続・知青の丘

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菊文研日帰り研修旅行「津波碑探訪」(2024・11・22)

2024-12-07 14:39:09 | 古墳・菊文研
俗にいう「島原大変、肥後迷惑」は、
旅行当日配布資料によると、
寛政4年(1792年)4月1日、
雲仙普賢岳東側の眉山の山体崩壊によって
発生した多量の土石流が有明海に流れ込んだことから起こった。

場所によっては20メートルを超える大津波が、
対岸の天草諸島と熊本平野沿岸部を襲い、
多数の溺死者や流失家屋など生じせしめ大惨事となった。

沿岸部の玉名郡、飽田郡、宇土郡の
溺死者3943人、流失家屋等2192件
(肥後藩特有の行政区分「手永」ごとに調べた数字)
「手永」は、「郡」と「村」の間の行政区分で、
自治的な単位ということだ。
肥後藩全体では5500人ほどの被災者となっている。

有明海沿岸の「津波碑」つまり
溺死者の「津波供養碑」や後世への「津波教訓碑」、
津波の到達を示す「津波境石」、漂着死者を葬った「墓」を
いくつか見て回るのが今回の研修旅行だった。

この4つの分類方法の他に
「一郡一基の塔」と呼ばれる肥後藩が公的に建立したもの
(同年9月に宇土、飽田、玉名に3塔)と
村人たちが寄付を募ったりして建てたものとがある。
多額の寄付をした者には、武士身分が与えられたりしたようだ。

蓮光寺
(熊本市西区河内町船津)
●津波供養碑(同寺門にある)安山岩

●津波教訓碑(1795年乙卯十月)
熊本市西区河内町船津

4面には、その時の様子と
(三面冒頭)「慾にひかれず速ににげ去りし者のみ危き命たすかりて
後日国政乃あつき御惠をこうふりもとのことく舎屋たてならべ産業に復し・・・」と記されている。
もともとは、衆目を集めるため街道沿いにあったが
移築されたそうだ。


●津波留石/津波石(天草市有明町大島子字壱町田)
津波がここまで到達したよ、と
今後の為に置かれた砂岩
標高12メートルの位置にある。

天草諸島の被災死者は、
現地での説明の市職員さんによると
343人だそうだ。
天草にある供養碑は
溺死して漂着した人を葬ったものが多いようだ。

●津波供養碑(一郡一基の塔)
宇土市戸口町、1792年9月


JR三角線網田駅


●扇崎千人塚供養碑(一郡一基の塔)
1792年9月建立
玉名市岱明町扇坂千人塚


一郡一基の塔は安山岩で建立され、
そのほか漂着した死者の御霊を村人が葬ったものには
自然石(砂岩)が多い。

こういう津波碑と呼ばれるものは
当日配布資料によると
県内全部で49基あるようだ。

***
山さけてくだけ飛び散り島若葉 虚子

昭和30年5月14日空路で福岡入り
二日市、柳川から熊本、島原、長崎へ向かう途中で、
この「島原大変」に思いをはせつつ、
5月17日に高浜虚子が詠んだ句。

松田ひろむ編『定本虚子全句』
(2019年第三書館刊、
初版は2018年初版)より


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当日は、県立装飾古墳館を8時半に出発で
自宅を6時45分に出発。
いつもより1~2時間早く起きねばならないので
時間が気になってあまり眠れなかった。
が、文化財に詳しい県職員の方が
同行して説明などしてくださるので
こういう機会は逃したくなくて頑張った。

当日朝、古墳館の大賀ハスの枯れ具合

次は、
12月18・19日の宮崎一泊研修旅行だ!!
地下式横穴墓や、装飾横穴墓、生目古墳群などの見学になっている。

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