素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

松浦武四郎記念館

2023年11月22日 | 日記
 歴史番組で、北海道の名付け親ということで松阪出身の松浦武四郎が紹介されたことがあり興味を覚えていた。国道23号で伊勢、鳥羽、志摩方面に向かう時、雲出川を渡ってしばらく走ると記念館への案内表示板がある。何度か右折して行ってみようかと思ったが「面倒やな、まあいいか」とスルーしてきた。今回は関西文化の日の「無料」引力で松坂城跡からプラザホテル洞津へ行く途中に立ち寄った。思っていたより立派な外観だった。
 

 展示室を見て回るうちに、松浦武四郎という人はたぐいまれなる知識欲と冒険心を備え、多芸多才ぶりが伝わってきた。単に「北海道の名付け親」という一言で片付けられないと思った。
     

 江戸時代の終わり頃(1818年・文化15年)に今の三重県松阪市小野江町で生まれ、13歳から津の塾で勉強をしていたが、16歳の時に幼少の頃から抱いていた旅へのあこがれに抗しきれず一人で江戸まで歩いて行った。17歳になると日本全国を旅するようになり、いろいろな所を歩いて見てまわり、調べたことは何でもメモ帳に書いて多くの知識を身につけていった。
   そして26歳の時、どんな所かまだよくわかっていなかった北海道を、自分の目で確かめようと心に決め、28歳から41歳までの間に6回も北海道を探検した。古くから暮らしていたアイヌの人々に助けてもらいながらの道なき道を歩く探検であった。
 北海道を6回探検してわかったことをまとめ、たくさんの本や詳しい地図を作ることで、北海道の事や、アイヌの人々のことを全国に紹介したのが42歳から50歳。
   1868年(51歳)に大久保利通の推挙により
明治維新に開拓使の判官を務める。52歳の時、道名、国名、郡名をアイヌ語に基づいて上申し、アイヌ民族を指す古い言葉「カイ」を用い「北のアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めた「北加伊道」から「北海道」の名が誕生した。53歳の時、アイヌの人びとが安心して暮らすことができる北海道を目指して取り組んでいた武四郎は、江戸時代のような、商人たちによってアイヌの人びとが酷使される実態を改善しようと試みた。しかし、これに対抗した商人たちは、当時の開拓長官東久世長官に賄賂を贈り、それによって武四郎の意見は聞き入れられないばかりか、東京詰めの役人として、北海道へ行くことすらできなくなった。また、商人たちは開拓使内部で武四郎が孤立するよう仕組んだため、大きな政治の流れの中でたった一人ではどうすることもできなかった武四郎は、北海道開拓のあり方に強く反発して、辞職した。このとき、武四郎は今までの功績により、従五位の位を贈られていたが、それも返上した。気骨のある人だと感じ入った。辞職してからは、珍しい石や、古いお金を収集したりあちらこちらへの旅行と趣味に生きた。辞職後に名乗った雅号が「馬角斉」(ばかくさい)。これには笑ってしまった。
   68歳になって大台ケ原に登り、70歳には富士山にも登った。そして1888年に71歳で亡くなった。70歳の時全国の古社寺などから古材を取り寄せ自宅に畳一畳の書斎を作った。東京都三鷹市の国際基督教大学に現存していて、記念館には原寸模型が展示場入口すぐに展示されていた。実はこれで心を鷲掴みにされた。
  

 さまざまな価値観を受け入れる広い心、偏見を持たない眼、常に先を切り拓く力、尽きることない好奇心・・・武四郎の人となり、生き様に触れることができ良かった。館を後にする時「牧野富太郎と相通じるものがあると思った」と妻につぶやいた。
 2ヶ月ごとに展示資料を入れ替え、さまざまなテーマで武四郎を紹介するとあった。次回の企画展示は「武四郎の出版活動」で令和5年12月1日(金)~令和6年1月28日(日)の期間である。12月にも母の施設を訪れるつもりなので立ち寄ってみたい。今回の関西文化の日は「棚からぼた餅」であった。









 
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