~明治後期、出身の教員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていたにもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太郎の壮烈な死に心を動かされ、ついに父の戒めを破ってしまう。
その結果偽善にみちた社会は丑松を追放し、彼はテキサスをさして旅立つ。
激しい正義感をもって社会問題に対処し、目ざめたものの内面的相剋を描いて近代日本文学の頂点をなす傑作である。
「BOOK」データベースより
『破戒』→戒めを破る・・・。とても重たいタイトルです。
島崎藤村という作家の名前は知っていましたが、実際に作品を読むのは初めてです。
島崎藤村が、1906年(明治39年)に7年の歳月をかけ最初の長編小説を自費出版したとのことですが、これが大絶賛を受けて、自然主義文学の旗手として注目されました。
以降、自然主義文学の到達点『家』、告白文学の最高峰『新生』、歴史小説の白眉『夜明け前』等を次々と発表し、第一級の文豪として名を馳せました。
また、初代日本ペンクラブ会長に就任するなど、後世に語り継がれている作家ですね。
その中でも『破戒』は異彩を放っており、現代ならタブーとされる「差別問題」について切り込んだ小説です。
作中の主人公「瀬川丑松」は、被差別で生まれ、一生懸命勉強して、生徒から慕われる小学校教員になり、表向きは物静かで真面目な青年として生きています。
しかし、その心の内は、厳格な父の教え「身分を隠せ」、「忘れるな」という言葉を戒めとしながらも「これでいいのだろうか?」と悶々とした日々を送っていました。
同じ身分の活動家「猪子蓮太郎」の書物や、その姿勢に感銘を受け続けた丑松は、「この人にだけなら打ち明けてもよいのでは?」と、逡巡し続けますが、不慮の事故によって猪子の命が絶たれ、その鬱屈した思いだけが丑松の身体を蝕んでいきます。
丑松の真面目な仕事ぶりを妬む同僚や、心無い町の人々の噂話によって、「丑松の身分は実は・・・?」ということが丑松自身の耳にも届く頃、「自死か?それとも告白か?」と、悩み苦しんだ末、愛する生徒たちの前で、教壇の板間に突っ伏しながら、自らの出自について告白してしまいます。
始めっからず~っと、暗く、寒く、凍えるような描写が続いた末の、その告白の場面では、丑松の身体に天からの光が降り注ぎ、それまでの我慢の日々、鬱屈した心、その全てを浄化していくような神々しくも美しい描写によって描かれています。
最初の方は、たくさんの注釈記号や、昔言葉による言い回し、長野の方言、漢字熟語の使い方など、読むのが苦しいのですが、勉強になることも多く、読み進めていくうちに慣れてきました。
明治時代の山村農家の苦しい生活ぶりや、汽車の様子、飲み屋(一膳飯屋)や一休茶屋の雑多な中にも人情がある雰囲気など、今では考えられないような場面が描かれており、自分もその時代に溶け込んでいくような気持ちで読めました。
丑松は告白後、師である猪子蓮太郎氏の遺志を受け継ぐべく、解放運動のような活動等にその身を捧げることなく、新天地を求めて出立するところで終わります。
島崎藤村が、何を語りたかったのかわかりませんが、巻末の解説を読むと、この小説の意味がとてもよくわかりますが、『破戒』については、見る角度、立つ位置、解釈する人の人間性によって、大きく評価が分かれる小説かもしれません。
色々な自治体の「人権学習会」、「人権講演会」などでも、度々取り上げられている小説ですし、今を生きる人々に、「わずか100年ほど前に、このような時代があった」ということを認識する為にも読んで欲しい作品です。
★★★3つです。
その結果偽善にみちた社会は丑松を追放し、彼はテキサスをさして旅立つ。
激しい正義感をもって社会問題に対処し、目ざめたものの内面的相剋を描いて近代日本文学の頂点をなす傑作である。
「BOOK」データベースより
『破戒』→戒めを破る・・・。とても重たいタイトルです。
島崎藤村という作家の名前は知っていましたが、実際に作品を読むのは初めてです。
島崎藤村が、1906年(明治39年)に7年の歳月をかけ最初の長編小説を自費出版したとのことですが、これが大絶賛を受けて、自然主義文学の旗手として注目されました。
以降、自然主義文学の到達点『家』、告白文学の最高峰『新生』、歴史小説の白眉『夜明け前』等を次々と発表し、第一級の文豪として名を馳せました。
また、初代日本ペンクラブ会長に就任するなど、後世に語り継がれている作家ですね。
その中でも『破戒』は異彩を放っており、現代ならタブーとされる「差別問題」について切り込んだ小説です。
作中の主人公「瀬川丑松」は、被差別で生まれ、一生懸命勉強して、生徒から慕われる小学校教員になり、表向きは物静かで真面目な青年として生きています。
しかし、その心の内は、厳格な父の教え「身分を隠せ」、「忘れるな」という言葉を戒めとしながらも「これでいいのだろうか?」と悶々とした日々を送っていました。
同じ身分の活動家「猪子蓮太郎」の書物や、その姿勢に感銘を受け続けた丑松は、「この人にだけなら打ち明けてもよいのでは?」と、逡巡し続けますが、不慮の事故によって猪子の命が絶たれ、その鬱屈した思いだけが丑松の身体を蝕んでいきます。
丑松の真面目な仕事ぶりを妬む同僚や、心無い町の人々の噂話によって、「丑松の身分は実は・・・?」ということが丑松自身の耳にも届く頃、「自死か?それとも告白か?」と、悩み苦しんだ末、愛する生徒たちの前で、教壇の板間に突っ伏しながら、自らの出自について告白してしまいます。
始めっからず~っと、暗く、寒く、凍えるような描写が続いた末の、その告白の場面では、丑松の身体に天からの光が降り注ぎ、それまでの我慢の日々、鬱屈した心、その全てを浄化していくような神々しくも美しい描写によって描かれています。
最初の方は、たくさんの注釈記号や、昔言葉による言い回し、長野の方言、漢字熟語の使い方など、読むのが苦しいのですが、勉強になることも多く、読み進めていくうちに慣れてきました。
明治時代の山村農家の苦しい生活ぶりや、汽車の様子、飲み屋(一膳飯屋)や一休茶屋の雑多な中にも人情がある雰囲気など、今では考えられないような場面が描かれており、自分もその時代に溶け込んでいくような気持ちで読めました。
丑松は告白後、師である猪子蓮太郎氏の遺志を受け継ぐべく、解放運動のような活動等にその身を捧げることなく、新天地を求めて出立するところで終わります。
島崎藤村が、何を語りたかったのかわかりませんが、巻末の解説を読むと、この小説の意味がとてもよくわかりますが、『破戒』については、見る角度、立つ位置、解釈する人の人間性によって、大きく評価が分かれる小説かもしれません。
色々な自治体の「人権学習会」、「人権講演会」などでも、度々取り上げられている小説ですし、今を生きる人々に、「わずか100年ほど前に、このような時代があった」ということを認識する為にも読んで欲しい作品です。
★★★3つです。