53m、

数多くの出土品ががあり、大型の古墳であるが埴輪をもたず、前方部方向が南方向に位置するなど特異な古墳である。
    

古墳は、前方部を南側に向け後円部を北側に向けた墳丘長115mの前方後円墳。
前方部最大幅53mくびれ幅約47m、後円部径60mの規模を持ち、墳丘の高さは前方部約10m、後円部は約12mで、前方部と後円部の比高差は2mほど。
墳丘の周りを盾形に巡る三重の周溝を持ち、周溝を含めた規模は全長174mで、前方部側最大幅104m、後円部側最大幅113m。
出土遺物には、頭椎大刀、圭頭大刀、刀身、金銅製刀子鞘片、多数の鉄鏃、金銅製の耳環、水晶製切子玉、ヒスイ製の勾玉、多数のガラス玉・小玉等。
本古墳で注目すべきは、前室・奥室を設けた複室構造を持ち、奥室の北側北壁に接して石棺を設けた特異な横穴式石室。
後円部墳頂から南東側に設けられ開口部を南に向けた埋葬施設の全長は約9m、奥室の奥壁には朱が塗られていた(現状は崩落していて確認できない)。大型の古墳にもかかわらず埴輪を持たず、終末期の前方後円墳とされ、前方部方向が南方向に位置することなども特徴的である。
また三重に巡る周溝は例が少なく、現在確認されているのは本古墳を含め8例のみ、他の7例はいずれも5世紀~6世紀の大型古墳であるが、本古墳は6世紀末~7世紀初頭の築造とされ大型の古墳が造られなくなった時期でもあり、この時期のものとしては日本最大であると云う。
山武市には、多くの古墳があり、木戸川沿いにはこの大堤権現塚古墳を含み2基の前方後円墳と円墳7基が確認されている大堤古墳群の他、前方後円墳4基と円墳15基のある蕪木古墳群や、円墳としては千葉県最大の山室姫塚古墳など17基の円墳より成る大塚古墳群があり、市町境を越えた横芝光町中台には表情豊かな人物埴輪を出土したことで知られる芝山古墳群も。

            神社名が箱根神社・神奈川県箱根と何らかの?
    

「九十九里浜の七福神」
長生郡一宮・福緑寿の観明寺 長生村・辯才天の清泰寺 白子町・毘沙門天の真光寺 大網白里・寿老人の要行寺 九十九里・恵比寿の八坂神社 山武市・大黒天の五所神社  横芝光町・布袋尊の四社神社

次回は、横芝へ。

成東城址ー総武本線の旅3

2016-04-18 | 気まま旅
「七福神」
福徳をもたらす神として信仰されている7人の神。
民間信仰。インド,中国,日本に伝わる信仰対象を組合せて竹林の七賢などにならって室町時代に「七」に整えられ,福の神としたもの。
えびす (恵比須〈日本〉) ,布袋,福禄寿,寿老人 (中国・印度)。

山武市の七福神は、
成東町に、「光明寺ー寿老人」・「月蔵寺ー大黒天」・「新泉観音堂ー毘沙門天」・松尾町「宝積寺ー福禄寿」工業団地「真光寺ー布袋尊」
木戸川下流「慈広寺ー恵比寿」・「海巌寺ー弁財天」(勝覚寺には、芭蕉句碑・海岸作田南に伊藤左千夫歌碑)

「弘法大師と浪切不動尊」
本尊浪切不動明王は、弘法大師の御自作であり御守本尊。
弘法大師が唐からの帰国途中、船が難破しかかったとき、師の恵果和尚から授かった霊木に大師自ら一刀三礼されて刻まれた「不動明王」に祈念申し上げると、その不動尊は、大火炎を発し、右手に持つ「利剣」で波を切り裂いて船を安全に導いたといわれ、その伝説の浪切不動明王は、全国に多くまつられている。浪切不動明王の元祖はここ高野山ー南院(浪切不動尊)におまつりされている。
「浪切不動尊」は、祈りの中心護摩修業の道場となっていると云う。

               「長勝寺・浪切不動院」山号ー成東山
    

奈良時代に僧「行基」が諸国行脚の際、成東に立ち寄り、この近海に海難の多いことから海難除けの不動明王尊像を刻み、寺を建立したのが始まりと伝わる。
正式名称は長勝寺だが、江戸中期、この不動尊の常夜灯の明かりが荒波を切るように沖合に漂流していた漁船に届き、これを救ったことから「浪切不動尊」とよばれるようになった。

「行基」 668-749 社会事業・高僧。百済系渡来氏族出、大仏建立を助けた。
行基年譜ー僧院34・尼院15・橋6・池・船息・樋・堀川など、僧侶民間布教を、その後、第二の行基は、出なかったよ云う。

    山門をくぐると、標高30mの石塚山中腹に懸崖造[けんがいづくり]の朱塗りの本堂が立つ。
    

所在地は、県山武市成東 ・宗派は、真言宗智山派。
本尊ー不動明王・創建年ー天平3年・札所等ー新上総国三十三観音霊場第三十二番

           元は、山武市下横地で、「円頓寺」の末寺。
    

標高30mの石塚山(石塚の森)の中腹の岩石上に本堂があり、入母屋造瓦葺き、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらした懸崖造り(朱塗り)で、石積みの基壇の上に本堂内陣まで貫通している通し柱2本を含め26本の柱によって支えられている。

天平3年(731年)行基が東国巡錫の折、不動明王の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後平安時代の初め弘法大師が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。

    

本堂の創建年代について明確な記録は無いが、改修に当たって発見された棟札に元和4年(1618年)と記されていたと伝えられており、現在の本堂の建立時期は少なくとも江戸時代初期にまで遡ると考えられる。その後何度か本堂の改修が行われ、明治以降も明治45年(1912年)と昭和30年(1955年)に改修が行われている。昭和49年(1974年)には基礎石積工事が完成し、懸崖造りの維持保存がされている。

                   本堂から見た成東町
  

本堂には、不動明王と「こんがら」「せいたか」の二童子が安置され、古来浪切不動院と呼ばれている。現在は海岸が後退したため海上からは見えないが、遭難しそうになった船が常夜灯の灯りによって救われたという逸話も残されている。

なお本寺の円頓寺は大同4年(809年)に橘諸兄の末孫日和大膳太夫景吉が建立したとされる古刹であるが、一旦廃絶し建治3年(1277年)に再興され、天和年間(1681年-1684年)には荻生徂徠が朱子学の基本書ともいえる「四書大全」を学んだところと言われる。しかし明治維新で再び廃絶し現在は公民館になっている。

  県指定に「本堂」            仁王門が
    

石塚の森は、浪切不動尊の名で有名な不動院の背後の標高約30mの丘の上にある。
境内林として保護されて残ったスダジイの極相林。
九十九里地域の典型的な常緑広葉樹の自然林、この陽も遮るほどの常緑樹の中に奇岩、怪石が。
その昔太平洋の波浪で浸食、絶壁となったものと推定され考古学上貴重な地域、現在は、県東方沖地震により、
かなりの部分が崩壊し昔の面影が薄れたと云う。
「石塚の森」と峰つづきの丘に中世の城「成東城跡」があり、その外堀が灌漑用水に利用されていると云う。

                    県指定記念物「石塚の森」
  

「弘法大師・空海」 774-835 真言宗の開祖
讃岐国生まれ、四国各地を修業出家・入唐、帰国後嵯峨帝と親交、高野山を賜る。四国遍路88ヶ所巡礼。
同人二人と書いた帷掟巡礼する。空海から弘法大師の号を。

                  弘法大師硯石
    

              明治33年鉱泉旅館「成東館」その井戸跡
    

「日蓮宗・法高山ー本行寺」
開基、日合上人。創設は、1429年、本山、平賀本土寺9世日意上人が開山。
隆盛期は、七堂伽藍ありと伝えられ、明治の廃仏毀釈により衰退、現在の堂宇境内は、41世日潮上人・43世日幹上人・45世日道上人(現住職)代
に檀信徒の護持丹誠により90年余の歳月をかけて再建整備された。
本尊は、宗祖日蓮大聖人の示された大曼荼羅を仏像形態にした一塔両尊四士。
守護神として鬼子母大善神・稲荷大明神などがまつられている。

本堂前には、昭和20年8月13日「成東駅で爆死した犠牲者」15名を供養と駅殉難者之墓がある。

           本堂裏には樹齢数百年と思われる大槙がある。
    

鐘楼             本堂             裏手に成東城址と城跡公園が。
    

「成東城址と公園」
鎌倉時代には、「上総国山辺庄成東郷」と呼ばれ、千葉氏の支配下に属し、1227年 印東氏(南郷四郎師常)の領地になり、
印東四郎入道によって成東城が築造。
1530年、千葉介勝胤によって再興され、北条氏滅亡と共に陥落、徳川家康、関東入国後、成東城二万石は、石川康道・青山忠成などによって
領有された。
1620年、青山氏が転封となり、成東城は廃城。
以後幕府領となり、1700年には結城藩水野氏の藩領・幕府領・旗本知行地となりー明治維新へ。

成東城址公園は、九十九里浜を一望することができる所で、成東城が築城され、後城址公園に。
城跡の山頂広場には、アスレチックコース、テニスコート。
詩人・斎藤信夫自筆の、「里の秋」の歌碑が残っていると云う。
ツツジが1万本、さつき・椎・梅などがあり恰好のハイキングコースが、市民の交流と憩いの広場と、近年は、初日の出を拝む場に

            途中まで登ったが足場が悪く下山した


千葉氏・21代勝胤・・・・22代昌胤は、次男勝清(椎崎五郎)・3男胤重(鹿島大与次)・4男久胤(公津左近大夫)・5男胤定(成東八郎)
・・・勝定(成東兵庫)。
1590年、豊臣秀吉・徳川家康の小田原北条氏攻めに成東氏は千葉氏に属して小田原城を守るが、北条氏が破れ、「成東城」も落城したという。
慶長5年の1600年、「関ヶ原の戦い」の功労により、3万石が加増され、美濃大垣城へ転封となり、青山忠成が入城しいる。
1620年、青山氏は、武蔵・岩槻城に移封、成東城は廃城に。
愛宕曲輪(推定本丸跡)には、土塁や空堀・土橋が比較的良好な形で残っていると云う。

  

次回は、松尾町へ

成東駅ー総武本線の旅2

2016-04-15 | 気まま旅

千葉県山武郡成東町・県中東部、九十九里平野と下総台地にまたがって広がる町である。
「成東」の町名は、日本武尊が東征のおりに太平洋の荒波にちなんで「鳴涛」と名付けたと云う。中世は、千葉氏の支配下になったが、近世には
旗本領地に分割さた地域。
平野部は、1965年に両総用水の完成で米作が安定し、施設農園の野菜の生産が増産されたと云う。落花生栽培の発祥地で、イチゴ狩りも盛ん。
白幡地区は工業団地が造成され、海岸は、潮千狩で人気である。
市の境に、天然記念物・東金食虫植物群落でも知られている。

「成東駅」は、歴史が有る。 1897年の明治30年、 総武鉄道の駅として開業し、明治40年、 総武鉄道が買収され、国有鉄道の駅に。
昭和20年8月13日
太平洋戦争による空襲(機銃掃射)に遭い、駅に停車していた貨車に積まれていた高射砲四門と弾薬に引火する。
客車5両も焼失し、駅員や陸軍近衛第3師団将兵が消火作業に当たったものの、爆発・炎上し、駅舎およびホームが全壊され、
駅員15名、将兵27名の計42名が死亡した。


                  成東駅前に慰霊碑が。
    

「津辺城址」は、成東駅に近い城跡で、山武郡津辺とあるが探す事は出来ず。
築城は、室町時代の天正期以降、廃城は、徳川譜代の「石川康通」が、「関ヶ原の戦い」後、美濃の大垣へ移っており、それで廃城したと思われる。
成東城との関係など不明である。


   町の中に小さな「五郎神社」が鎮座、ラクビー選手の「五郎丸」が。
    


「伊東左千夫」ー歌人・小説家 (1864 - 1913)
千葉県成東町殿台に生まれ、 年少の師「正岡子規」に傾倒し、長塚節とともに、島木赤彦、斎藤茂吉ら次の世代に師。
「野菊の墓」「分家」等の小説の名作もある。
万葉的な熱い情けに富んだ一世の詩家として懐かしまれる。

伊東左千夫「野菊の墓」
・・・15の政夫と17の従姉民子。政夫の母親の体調がよくないので、民子は看護や仕事の手伝いで斉藤家にやってくる。
小さい頃から仲がよかった2人は、次第に男女の恋愛感情を抱くようになる。
しかし、兄嫁や作女のお増はそれが気に入らずに、母親に告げ口などをする。
母親は2人に、もう子どもではないのだから、あまりべたべたしてはいけない、という内容の説教をする。
それに民子は2歳上の女。世間体的にもふたりが結ばれるなどとは考えられない。その説教以来、民子は政夫のもとへあまり近づかなくなってしまった。それが原因なのか、政夫は民子を女性として感じるようになる。
ある日、2人は少し遠い斉藤家の畑まで、収穫にいくようにと、母親に頼まれる。
久しぶりに2人で語らえるので、お弁当を持って楽しみにでかける。
道々、野菊が生えている。
ふたりとも野菊が好きだ。
そして、民子は野菊に似ている、と政夫は言う。このニュアンスを2人は意識し、会話は少なくなる。
想いは通じていた。
世間体の悪さから(明治時代なので)、政夫は早めに中学校(いまの高校か)に進学させられる。
下宿なので、民子と離れなければならない。政夫は、お見送りにきた民子に想いを込めた手紙を渡す・・・・。

     伊藤左千夫の代表作「野菊の墓」像(伊藤左千夫記念公園内に)
  

・・・・ある日、政夫のもとに電報が届く。
急いで家に帰ったところ、民子が死んだことを告げられる。
母親は無理に嫁にやったことを後悔しており、取り乱している。
民子の気持ちが本心ではないので、半年ほどで離縁され、その後、民子は病気になり死んでしまったのだ。
死後、民子が手に持ち、胸に押し寄せていたのもは、政夫の写真と手紙だった。ここにきて、政夫と民子の強い気持ちを知り、皆、すすり泣く。
政夫は民子の墓に参る。
周りには野菊がたくさん生えている。政夫は7日間通いつめ、民子の墓の周囲一面に野菊を植えた・・・・・。

       左千夫記念公園ー先に、生家・歴史民俗資料館が
    

左千夫は、(上総国武射郡殿台村・現在の千葉県山武市)の農家出身。
明治法律学校(現・明治大学)中退し、明治31年、新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。
歌よみに与ふる書・に感化され、正岡子規に師事。
子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木・アララギ」の中心となって、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成したと云う。
1905年の明治38年、には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表。
夏目漱石に評価される。代表作に「隣の嫁・春の潮」などを次々に。
東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。
常音の兄である真宗大谷派僧侶の「近角常観」とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌「求道」(求道発行所)に短歌を寄稿する。
1913年の大正2年、に脳溢血のため死去。

                公園内には、記念碑が多数ある。
    

左千夫の菩提寺は、東京普門院、
真言宗智山派の寺院。山号は福聚山という。亀戸七福神・毘沙門天を祭っている。
寺は、以前掲載し、普門院は、1522年に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建された古刹
元和年間(1615年~1624年頃)に現在の土地に移った寺。
歌の世界に生き甲斐を見出した時は、37歳、それから50歳で没する13年間に「馬酔木」を経て「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、斉藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などの大歌人が出ている。短歌と小説、随筆、写生文などの幅広く才能を発揮した。

          明治22年墨田区江東橋(錦糸町駅に近い)で乳牛改良社を開業している。
    

茶の湯・左千夫は、茶道にも通じており、正岡子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けたと云う。
一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。(現在では生家に移築)
左千夫はもともと旧派の和歌を詠んで、号は「春園」。
正岡子規より年長だが、子規に議論を吹っ掛けにいって、逆に論破され、門下に連なったとも云う。
子規の死後、機関誌をもたない「根岸短歌会」のために「馬酔木・あしび」を創刊するも、雑誌は売れず廃刊。
三井甲之の「アカネ」がこれを引き継いだが、同人の間に不満続出。紆余曲折を経て、「アララギ・当初は漢字書き」を創刊。
雑誌の経営難・資金難、さらに自宅が洪水の被害を受けるなどの困難がふりかかる。
「アララギ」が安定したあとも、島木赤彦の作品をめぐって、斎藤茂吉と誌上で激論を交わした。
それでいて斎藤茂吉の異色な作品をかばったとある。
島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明などの個性の違う弟子たちや、長塚節・岡麓らの子規門下をまとめ、いわば「根岸短歌会」の「重石」だった。
岡井隆のいう「大同団結」の気風をアララギの中に育んだのは、伊藤左千夫の功績。
生前、自身の歌集を出版することはなく、小説の執筆に傾倒したこともあり、「野菊の墓」などの作品が。




「作田川」ー2級水系(高倉川と合流する)20.7km・河口ー九十九里海岸。

千葉県山武市北西の大木地区付近に源を発する。
JR総武本線とほぼ平行に流れ、同市雨坪付近で源川を合わせる。
日向橋以降は河川改修により拡幅されており、同市椎崎付近では旧河道が残る。
八反目橋で狭まり、成東堰にて両総用水を分ける。程なくして山武市街に達し、成東・東金食虫植物群落のすぐ北側を流れる。
河川幅が徐々に広がり、東金市に入ると武射田堰を越え、山武市との境界付近で境川を合わせる。
両市の境界を流れ、白幡ニュータウンを越えると九十九里町に入る。
鶴巻堰手前で真亀川より分流してきた高倉川を合わせ、更に河川幅は広がる。
九十九里橋を過ぎると、片貝漁港より太平洋へ注ぐ。周囲は九十九里浜で、作田川を境として東に作田海水浴場、西に片貝海水浴場が広がる。
流路延長20.7kmのうち、源川合流地点より下流18.218kmが二級河川に指定。
明治・大正時代までは支流の境川の名称が使われていたが、近年になって「作田川」に改められた。


大橋に、童べの時 覚えねど 岡負へる日南成東は 春によろしもー左千夫


           左千夫も子供時代は、この川で遊んだであろう
    

「成東の神舞・お竜頭の舞」
源頼朝の家臣が代参した際に始まった「三匹獅子舞」
白幡八幡神社の秋大例祭に疫病退散を祈願して奉納される。 露払いの弓持ちと旗持ちの先導で、拝殿から獅子の行列が短く練り込む。
獅子は、男獅子・子獅子・女獅子の三匹で、腹の羯鼓をバチで叩きながら舞う。 演目は「十二番・四方固め・弓くぐり・橋かがり」が伝わる。
獅子頭は真っ黒な目が特徴で、鎌倉期の作と伝えられる。
白幡八幡神社八幡宮伝承文化保存会が伝統を継承している。 旧暦9月9日に近い日曜日 ・ 山武市指定無形民俗文化財

    


次回も成東の浪切不動院へ。




















千葉土気からー総武本線の旅1

2016-04-14 | 気まま旅

「JR総武線・総武本線」の旅。
成田国際空港へアクセスする特急「成田エクスプレス」が当路線を経由し、千葉駅以西は、錦糸町駅 - 千葉駅間は、各駅停車の電車が走行する総武緩行線と、快速電車や特急列車が走行する総武快速線が並行する線路別複々線となっている。
この区間は「総武線」と呼ばれることが多く、「総武本線」と呼ばれる場合は特急列車は全線、ローカル列車は、千葉駅 - 成東駅 - 八日市場駅 - 銚子駅間を指すことが多い。
上総国・下総国と武蔵国を結ぶことから名づけられた。
1894年の明治27年、市川駅 - 佐倉駅間が開業し、同年、江戸川を越えて本所(現在の錦糸町)に達し、明治30年、に成東、銚子まで延伸され全線が開通し、佐倉駅で成田鉄道との連絡し、両国橋から都心部への延伸は、明治37年、両国橋(現在の両国)まで延伸されている。
両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた路面電車(のちの都電)に乗り継ぎ、この当時は貨物扱いも両国で行い、ここから隅田川などの舟運を利用して物資が東京市内へと運ばれていた。

外房線ー千葉・蘇我・鎌取・誉田「土気」-大網・・・安房鴨川.
「土気」駅から
                急速に変容する千葉県


21世紀新時代「千葉県新産業三角構想・幕張新都心・上総アカデミパーク・成田国際空港都市構想」
千葉県は、三大構想を柱に核都市づくりプロジェクトである。昨年、川崎から東京湾横断道路で木更津・君津・館山・鴨川・勝浦・茂原・千葉・市川
内房・外房を掲載している。
今回は、成田国際空港都市構想の千葉駅ー東金・成東・成田・銚子方面、JR総武本線で旅に。
海洋に突き出した半島で、気候も全体的に温和であるが、房総丘陵の南斜面は「暖帯性の植物が分布し北上するにつれて温帯性植物群の分布してい県」
江戸幕府では、「佐倉藩10万石」以外、小藩・天領・旗本知行地細分された。
房総は、江戸100万都市への生活物資労働力の供給地であった。野田・銚子の醤油・流山のみりん・小見川の酒等は、利根川水運交通路が利用された。
行徳の塩・浦安の鮮魚・五井の海苔・佐倉炭・山武杉材木・観光で成田山新勝寺、茨城の鹿嶋神社、香取神社は、江戸の信仰を集め賑わっていたと云う。

      湾岸の千潟から江戸川整備・工業出荷額は年々増、住宅地造成も進んでいる。


           JR横須賀線、快速ー錦糸町駅から千葉駅約20分で
    

「千葉 常胤」 1118-1201、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。
千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖・常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。
「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、常胤にとっては義朝もまた侵略者の一人であることが判る。
「保元・平治の乱」-常胤は、保元元年の1156年、「保元の乱」に出陣し源義朝指揮下で戦う。
常胤を義朝の郎党とする見方もあるが、「保元の乱」での後白河天皇側の武士の動員は官符・国衙を通じた公式動員である。
「平治の乱」-源義朝が敗死すると、1161年、には常陸国の佐竹義宗(隆義の弟)が前下総守・藤原親通から常重の証文を手に入れ、
藤原親盛(親通の子・平重盛側室の養父)とも結んで伊勢神宮に再寄進しこれも伊勢神宮に認められ支配権を得る。
これを知った常胤も翌月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。
このため、伊勢神宮側では常胤側の窓口となった禰宜・荒木田明盛と義宗側の窓口となった禰宜・度会彦章の対立が生じる。
その後、佐竹義宗が伊勢神宮に供祭料を負担して寄進状の約束を果たしたことが評価され、1163年、佐竹義宗の寄進を是とする宣旨が出され、
続いて1166年、明盛から彦章に契状を提出し、1167年、和与状が作成された。
当時、和与による権利移転は悔返を認めない法理があり、これによって度会彦章・佐竹義宗の勝訴が確定。
以後、千葉常胤は佐竹義宗と激しく争うことになる。
「平治の乱」で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後間もない子が配流されてきたため、千葉常胤は、流人としてこれを監督しつつも、
源氏への旧恩から、この子を密かに源氏の子として育てた。これが後の「源頼隆」である。

治承4年の1180年、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れると頼朝は直ちに千葉常胤に加勢を求める使者として
「安達盛長」を送った。
「吾妻鏡」によれば、千葉常胤は、胤正・胤頼以下の子息とこれを丁重に迎え入れて、安達盛長の言伝を聞いたものの何の反応も示さない。
そこで千葉胤正・胤頼が早急の返事を進めたところ、「自分の心中は勿論その積りだ。ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を興されたことを考えると、
感涙が眼を遮り、言葉も出ないのだ」と言って、安達盛長に相模国鎌倉を根拠にすることを勧めたとある。(治承4年9月9日条)
安達氏は、有力御家人、北条執権三大に渡って幕政の枢機に参画・秋田城介、泰盛の妻は北条時宗の妻。

「源頼朝と千葉常胤の対面は、「吾妻鏡」
9月17日に千葉常胤は、一族300騎を率いて下総国府に赴き「源頼朝」に参陣したとしている。
ただし、頼朝が途中、千葉常胤の本拠である千葉荘を通過して千葉妙見宮などを参詣したと伝えられていることから、現在では最初の会見はー
上総国府(現在の市原市)もしくは結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)で行われたと考えられている。
この時に源氏の子として育ててきた「頼隆」を伴って参陣したとされ、頼朝から源氏軍への参陣への労いの言葉を受けるとともに、
頼隆を頼朝に対面させて源氏の孤児を育ててきたことを深く謝されとある。
前述の経緯のように常胤の参陣の背景には国府や親平氏派(下総藤原氏・佐竹氏)との対立関係や、かつての相馬御厨を巡る千葉常胤と源義朝との間の
いきさつを考慮しなければならず、源頼朝の決起に感涙したという「吾妻鏡」のような美談をそのまま事実とすることは出来ないとも云う。
10月2日には頼朝が太日河・墨田川を越えて武蔵国に入り、
豊島清元・葛西清重父子に迎えられているが、この際に船を用意したのは千葉常胤と上総広常とされている。
葛西清元は、1177年、香取神宮造営の際の雑掌を務めており、この時在庁官人であった千葉常胤とも造営を通じて関係を持ち、畠山氏などの
平家方勢力が残る中での源頼朝の武蔵入国に際しては両岸の千葉・豊島両氏が連携を行ったとみられている。
常胤当時の千葉の推定図と頼朝時代の鎌倉の推定図がともに北端に信仰の中核になる寺社(千葉の尊光院と鎌倉の鶴岡八幡宮)を設けてそこから
伸びる南北の大路を軸として町が形成されていることから、鎌倉の都市計画に常胤の献策があった可能性が。

平安時代末期 - 鎌倉時代初期・1118ー1201・(鎌倉 浄光明寺)官位ー上総権介、下総権介・氏族ー桓武平氏良文流、房総平氏、千葉氏
父母ー千葉常重、石毛政幹の娘 ・兄弟ー常胤、小見胤隆、椎名胤光? ・妻、正室:秩父重弘の娘
子ー胤正、相馬師常、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通、東胤頼、日胤

    

JR総武本線・外房線に沿ってモノレール・タウンライナーと私鉄京成千葉線など千葉駅は、今、大改造工事中、駅周辺は、商業ビル地で高層ビルが
建ち並んでいる。駅近くには、千葉城・国立千葉大学医学部附属病院・千葉城・県庁が集中する。

「土気」は、千葉市南東部で大網白里町の境に位置している。高台では、九十九里平野が望め、南部広大な「昭和の森」が広がっている。
丘ニュウ―タウン住宅開発が進んでいる。

            中央に千葉城が(車窓から)
    

JR土気駅東方に・「酒井氏5代の土気城」が。城は、15世紀末に初代酒井定隆が築城したとある。
1590年小田原の役で、「浅野長政」に攻略され廃城となった城。
本丸跡に碑があるのみであった。(老人ホーム内)

    

「土気城」
神亀年間(8世紀頃)に大野東人によって築かれた貴船城が起源とされ、中世土気城の大手口にも貴船神社が祭られていたと云う。
室町時代、土気荘の地頭職を得た「千葉氏」の勢力圏となり、室町時代には千葉氏の流れを汲む土気氏が当地の地頭職を得て「土気城」に。
室町時代後期には一時大関城主の「畠山重康」の勢力下となったが、
長享元年(1490年頃)原氏と組んだ中野城主「酒井定隆」に追われ、翌長享2年「酒井氏」が移り、
以降酒井氏が滅びるまでの100年強同氏の一族が拠った。後に定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は「東金酒井」氏の祖となった。
永禄7年(1555年頃)第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に組し、里見氏の敗退後北条氏に組した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。
この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退したとある。
その後、土気酒井氏も北条氏に降り、天正18年(1580年)の小田原征伐では酒井氏は北条方として小田原城に篭城した。
この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となった。

    

土気城は、東に向けて突き出した舌状台地上に占地し、台地上に切れ込んだ谷と空堀を利用して台地上を遮断し、城域は三角形状を。
城域内は本丸・二の丸・三の丸及び出丸に区分されており、それぞれを空堀が遮断するが、
特に二の丸と三の丸の間の空堀は二重になっている。
出丸は、三の丸の端に位置する貴船神社が鎮座した郭と、井戸沢の向かいの尾根上に築かれた水沢郭の二つがあり、三の丸端の郭は馬出。
馬出状の出丸から三の丸二の丸を経る経路が大手道となるが、本丸から直接金谷方面に下りる経路が搦め手にあたり、
比高差のあるこちらの経路には空堀を兼ねたクラン坂と呼ばれる切り通しが設けられている。

     城主ー大野東人、千葉氏、土気太郎、畠山重康、酒井氏。廃城年ー1590年
    

「貴船大明神」
聖武天皇の神亀元年の724年、蝦夷の侵入に備えて、陸奥の国(宮城県)に多賀城を築き、蝦夷の軍事拠点として土気に貴船城と呼ばれる砦を築いたと伝えられ、鎌倉時代に入り千葉氏の一族相馬胤綱の次子土気太郎が土気の荘の地頭に任ぜられ居住したと言う。
戦国時代「畠山重康」の居城となるが、下総中野城にいた酒井定(貞)隆の勢力に押されこの地を撤退、1488年、酒井定隆は、土気古城跡を修築
土気城を再興。
土気城址への大手入口・馬出曲輪跡に土塁があり、その上に「貴船大明神」と石碑と祠が建ち、土塁下に城址碑と説明付きが建てられていた。
土塁と櫓台のようになっている所有り、外側の堀は深い。この辺は、いろいろ改修されている。

             貴船大明神が祀られている土塁と城址碑


「土気城・貴船城・三の丸付近には貴船大明神」
鎌倉時代、千葉氏の一族であった相馬胤綱の子である土気太郎が地頭となり、ここを拠点としたと言われている。
戦国時代に入った1488年には、上総中野城酒井定隆によって土気氏はこの地を追われ、以後5代100年もの間、土気城が酒井氏の本拠地として続く。
この間に、酒井氏は勢力を伸ばし、本納城にも攻め込んでいる。 戦国時代の上総北部は里見氏・北条氏の勢力争いの最前線にあり、
土気酒井氏も表では里見氏と手を握りながら、裏では北条氏に通じるような二元外交を展開。
最終的には、北条氏に従い、他の関東の城と同じく1590年の秀吉による小田原攻めの際に、城主の酒井氏は北条方として小田原城に参陣、土気城は
豊臣方の浅野長政に攻められて落城し、長い歴史に幕を閉じている。

    

「浅井長政」 1545-73 小谷城主(近江国)
久政の子・16歳で家督を奪取する。六角氏と断交南下政策を推進、北近江統一し織田信長と同盟するが朝倉氏と組んだ為信長に背き。
「姉川の戦い」で大敗し自害ー妻信長の妹「お市」・六角氏の重臣の娘と結婚したが離縁している。
長政自刃の際、お市を信長のもとへ送り返している。
信長は、長政の首を金銀箔で彩色し、酒の肴にしたとある。

    

「天満宮」
道真が亡くなった後、平安京で雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぎ、清涼殿落雷事件で大納言の藤原清貫ら道真左遷に関わったとされる者たちが
相次いで亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷神)と関連付けて考えられるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満・大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来。
道真が優れた学者であったことから天神は、「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でる。
参拝して筆を買うと受験に利益があるともいう。
道真が梅を愛し、庭の梅の木に、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」 (拾遺和歌集から)

    

「千葉市昭和の森公園」
市・緑区にある総合公園・約100haの敷地は千葉市内の公園としては最大の規模で、ユースホステル・キャンプ場、野球場、テニスコート、
サイクリングコース、ウォーキングコース、遊び場、自然公園などの施設がある。
公園の一部は県立九十九里自然公園に指定されている。日本の都市公園100選に選定。