かくまでももみずれるとは荒蝦夷(あらえみし) 飯島晴子
『月光の象番 飯島晴子の世界』(山地春眠子著)によれば、この晴子句の「もみずれる」には文法上の問題があり、この句の発表後、大分の「鷹」会員で高校の国語教師の女性が晴子に尋ねたことがあったという。
以下引用
<「もみづ」は古典文法ではダ行上二段活用で、未然形・連用形「ぢ」、終止形「づ」、連体形「づる」、已然形「づれ」、命令形「ぢよ」活用するので、「づれる」という活用形はない。また、已然形「もみづれ」に「る」(完了の助動詞「り」の連体形)が接続することはない。「り」は四段活用とサ変にしか接続しないので。従って、「もみずれる」は文法上誤りである。>と。
これに対して、晴子は、次の句をひきあいに出して<葉書二枚に細字でびっしりと>返答したそうだ。
樺太の天ぞ垂れたり鰊群来 山口誓子
<・・・・文法通り「垂れたる」としますと、切れもわるくなりますし、垂れている天の裾が捲き上ってしまいます。かかる名句と拙句を比べるのは気がひけますが、基本の理由は同じかと存じます。つまり、文法専門家以外には文法の間違いが気にならず、間違うことによってかえって詩的効果を上げている場合、文法の間違いは許容されてよいのではないかということでございます。
拙句も『もみづれる』と重たいラ行音を二つ重ねることによって、ねじくれたように紅葉を強烈に塗り上げる効果を得ていると存じます。『もみぢせる』ではサラサラと意味だけに終ってしまいます。
(中略)まず文法があって言語があるのではなく、言語現象があってあとから文法ができているのだと思います。話は大きくなりますが、詩人の理想は、既成の文法を訂正さすような言語構造の詩を書くことではないかと存じます。
そうは申しましても、私は、文法を決して軽視するものではなく・・・(後略)>
大変示唆深い言葉だと思います。
晴子の優れた言語感覚が言わせているのだと思いました。
雨上がり(新葉が紅くなるカエデ)
芸術は文学は理屈ではない。
この『月光の象番』を半分位読んできて、
ここが一番、晴子に共感できるところ。
これも雨上がりのホタルブクロ
コメントありがとうございます!
きっとそういうことなのではないかと思います。
調べは大事ですよね。
話しのレベルが高くて場違いなコメントは恥ずかしいですが、歌謡曲の歌詞などは文法も用法も日本語離れしてますね。
でも、歌になると一文字も動かせないのは完成されたものだから
と思っています。
次元が違いましたかね?