学校6日制の検討が始まっているということが先日報道されていた。毎週土曜日授業を受けていたか、隔週だったかそれとも土曜日は休みだったかで年齢の地層がわかるということがジムでも話題になったことがある。その時星田小学校に子供が通っているスタッフの方が「星小では先行試行してるんですよ」と教えてくれた。ということはかなり本気になって時計の針を逆に回そうとしているみたいである。
何の反省もなくクルクル変わる教育行政のありかたにため息が出た。戦後教育を語るとき日教組が諸悪の根源みたいな言い方をされるが、教育において圧倒的な権力を持って推進してきたのは文部(科学)省であるということをしっかり認識しておかないといけない。学習指導要領なるものを改定するたびに振り子の揺れるように方針が変わり、確固たるものを感じなかった。ここを直視していかないと病巣は永遠に取り除けないように思う。
憤りに近い思いが久しぶりに温泉のように心の中に沸々と湧いてきた。猫の目のように変わる方針に翻弄され続けてきたという思いは強く持っている。今日の夕刊に示唆に富む意見が2つ掲載されていた。
1つは、「火論」の玉木研二専門編集委員のもの。今、高校の地理・歴史教科では、世界史は必修、そして日本史と地理から一つ選んで必修となっていることに関してである。
06年に受験勉強のために必修の世界史などの授業の履修を偽装した「未履修問題」が表ざたになったのを機に、日本史を学ばなくてもシステムになっていることを多くの国民の知ることとなった。自国の歴史を学ばずして何の国際化か、という声が高まった。それに押されるように日本史の必修化の動きが出ていることに対して玉木さんは次のように述べている。
『単に、必修を1科目増やすのではなく、日本と世界が有機的につながった歴史、そして地理を関連させる新総合科目を生み出せないか』
その教材の例として日本に最初に来たイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)をとりあげてみたらと概要を紹介している。大河ドラマ「八重の桜」の第一回は単に幕末の日本にだけ視点をあてるのではなく、南北戦争も1つの柱にしていた。これと共通している部分があるように思えた。また仮説授業の板倉さんの視点ともつながるものがある。
最後に、玉木さんは次のように締めくくっている。
『「いよー国だ」で1492年、コロンブス新大陸到達▷「以後天下くれい」で1590年、豊臣秀吉天下統一・・・などと年号を暗記したことが、まるで無意味とはいわないが、少なくともこれは「歴史に学ぶ」ことではない。
歴史学習だけではない。
複眼、立体的な思考、想像力を育てる刺激。どの分野でも学校の教科学習とはそれではないか』
総合学習なるものが導入された背景に、玉木さん的な発想があったと思うが、迷走したあげく学力向上のスローガンのもとに頓挫してしまった。そのあたりをしっかり検証していかないといけないと思う。教科と教科を有機的に結びつける。世の中にあるものと教科を関連づけることは大切な視点だと思うのだが立ち消えになってしまった感がある。とても残念に思う。
何の反省もなくクルクル変わる教育行政のありかたにため息が出た。戦後教育を語るとき日教組が諸悪の根源みたいな言い方をされるが、教育において圧倒的な権力を持って推進してきたのは文部(科学)省であるということをしっかり認識しておかないといけない。学習指導要領なるものを改定するたびに振り子の揺れるように方針が変わり、確固たるものを感じなかった。ここを直視していかないと病巣は永遠に取り除けないように思う。
憤りに近い思いが久しぶりに温泉のように心の中に沸々と湧いてきた。猫の目のように変わる方針に翻弄され続けてきたという思いは強く持っている。今日の夕刊に示唆に富む意見が2つ掲載されていた。
1つは、「火論」の玉木研二専門編集委員のもの。今、高校の地理・歴史教科では、世界史は必修、そして日本史と地理から一つ選んで必修となっていることに関してである。
06年に受験勉強のために必修の世界史などの授業の履修を偽装した「未履修問題」が表ざたになったのを機に、日本史を学ばなくてもシステムになっていることを多くの国民の知ることとなった。自国の歴史を学ばずして何の国際化か、という声が高まった。それに押されるように日本史の必修化の動きが出ていることに対して玉木さんは次のように述べている。
『単に、必修を1科目増やすのではなく、日本と世界が有機的につながった歴史、そして地理を関連させる新総合科目を生み出せないか』
その教材の例として日本に最初に来たイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)をとりあげてみたらと概要を紹介している。大河ドラマ「八重の桜」の第一回は単に幕末の日本にだけ視点をあてるのではなく、南北戦争も1つの柱にしていた。これと共通している部分があるように思えた。また仮説授業の板倉さんの視点ともつながるものがある。
最後に、玉木さんは次のように締めくくっている。
『「いよー国だ」で1492年、コロンブス新大陸到達▷「以後天下くれい」で1590年、豊臣秀吉天下統一・・・などと年号を暗記したことが、まるで無意味とはいわないが、少なくともこれは「歴史に学ぶ」ことではない。
歴史学習だけではない。
複眼、立体的な思考、想像力を育てる刺激。どの分野でも学校の教科学習とはそれではないか』
総合学習なるものが導入された背景に、玉木さん的な発想があったと思うが、迷走したあげく学力向上のスローガンのもとに頓挫してしまった。そのあたりをしっかり検証していかないといけないと思う。教科と教科を有機的に結びつける。世の中にあるものと教科を関連づけることは大切な視点だと思うのだが立ち消えになってしまった感がある。とても残念に思う。