続・知青の丘

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俳句短歌「We」第16号より俳句エッセイ 「鴇色の画家 ― エゴン・シーレのこと ― 」男波弘志

2023-11-04 20:41:40 | 俳句
 鴇色の画家 ― エゴン・シーレのこと ―  
                                  男波 弘志  
この画家の存在をはっきりと心に刻みつけたのは、ある俳人から送られた絵葉書であった。差出人は、写実という方法論を専らにしていて、常に確かな描写力で堅実な一行詩を創りつづけている人なのだが、何故、エゴン・シーレなのか。  
私は数日の間不思議な心持ちのまま、空の碧を眺めたり、川面に流れている夕日を観たりして過ごしていた。あの絵葉書が雪舟の水墨画であったなら、私の心が何かに奪われたり、失いかけたりはしなかったであろう。  
エゴン・シーレの絵を観るとき、他の画家にはある奥行、空間、線描が完全に取り払われる。そして、ある一つの感情だけが剥き出しになってこちらを凝視するのである。奥行はあるとき平面となり、空間は点になり、線描が闇に溶け出して失くなっている。ここに残るのは色のみである。赤とも朱とも鴇色ともわからぬ色、ラピスラズリともウルトラマリンともわからぬ少女の瞳、これらの顕かな色使いをもって、シーレの色が華やかであるとはどうしても言えないのである。印象派の絵画にあるような外界との交歓が、完全に遮断されているのだ。色は、そこに描かれた裸体、家、子供、樹木等、そのものの内面へ内面へと潜り込んでいく。従って我々は、シーレの残した色を外界の光の中では観ることができない。この色の所有者は外側 
にあるのではなく、モノの内側にあるからである。  
殊に名高い「ほおずきの実のある自画像」だが、シーレは何のためにほおずきを描いたのであろうか。自己を対象を彩る色を持たないシーレが、ほおずきの色に何を託したのであろうか。ほおずきの実を含み鳴らす為には、その実を覆っている朱色の果皮から取り出さねばならないなのだが、それをするためには先ず、果皮の回りを指先で押しながら実の全周を丹念に愛撫するのである。しだいにやわらかくなっていく実を果皮から押し出すとき、極度の緊張を強いられる、ここで拒否されるか、肯定されるかは、果実の機嫌に従はなければならない。強く押し過ぎても中で破れてしまうし、弱く押していても果実は外へ顔を出してくれない。絶妙な指使いと息使いとが相俟って中の実はそろりと出てくるのである。 
シーレが遺した夥しい数の素描画はその多くが裸体画である。しかも十代の彼が最初に衣服を脱がせた女は実の妹であった。その後は師匠クリムトの恋人、家出した少女、町の娼婦、妻自身と、その妻の姉妹、女を言葉巧みに懐柔し、一枚一枚衣服を脱がせることは、ほおずきの実を果皮から取り出す行為そのものであろう。しかもこのほおずきの笛を唇全体をふるわせて含み鳴らすと、印度孔雀に似ただみ声を、だらしなく辺りかまわずに漏らすのである。これは紛れもなく衣服を剥ぎ取られた女達の嗚咽であろう。ここに描かれたほおずきに、日本の原風景の中にある、やわらかな情緒を感じてはならない。むしろ哀しみの底にある女の絶叫をこそ聴くべきであろう。  

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我が家からそんなに遠くない土地持ちさんが
アサギマダラを呼びこもうと、フジバカマを植えて
かつ卵を産むという鬼女ランも植えて
私もその話を聞いて待ちに待っていて
10月中旬に見に行ったら、まだだということだった。
でも、もう、ことしは
11月になっていてフジバカマの花も終ったことだろう。

鬼女ランの好む環境を整えて
春頃植えられたのだが・・・
鬼女ランの白い花
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