前号俳句 ふたり合評
一望監視装置全室姫始めの人形 関 悦史
竹岡一郎 一望監視装置(パノプティコン)下の全ての囚人が、ラブドールによる性欲処理をしつつ、見えぬ監視者を年始から常に意識し、又は全世界の独身者がネットというラブドールによる、以下略。性欲を初めとした快楽全てを「最大多数の最大幸福」という名目で人工の偽造物(デミウル)主(ゴス)が監視・管理する基盤は出来た。
斎藤秀雄 パノプティコンの眼目は、眼差しの在と不在が、権力として等価に機能することを暴いた点。翻って、欲望の不在が欲望と等価だとしたら。眼差しの不在へ、欲望の不在が差し出される。ラブドールを犯す自動人形の自動運動。これは人類の正確なアレゴリーであろう。
芒原首狩り族がやつてくる 松永 みよこ
男波弘志 季語の本情を全く別の方向へ移行させたいのだ
ろうか、雪月花に比肩するほどの長い歴史のある芒を首狩
り族が踏み躙ったところで、何も起こらないであろう。ニ
ホンオオカミの消息を嗅ぐ如き背後の世界がなければ芒原
は沈黙したままだろう。例えば「芒原先住民のくる気配」
早舩煙雨 芒原に潜りこめば返り討ちにも出来る可能性があるが、狩る側としては宗教儀礼的理由や復讐、または報酬の獲得など、大義名分や脅迫観念もある。これはある時代の村の事件の描写とも言えるし、世間を芒原に見立てた“いつものありふれた事柄”とも言えるかもしれない。
炎天や自画像となる古タイヤ 加能 雅臣
阪野基道 自身の風貌が衰えてきたのか、古タイヤの傷や溝が浅くなってきたのが気になるところ。タイヤとしての機能が低下している。機能不全だ。それってオレのことじゃないか、という嘆きももっともだ。炎天と自画像からは、ゴッホのように自壊して行く姿が感じられる。
松永みよこ 子供の頃、空地に乱雑に積み上げられていた古タイヤ。タイヤは地域のゴミとして出すことが難しいため不法投棄されやすく、さらに炎天下に置かれては劣化を加速させる一方である。そんな古タイヤが「自画像となる」とは、はて、どんなお方か気にかかる。
にわとりの眼下彩る桃の花 林 よしこ
早舩煙雨 放し飼いの鶏が少し高い場所から桃の花を見下ろしているのだろうか。鶏の視力は0.07ほどだが、色覚は人間以上とのこと。餌となる虫が増える季節に桃色が滲む光があふれる。しかしその鶏の主観は詠まれていない。だからこそ、鶏の無表情な横顔が美しく鮮明に想起された。
小田桐妙女 矮鶏を飼っていたからか、鶏の句に興味がある。この句は、「鶏の眼下」と「彩る桃の花」の色の取り合わせと思いたい。どちらとも赤系の色(眼下は別な意味かもしれないし、眼の下以外も赤いが)。グラデーションのよう。強い赤から弱い赤なので逆にしてもいい。
かき氷 火種を求めている、全員 早舩 煙雨
阪野基道 誰もが火種を求めている――種火ではなく事件の因子としての火種だ。うだるようにむし暑い真夏の夜に、騒ぎ・騒乱は起きるもの。だが、何も起こらないからかき氷でも食べているのか。若者たちの鬱屈した空虚な日々を描いているようで、倦怠感が滲み出ている。
未補 《火種》とは、なにを指すのか。この場にいる《全員》に起きる可能性のあるドラマチックな出来事のきっかけだろうか。涼を求めて食べるはずの《かき氷》さえなにかしらの《火種》になり得るのだろう。冷えたい身体と、燃えたい心が、一句のなかに同時に存在している。
こまったこまった好きすぎて空蝉になれず 柏原喜久恵
男波弘志 こまったこまった、の措辞からして、作者が空蝉に本当に成りたいと思っているとは、到底受け取れないのである。〈襖しめて空蝉を吹きくらすかな 飯島晴子〉
島氏は決して困ったとも好きだとも言わない。でも心情はよく似ている。一行詩を創る覚悟とは、描写と即物である。
小田桐妙女 「こまったこまった」の繰り返しが嬉しく思っているように感じられる。この空蝉は蛻の空の形容かなとも思うが、遊里の語で、客に揚げられた遊女が手洗いに行くふりをして、他のなじみ客のところに行って逢うこと、またそれによる空床のことをいうらしい。
火に浮かぶ死者は反り身の神遊 斎藤 秀雄
阪野基道 火・死者・反り身、とくれば火葬の趣だけれど、そこに神がいる。神遊びとは、神から受けた新たな魂を体内に導き入れるための踊りだ。死者の反り身には、鎮魂の悶えとエロティシズムが表徴されている。死の恐怖を知った古代人が、神と舞う姿が目に浮かぶようだ。
加能雅臣 人がどの時点から死体と呼ばれるかは医者が決めるが、いつなくなるのかはよく分からない。体を焼き尽くす火葬によってその区切りとしているのか。掲句では、普段は隠されている、火に焼かれる人の振る舞いが再現される。「火」の中で「死者」は生き生きとしている。
逆光てふ生き方もあり枯蓮 島松 岳
男波弘志 逆光ということばは、解ったようで解らない難しいことばである。主にカメラを光源(太陽)に向けて撮影するときに使うらしいが、何故か筆者は刑場に曳かれてゆくイエスキリストの五体を連想した。逆光に浮かびあがる肋骨、妙に綺羅びやかな足首は枯蓮の脛へと繋がっている。
小田桐妙女 逆光の撮影は、人物のポートレートでも使われるし、花や木の葉など撮影すると透過光を美しく表現することができるという。枯蓮もまた美しいだろう。この句の逆光は、光に逆らって生きてきた人物を指すのだろうか?私もまたその一人なので、共感できる一句。
部員らの刎ねし布団はまた飛びぬ 下城 正臣
早舩煙雨 掛け布団を蹴りで飛ばす遊びとも読めるし、寝ている別の部員から掛け布団を引っぺがしている様かもしれない。大鉈の振りのような強い蹴りだとすれば、サッカー、空手、柔道あたりの部員。我関せずで深夜ラジオでも聞いていたら、イヤホンまで刎刑となりそうである。
しまもと莱浮 まずは、元気があってよろしい、と読んでみる。安い布団で雑魚寝をするような集団生活。若さゆえの熱量。しかしやがて、「飛」と重ねられた「刎」が、「首」を伴って現れる。それは最早「跳」と同義ではない。このなかで残ることができる者はわずかなのだ。
国労のビラのある貨車赤のまま 瀬角 龍平
阪野基道 国労の語からは、占領期にあった下山、三鷹、
松川事件などや、労働争議のイメージしかない。赤茶色に錆びた操車場のレール、その片隅にビラが貼られたままの
貨車が放置され、近くにイヌタデの赤がそよいでいる。行き場を失った戦いと理念を表現しているようだ。
斎藤秀雄 戦後に発足した国鉄労働組合は、現在も存続している。《ビラ》で想起するのは、直近の出来事だと、二〇一一年に事実上終結した、いわゆるJR採用闘争。苦々しい結末となったことが、わびしい《赤のまま》によって暗示されている。赤錆びた《貨車》もみえてくる。
狼ヨ我ガ剖キシノチ其ヲ遊ベ 竹岡 一郎
加能雅臣 カタカナを声に出して読んでゆくと、通常の身体感覚が遊離してゆく気がする。「剖」かれるものは何か、獲物か「我」自身か、それとも世界そのものか。「ヨ」と呼びかける「我」の輪郭が定まらない。それは神の身体感覚かもしれない。ここでは「狼」だけが形を保つ。
斎藤秀雄 《狼》をハイエナのように扱う態度がふてぶてしい。群での狩猟に特化した動物など、軽蔑の対象でしかないのだろう。語り手は《其》を《剖》くだけであり、喰らうわけではない。《狼》に対しても、同じようにせよ、《遊ベ》と言うのか。冷徹な嗜虐性が愉快。
ぽっかりと夕焼け恋という所用 竹本 仰
下城正臣 自分は恋をしている。若い日の一本気な恋とはいささか違う。遥かな西の空に日が沈んでいるが、あの夕日のような恋と言っていい。耀きが沈んでいく恋と言えようか。
未補 《恋》をするもしないも、個人の自由。しかし《所用》と言われると、なんとか都合をつけて片付けてしまいたくなる。《恋という所用》が気がかりで、心ここにあらずの語り手の心情が、《ぽっかりと夕焼け》という措辞によく表れている。《夕焼け》の美しさに浸る間もないほど、語り手は今《恋》に忙しい。
やや寒の微熱にふるえる不服従 阪野 基道
早舩煙雨 この微熱、この不服従は、冬が間近の寒さのせいか、細菌・ウィルスか、それとも怒りのせいか。身体の震えが、より熱を持つべきだという本能を示している。震えるというのは弱さのようでもあるが、不服従の象徴でもあり、内的な強さの表出でもあるのかと思わされた。
加能雅臣 「ふるえる」の主体は「不服従」の者達だろう。極寒の高熱ならぬ「やや寒の微熱」とは、聊かやわな者達かもしれない。「ふるえる不服従」とひとつづきに読むことも出来るので、「不服従」の姿勢自体が揺らいでいる印象もある。立場の弱い者達の必死の抵抗が健気です。
幸せな猫の寝顔の布団かな 宮中 康雄
松永みよこ 寒い冬も猫の寝顔が隣にあれば「幸せ」だろうとうっとりした。ぬくぬくした布団の感触まで伝わってくるよう。俳句に幸せを取り入れるのは案外難しいが、堂々たる詠みぶりで、「猫の寝顔」とナ行のリズムもよく詠嘆の「かな」でしめているところも心憎い。
しまもと莱浮 「の」を重ねることによって、幸せも布団もまた、バウムクーヘンのように重ねられてゆく。ひょっとしたら潜り込んできた猫も。さてと、いつまでも浸っている訳にはいくまい。凍てつく世界へ今日も踏み出そう。
あまのはら鍋焼うどんの気になりぬ 森 さかえ
しまもと莱浮 東天には、阿倍仲麻呂が再び拝むことの叶わなかった寒の月が出ている。しかし、こうも冷えるとあっては、鍋焼きに浮かんだ卵に見えたとて仕方がないではないか。なにしろ春日餺飥の地なのである。それに、小麦食文化は遣唐使によってもたらされたとも聞く。
小田桐妙女 あまのはらと鍋焼きうどんの繋がりは?気になっているのは現身の我ら?それとも天上界にいる神々が我々の食べる鍋焼きうどんが気になっている?鍋焼きうどんの中に人間と神々が通じるトンネルが隠されているのかもしれない。食べたくなってきた。
坐して魚立ちて人間鳥雲に 森 誠
加能雅臣 「坐して」たまたま「魚」になったのか、それとも「坐」すとき必ず「魚」となるのか。前者がやがて後者となって、「坐」すこと自体が疎ましくなった「人間」はやがて棒のように「立」つ。かと言って「鳥」になりたい訳でもなさそうだ。高所恐怖症ってこういう感じかもしれない。
斎藤秀雄 《魚》と《人間》の間の、それも可逆的な変態というものを、どこかで見た。あれは前生でのことだったか。しかし《坐》す《魚》に出会うのは初めてのことだ。奇妙。ここで《鳥》は《雲に》入りつつ成るのだろう。《坐》す《魚》に比して自然に思えるのも不思議。
常識は姿を変えて花柊 内野 多恵子
未補 《花柊》の葉には、一般的にギザギザの棘があるというイメージがある。しかし、柊の棘は、老木になると消えてしまう。まさに《常識》とされることは、時間が経つと《姿を変え》るように。だが、老いて棘をなくしても《花柊》の白くしめやかな美しさは、変わることがない。
阪野基道 人間は常識によって生き、生かされているのがこの世だ。しかしこっそりと反常識を標榜して姿を変えるのも一考。柊の葉のように棘で身を纏ってもよい。結構そのほうが生きやすい人もいる。常識を反転させ、立ち位置を変えれば、予測不可能な生を楽しめるのだ。
ボリュームは音楽変える地虫鳴く 江良 修
下城正臣 ボリュームがより高くなっても、より低くなっても、それなりにその曲は成長し、曲の性格を変えていく。この曲は、地虫鳴く時期だから、より静かな落ち着いた曲へ変わって、なじんでいる。
斎藤秀雄 音源を再生する機器が同じでも、音量を変化させると、音楽が異なって聴こえることは、日常的に経験される不思議な事態のひとつだ。本作では《地虫鳴く》のが聴こえるほどに、音量を下げてみたのではないだろうか。かすかな音楽が、秋であることに気づかせた。
熟れすぎた桃は拇ごと啜る 小田 桐妙女
竹岡一郎 熟れすぎていれば手と桃は一体化し、分けて啜れない。五本の指にはそれぞれ意識下の意味があり、親指は目上に位置する者への尊敬を表わす。そして「拇」という字を用いるからには、その対象は母であり、母と桃の一体化を思う。啜る事により桃と己と母は一体となる。黄泉平坂の桃か。
松永みよこ 危険で妖しい桃の登場にどぎまぎさせられる。これから一体何が起こるのかと目を凝らせば、なんと拇(おやゆび)ごと啜っているではないか。桃を啜る行為はそれだけでエロティックだが、それが「拇(おやゆび)」といえば、男性を暗示しているのだろう、いよいよつやめいてくる。
殊更に鯉の髭ある十二月 男波 弘志
松永みよこ 鯉のぼりにも描かれている太い「鯉の髭」。髭は感覚器官で、餌をみつけたり敵が来たかを知るためのもので人間でいえば手や鼻、舌の役割を兼ねている。そして髭があるとなぜか威厳や貫禄を感じさせる。しめくくりの月のラスボスとしての髭の鯉ではないだろうか。
未補 寒くなって、動きの鈍くなった《鯉》の姿をイメージした。ゆったり泳ぐ鯉ならば、美しい模様や鱗の並びに目を奪われる。しかし語り手は、じっと動かない《鯉》を眺めている。すると、今まで気に留めなかった《髭》が《殊更》に目立って見える。新たな《鯉》の鑑賞点を見つけた瞬間の句。
身に覚えないまま首は晒される しまもと 莱浮
下城正臣 昔はこういう刑があっただろう。キリスト者の処刑のような全く封建的な罰もあった。現代はそこまでの実刑には至らないが、職場や集団の中で、根拠なく指名されて罪を問われることもあろう。名誉回復に頑張り抜くのみだ。
竹岡一郎 一つには冤罪で打ち首になった者、もう一つは現代のネットにおける炎上か。晒すという行為には民衆の眼が不可欠で、それは権力を民衆に見せつける効能がある。現在の権力とは、実は不特定の民衆でもあるか。誰もが自らは隠れたまま、晒し首を無作為に実行できる、この状況への皮肉。
倒懸にパンストの夢破れない 加藤 知子
加能雅臣 「倒懸」とは地獄で死者が逆さに吊るされること。そこでは「パンスト」も「夢」も簡単に破られてしまう。しかし「パンストの夢」は「破れない」と言う。これを「パンスト」が見る「夢」と取れば、そこに逃げ道があるのかもしれない。「倒懸」は形而上では季語だと思う。
松永みよこ 倒懸の語が聞きなれなかったが、手足をしばって逆さづりにすること、非常な困難、苦痛のたとえであるという。「パンストの夢破れない」の言葉から強い意思の宿りを感じる。それは作者の思いであり、パンスト自身の思いでもある。強さの中にある美しさを思った。
お隣の柵に留まっているこの虫の名前は?
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昨日、やっと現代俳句協会から回答が届いた。
なんと、数句引っかかっていた!
事務局で協議して、
2句についてNGとした。
たった17音のことだし類想類句は避けられない、
二重投句もついうっかりがあるだろう
しかし、気を付けてもらいたいと切に思う。
選者に理解を得て、選び直ししてもらうために
連絡をとる。
メールが可能な人たちとは楽にスムーズに連絡が取れるが
電話の人達とは、意思疎通が難しかったり
連絡がつかなかったり・・・
そして、また
集計をやり直しして
印刷原稿も部分的にやり直ししないといけない・・・
この俳句大会のために
どれだけ多くの時間を使っただろうか。
最後の御奉公にしたい。
これだけでも大変な思いをするのに
現代俳句協会の全国俳句大会事務局は
もっともっともっと大変だろう。
裏方さんたち、
お疲れ様です~
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