高岡さんから9月頃まず詩集『蟻』が送られてきた。
(2020年9月17日発行、ジャプラン)
茜色に一匹の蟻が噛みついている夜明け
から始まり、
蟻にとっては
靴底の無意識さえもが殺意の様相を帯びる
というふうに30タイトル全部蟻のこと
掉尾の詩は
、しかるに
、悲劇的なるものへと近接するばかりか
、あらゆる亀裂から這い出し
、恐怖にさえ享楽しつつ
(中略)
、走り
、絶望へ
、眩しいばかりの錯乱の季節へ
、無償性を捧げ
、苦々しく
、匂い高く
、誕生と同時に激しく老いさらばえながら
、まぎれもない一匹の蟻であろうとして
、君は
、
そして、つい最近は句集『凍滝』が送られてきた。
(2020年12月10日発行、ジャプラン)
詩集『蟻』と対になる句集だそうで
「現代世界というテーゼを全面に出した」総数100句の句集。
高岡さんは昨年、句集『剥製師』を上梓したばかり。
かなり攻めてますよね~
鹿児島市在住の演歌の上手い俳人・詩人!
賞は沢山貰ってあるから
列挙するまでもなく~。
1948年生まれ。
追記)ブログ「大井恒行の日日彼是」より引用
『凍滝』についての大井さんの評を参考までに
備忘録的にUPさせていただく。
果して、現代の猥雑を「手づかみ」にできたか否か、髙岡修の自家薬籠中の「蝶」は舞い、「闇」は蹲ってはいる。それでも、想いを述べるには、短歌に比して、いささか手ごわい俳句形式を相手にしている高岡修の焦燥を、手触りとして受けとることはできそうである。
高岡修の骨頂はなんと言っても、俳句的詩性と沈黙の深さを、時代を呼吸しながら抱え込むことにあろう。その意味では、深く人生と年齢を閲した高岡修には、若書きの時代はすでに終わり、深く批評を沈潜させた洞察の季節にあるはずである。「凍滝」の選択にも富澤赤黄男の幻影を見、さらなる困難を思った。
もとより、芭蕉とは歩く道を異にしてきたはずだが、やはり、俳句は言いおおせるところの詩形ではなさそうである。
大井さんは、
高岡修は今や「深く批評を沈潜させた洞察の季節にあるはずである」という。
やはり、俳句形式というものは死ぬまで格闘するものである
ということになろうか。