素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

喪中ハガキ

2023年11月08日 | 日記
 11月に入ると喪中ハガキが届き始める。ポストを開け、らしきハガキがあると一瞬心にさざ波が立つ。先日は、二中の時担任をした生徒Aくんのお母さんが亡くなったという知らせがあった。家庭訪問の時に話が弾み、以来40年余り年賀状の交換をしてきた。その頃の私は、小3、小1、3歳の子育てにてんやわんやだったので中学生の子供を持つているAさんはずい分年上に思っていたが、ハガキを読むと74歳で永眠となっていた。ほぼ同じ世代だったんだと認識を新たにした。冷静に計算してみればわかることだが当時は私に比べて落ち着いて見えたのである。谷村新司さん、もんたよしのりさんなど同世代の芸能人の訃報も続いてあったこともあり、自分の行く末を少し考えさせられた。

 今日は、村野中学で同勤した後藤明子さんから喪中ハガキが届いた。お母様の美穂子さんが97歳で永眠されたとのこと。美穂子さんとは面識はないが、明子さんと妹の典子さんとご両親の詠まれた和歌をお母様の米寿を記念して上梓された「家族歌集・草笛の道」を通じて知ることとなった。


 〈1925年(大正14年)、島根県八束郡東出雲町(現在の松江市)揖屋生まれ。 島根県立松江高等女学校卒業後、島根県安来市、京都府舞鶴市の小学校に20年間勤務。女学校時代から短歌に親しみ、新聞歌壇などに投稿してきた。〉という略歴を見たとき、「大正13年生まれの父とほぼ同じ時代を、同じ教育畑を歩んでこられたのだ」と感じ入ったのである。

 父もそうであったが、その年代の人は10代後半の多感な時期を戦時下で暮らし20歳前後で終戦を迎え、世の中の価値観の大転換を目の当たりにし、戦後の混乱期を生き抜いたことが心の奥底に眠っている。

 喪中ハガキの末尾に、明子さんの詠まれた「うら若き女教師母と写りたる戦後の子らは素足に下駄履く」と並べられた
美穂子さんの歌「この平和とこしへにあれ砂煙上げつつ踊る子らの行く末に」
にもひしひしと伝わって来るものがある。

 この歌が「家族歌集・草笛の道」の巻頭歌になっているのも頷ける。妹の典子さんが「あとがき」でこの歌について次のようにふれている。
「おそらく私が小学4年生だった時の運動会に材を得ている。運動会の最終プログラムは全学年が何重もの輪になって踊る全校ダンス。白い砂煙が上がる中、両手をいっぱいに広げて手を繋いだ記憶が確かにある。それを見たとき、「この平和」というフレーズが自然に浮かんだと、後になって母から聞いたのだが、小学校時代の運動会の記憶がこれほど明瞭に残っているのも不思議な気がする。ひょっとすると、母の歌が私に記憶を作ったのかもしれない。」

 喪中ハガキをきっかけに、10年ぶりに「家族歌集・草笛の道」を読み返している。歌集の題名になった扉の歌は、歌会始に出すために書かれたもので、その書から凛とした姿が浮かんでくる。


 
 
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