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月に行く漱石妻を忘れたり(夏目漱石)

2012-11-21 20:08:19 | 俳句
11月20日付け地元紙の「新生面」によれば、
この句は1897年(明治30)の作で、
前書きに「妻を遺して独り肥後に下る」があるという。

この句について、
歌人伊藤一彦は
「寂しいような、おかしみのようなものを感じる。
『忘れたり』に心の二面性が出ている」という。
前書きから「月」は熊本だと容易に察しがつくが、
作家の半藤一利は「東京と違って月のより美しい熊本に行く、
と解してもいいかもしれない」と。

で、
うちのにどう思うかときくと、
「妻は太陽で、月は恋人か愛人のたとえ。
月は『草枕』の那美のモデルの前田卓(つな)のことじゃないかなあ・・」

ふうーん。
なるほど。
めずらしく冴えているかも!

で、
ちょっと調べてみた。

漱石は1896年(明治29)4月に熊本の第五高等学校に赴任し、
6月に鏡子と結婚。
結婚生活は、鏡子のヒステリーや流産、投身自殺未遂などで恵まれず~。

その間の、妻の流産後の養生で鎌倉に遺してのこの句となる。

一方、前田卓は、
事実婚をしていた男と別れ、
1896年(明治29)に
父で衆議院議員だった前田案山子のいる小天村に戻り、旅館経営。
漱石は、このころ、小川信二郎とともにこの旅館を何度か訪れ、
のちの「草枕」の着想を得ている。

前田卓は、
「草枕」に描かれたような女性ではなく、
豪胆で自由闊達な女性だったようだ。

のちに、妹ツチ(宮崎滔天夫人)に請われて上京し、
孫文や黄興らの「中国同盟会」の機関紙「民報」を発行する民報社で働き、
中国留学生の支援をし慕われていたという。

そうであれば、漱石に誤解されていたというのもうなづける。
というか、当然のことながらの脚色だろ!?

話はそれたが、
この句の「月」は心のなかの恋人と読めば、
漱石にもそういう人間味があったのかと嬉しくなる。
漱石が好きになれる。

ずっと敬遠していた漱石だったが、
最近、次の句を知って興味が湧いていたところだった。

木瓜咲くや漱石拙を守るべく  漱石

鎌研坂公園にこの句碑がある。







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