予期せぬ方々からのコメントをいただき嬉しく思っています。最近のニュースにそれぞれ胸を痛め、憤りを感じている人が多くいるのだということを思いました。
(通りすがり)さんは、とても言いにくいことをズバリと指摘してくれました。自殺という手段に訴えることはよくない。ということをもっとアピールしていかないといけないとえている私も思います。元来、日本には死を美化する意識が根底に存在するのではないかと思う。そのことを痛烈に批判したのが山本周五郎さんだと思う。20代の頃ほとんどの作品を読みつくしたが、それらを通じて「何があっても生きる」ということを学んだ。『完本山本周五郎全エッセイ』が手元にある。その中にもこういうくだりがある。
「このごろしばしば、倒産とか失業とか就職難などで、親子心中とか、若いのに自殺するなどという報道が眼につく。心痛む話である。超高度経済成長政策という、奔馬のヒヅメにかけられた死傷者や、切り刻まれた国土のむごたらしい姿を、いまここであげつらうつもりはない。私が訴えたいのは、生活がちょっとゆき詰まると、すぐに自殺したり一家心中をしたりする、わが民族のねばりのなさに、心痛みながらも怒りを感ぜずにはいられないということだ。
いまさらのようだが、人間の生活には波があって、好況があれば必ず不況がある。好況のときにはスポーツ・カーなどを買って乗り廻したり、キャバレーで金をばらまいたりする。そして、不況、倒産となると、すぐに一家心中とか自殺に走ってしまう。もちろん、そこに到る経過は単純ではなく、多くの複雑な因果関係が絡みあっていることだろうが、自分が苦しいときは他人も苦しいということ。その苦境は永久的なものではなく、いつか好転するということをなぜ考えられないのだろう。三食を一食にしても切り抜けてやろう、というねばり強さがなければ、人間生活とはいえないのではないか」(昭和40年12月・朝日新聞)
体罰”いじめ”問題に関しては、ひとくくりの言葉で片付けられない難しさがある。それだけにセンセーショナルに取り扱わずにしっかりとした検証が大切ではないかと思う。アメリカの銃規制の問題のむずかしさと同じくらいだと考えている。それでも、少しずつ良い方向に向かっていると私は思っている。短絡的な解決法は長い目で見ると悪い結果をもたらすこともある。今回の動きはそういう危険性をはらんでいる気がしたので黙っておれなくなった。
(新米教員)さんにとって、実際に経験した現場はどう見えたでしょう。なかなかきれいごとではいかない矛盾に満ちたものではないでしょうか。それに失望して辞めていく人が多いとも聞きます。私の知っている範囲でもかなりの数になります。今回の早期退職問題同様、全国的には相当深刻な事態ではないかと推察しています。今の現場は失敗に関する寛容力が少なくなってきていることも拍車をかけているように思えます。自分の小さな経験からですが、20代、30代、40代、50代と10年単位で節目があります。本当は20代のときはある程度自由奔放にやってみるべきだと思います。後で考えれば恥ずかしくて穴にも入りたいことも含め体当たりしていくことが大切。その経験を深めるために実践しつつ貪欲に他の人の考えや実践から学ぶのが30代。そして自分なりのスタイルが見えてきて実践を通して熟成していくのが40代。ただ、ここで現場の最前線で働き続けるか管理職として関わっていくかという岐路がある。どちらが良いかは決められない。大切なのは自分の心の声に耳を傾けることである。いずれにしても、集大成としての50代が言い訳のできないつらさはあるが、もっとも充実した実践ができるのではないだろうか。
ですから、いつも若い人には「続けてください。」と言っている。自分の思い通りにならないことこそ自分を鍛えてくれるものに他ならない。と思えば良い。
(パオパオ)さんの生徒の会見に関する見解についてですが、尾木さんは実践者感覚がなくなってしまったのだと思いました。私は教育に関しては実践者、評論家(保護者も含め)、研究者と大別しています。そしてどれも欠くことのできない大切な人たちだと思っています。私は昔、実践者、今は評論家の立場だと思っています。
実践者は日々の目の前の課題に埋没しがちです。時には視点が偏ったり、狭くなってしまいます。それを是正してくれるのが評論家であり、研究者であります。評論家と研究者の違いは自分の体験や考え方をもとに教育問題に関心を寄せて意見を述べるのが前者、教育のあるべき姿を歴史や人間への洞察から日々理論的に追及しているのが後者。
実践者の基本は生徒の声に耳を傾けるということだと思います。そこにはさまざまな声があります。相容れないものもあります。それらも含めて自分の頭で考え、自分の責任で実践していく必要があります。それゆえ「簡単には言えない」ということが多々でてきます。体罰”いじめ”に関して現場からの声が無いという批判もあるが、それは「簡単に言えない」ということに起因していることもある。それを尾木さんは隠ぺい体質”という言葉で切り捨てている。
三者がそれぞれに「何にもわかっていない」と相互批判をしているだけでは問題は解決していかない。それぞれの立場を尊重し、お互いの意見を交流する中で、多面的な見方ができ解決の糸口、道筋が見えてくるように思う。
教育問題は「これが正解」という簡単な問題ではない。ということをふまえることが大前提だと考えます。そこが抜けている評論家、研究者の話はうすっぺらく聞こえます。
(通りすがり)さんは、とても言いにくいことをズバリと指摘してくれました。自殺という手段に訴えることはよくない。ということをもっとアピールしていかないといけないとえている私も思います。元来、日本には死を美化する意識が根底に存在するのではないかと思う。そのことを痛烈に批判したのが山本周五郎さんだと思う。20代の頃ほとんどの作品を読みつくしたが、それらを通じて「何があっても生きる」ということを学んだ。『完本山本周五郎全エッセイ』が手元にある。その中にもこういうくだりがある。
「このごろしばしば、倒産とか失業とか就職難などで、親子心中とか、若いのに自殺するなどという報道が眼につく。心痛む話である。超高度経済成長政策という、奔馬のヒヅメにかけられた死傷者や、切り刻まれた国土のむごたらしい姿を、いまここであげつらうつもりはない。私が訴えたいのは、生活がちょっとゆき詰まると、すぐに自殺したり一家心中をしたりする、わが民族のねばりのなさに、心痛みながらも怒りを感ぜずにはいられないということだ。
いまさらのようだが、人間の生活には波があって、好況があれば必ず不況がある。好況のときにはスポーツ・カーなどを買って乗り廻したり、キャバレーで金をばらまいたりする。そして、不況、倒産となると、すぐに一家心中とか自殺に走ってしまう。もちろん、そこに到る経過は単純ではなく、多くの複雑な因果関係が絡みあっていることだろうが、自分が苦しいときは他人も苦しいということ。その苦境は永久的なものではなく、いつか好転するということをなぜ考えられないのだろう。三食を一食にしても切り抜けてやろう、というねばり強さがなければ、人間生活とはいえないのではないか」(昭和40年12月・朝日新聞)
体罰”いじめ”問題に関しては、ひとくくりの言葉で片付けられない難しさがある。それだけにセンセーショナルに取り扱わずにしっかりとした検証が大切ではないかと思う。アメリカの銃規制の問題のむずかしさと同じくらいだと考えている。それでも、少しずつ良い方向に向かっていると私は思っている。短絡的な解決法は長い目で見ると悪い結果をもたらすこともある。今回の動きはそういう危険性をはらんでいる気がしたので黙っておれなくなった。
(新米教員)さんにとって、実際に経験した現場はどう見えたでしょう。なかなかきれいごとではいかない矛盾に満ちたものではないでしょうか。それに失望して辞めていく人が多いとも聞きます。私の知っている範囲でもかなりの数になります。今回の早期退職問題同様、全国的には相当深刻な事態ではないかと推察しています。今の現場は失敗に関する寛容力が少なくなってきていることも拍車をかけているように思えます。自分の小さな経験からですが、20代、30代、40代、50代と10年単位で節目があります。本当は20代のときはある程度自由奔放にやってみるべきだと思います。後で考えれば恥ずかしくて穴にも入りたいことも含め体当たりしていくことが大切。その経験を深めるために実践しつつ貪欲に他の人の考えや実践から学ぶのが30代。そして自分なりのスタイルが見えてきて実践を通して熟成していくのが40代。ただ、ここで現場の最前線で働き続けるか管理職として関わっていくかという岐路がある。どちらが良いかは決められない。大切なのは自分の心の声に耳を傾けることである。いずれにしても、集大成としての50代が言い訳のできないつらさはあるが、もっとも充実した実践ができるのではないだろうか。
ですから、いつも若い人には「続けてください。」と言っている。自分の思い通りにならないことこそ自分を鍛えてくれるものに他ならない。と思えば良い。
(パオパオ)さんの生徒の会見に関する見解についてですが、尾木さんは実践者感覚がなくなってしまったのだと思いました。私は教育に関しては実践者、評論家(保護者も含め)、研究者と大別しています。そしてどれも欠くことのできない大切な人たちだと思っています。私は昔、実践者、今は評論家の立場だと思っています。
実践者は日々の目の前の課題に埋没しがちです。時には視点が偏ったり、狭くなってしまいます。それを是正してくれるのが評論家であり、研究者であります。評論家と研究者の違いは自分の体験や考え方をもとに教育問題に関心を寄せて意見を述べるのが前者、教育のあるべき姿を歴史や人間への洞察から日々理論的に追及しているのが後者。
実践者の基本は生徒の声に耳を傾けるということだと思います。そこにはさまざまな声があります。相容れないものもあります。それらも含めて自分の頭で考え、自分の責任で実践していく必要があります。それゆえ「簡単には言えない」ということが多々でてきます。体罰”いじめ”に関して現場からの声が無いという批判もあるが、それは「簡単に言えない」ということに起因していることもある。それを尾木さんは隠ぺい体質”という言葉で切り捨てている。
三者がそれぞれに「何にもわかっていない」と相互批判をしているだけでは問題は解決していかない。それぞれの立場を尊重し、お互いの意見を交流する中で、多面的な見方ができ解決の糸口、道筋が見えてくるように思う。
教育問題は「これが正解」という簡単な問題ではない。ということをふまえることが大前提だと考えます。そこが抜けている評論家、研究者の話はうすっぺらく聞こえます。