散歩者goo 

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衝撃を受けた戦争証言

2011年12月03日 22時21分54秒 | 注目ニュース・短感(ニュースおよび短評・感想)
NHKスペシャル 「証言記録 日本人の戦争 第1回 アジア 民衆に包囲された戦場」のフィリピンでの日本軍の虐殺の実態は衝撃を受けた。
なんとなく、戦場でそのようなことが一部にあるかもしれないと思っていたが、証言は私の想像をはるかに超えていた。
日本軍の中国戦線や太平洋戦争では、戦争という異常な事態を差し引いても、必要以上の無用な残虐行為が行われたのだろう。

こうした実態を明らかにすることは、今後の我々の歴史を見つめる為にも必要なことだ。
一部の自虐史観を主張する人は、こうした現実を見つめることが必要だ。
人間、現実を直視し、反省することで進化する。

あえて、日本人にとって触れたくない、難しい深刻な事実を白日の下にさらけ出したNHKの姿勢に敬意を表したい。
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政治活動と交友関係

2011年12月03日 21時30分37秒 | 政治・経済・社会・法律・文化
ニュースで、共産党が民主党政権と全面対決を打ち出したと報道されていた。
その理由は、「民主党政権は、震災や原発事故の対応でやるべきことを怠ったばかりか、マニフェストで掲げた国民との約束も破り、政権交代に託した期待は裏切られた」(NHKニュースより)ということらしい。

私も結構政治経済に関心を持っていて、批判的意見もブログに書いたりしている。
そのようなこともあってか、私が共産党のシンパのように思っている人がいるかもしれないが、基本的には共産主義を支持していないが、頭から否定するつもりも無い。

私の、懇意にしていた知人には、創価学会の人もいれば、共産党の人もいる。
右翼や左翼過激派の政治主張を持っている人や、熱心な新興宗教の支持者とは、交流を避けるようにしているが、政治的には自民党から共産党までの主張の強い人でも、親しくなるかは別にして、友達になることは問題ない。
他人は、どう見ているか知らないが、自分自身では中道リベラルと思っていて、政治団体系の組織には入っていない。

政治団体や宗教団体からのお誘いは多いが、今まで誘われて入ったことは無い。
山歩きが好きなので、一度楽しそうな名前の山の会に入会して、数回本格的登山を兼ねてその会の講習にも参加した。
会の人達も親切で、雰囲気も良かった。
ところが、室内ミーティングの時に、とある政党の人が皆に紹介されて皆が手を叩いているのを見て、失望し、その日以来その会には、行かなくなった。

私の中学、高校時代の親友Aとは、20歳過ぎまで交流があったが、彼は当時国立の夜間大学に通い始め交流が薄くなった。
そんなある日、突然彼が私の家に来た。
顔を合わせたとき、飲みながら話でもしようと誘ったが、忙しくて他にも行くところがあるという。
彼は用件を切り出し、とある政党の候補者を支持してくれという。
私が、怒って断るとすぐに帰った。
そのとき、高校まで全く政治的に無関心だった男がなぜ政治活動に熱心になったのか分らなかった。
同時に、彼に裏切られた気がした。

この場合に近いことが、私がギャラリーを経営していた時代にも起きた。
ギャラリー時代のことは、人数も多く組織的なように感じた。
そういった、客観的状況証拠も存在するが、親しくしていた人達に去られ、裏切られたと思っていた。

その頃、複数の人から、政治はすべてに優先するという発言を聞いた。
あるとき、ほぼ同じ文言を多くの人が口にし始めるのを、目の当たりにしたこともあり、不気味さを感じたこともあった。(想像であるが、党の機関紙やミーティングで意思統一を図ったのではないかと思っている。)
本人たちは、そのことに気付いていなかったようだが、私は全体主義の時代と同じではないかと思った。
何より芸術の自由を希求する芸術家及、びそれにかかわる人ほど、自由に敏感であって欲しいと思うのである。
しかし、その居心地のいい村社会に入ると、周囲が見えなくなるようだ。

この人間社会は、多様な考え、多様な人がいて面白いのだ。
それぞれの考えを主張し合うことは正しい。
ただ、相手の話を聞かず全否定するのはよくない。
その極限が、民族主義による戦争や宗教戦争であり、過去に無数の悲劇を起こしている。

現代のように価値観が多様化しているときこそ、あなたの話(価値観と論理構成)は理解できるが、私はこう思う(価値観と論理構成)という態度で、相手を認めつつ論争すべきである。
更に言えば、価値観が違うから付き合わないという態度では、世の中険悪になるだけである。

人間は多面的存在である。
多面的な事柄の本質は、価値観とかそのパラダイムであろう。
価値観に関して言えばいくらでも上げられる。
政治・思想・宗教といった物だけではない、実はそれ以上に大事にしている物は、人によって違うが、無数にあるのではないだろうか。
具体的に言うと、友情、家族、お金、仕事、グルメ、酒、タバコ、性、恋愛、笑い、スポーツ、芸術、・・・・
更に、それぞれ好き嫌いとか、その中でも細かく分かれる。
自分の墓に政治スローガンを書く人はいないだろう。(自分の信念や愛した物を書くのではないだろうか。)

同じ政党でも又宗教でも、必ずいろんな派閥ができることは、価値観が多様である表れである。
政党では、自民党は多くの人が新政党を作ってきたし、民主党も実態は分裂してもおかしくない状態だ。
それでも、ただ一つの価値観だけで、人間すべてを判断しようとする人が多いように思う。
同じ政治的価値観や思想を持っていても、時とともに変化し多様化するのだ。


政治や政治思想は、人間社会や人間生活を主体に考えれば、社会を円滑に廻す為の道具に過ぎないのだ。
この社会は、中世以降先人たちが築きあげてきた人間開放、即ち基本的人権で守られる人間生活が出来る社会が一番大切なことであって、政治経済はそのための手段である。
政治経済は人間の意志でいかようにも変更できるし、人類は歴史的に様々な、政治体制・経済制度を作り出した。

そこのところを履き違え主客転倒させることは、こっけいな話であり、同時に社会に悲劇を招く。
その意味で、政治や思想・宗教・芸術的傾向や関心感性・その他すべての価値観の多様性を認め合うことが大切であると思う。
このような観点に立てば、政治・思想と交友関係は別物として捉えることが出来るのではないだろうか。
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加齢と体力(私の運動履歴)

2011年12月03日 12時19分04秒 | 私的医療・健康・運動・保険環境(ポリオ関連含む)
20代の頃、大阪市教育委員会が毎年立ち上げている、同年齢の集まる青年会に入った。
そこでは、先輩たちがリードし、ハイキングやフォークダンスをし、地域の催しものにも参加した。
その後先輩たちの勧めでフォークダンスサークル(すずかけフォークダンスクラブ)に入った。
そこは、本格的に世界各地の民族音楽の踊りを楽しんでいた。
イスラエルやロシアや、スカンジナビアの曲でステップが複雑で、難しい曲や、体力の要る曲が多くあった。
毎週の例会後は、冬でも汗をかいていた。
フォークダンスサークルは、区民会館で毎週月曜日夜に開かれていたが、会社の仕事が忙しくなり残業が多くなって、数年で辞めた。

その頃同時に、体を動かす意味もかねて、当時はやった古寺巡礼を始めた。
又、青年会でのハイキングで、ハイキングの楽しみを知り、それがきっかけで一人でハイキングコースを歩くようになり、更にハイキングから進んで山歩きに興味を持ち、装備も整え本も読んで研究し、本格的に山歩きをするようになった。
山歩きは、一人でテントを持って比良山にも行ったりしたが、30代後半ばに仕事が忙しくなるまで続いた。

その後、スポーツには縁が無かったが、30代後半に山歩きは、翌日にも疲れが残る場合が多く、準備にも時間がとられるので、簡単に運動不足解消の為、少しの期間ジムに通ったこともあった。

40歳になりシカゴの英語学校に行った時、大学の芝生の運動場の美しさが気に入り、そこで自己流のジョギングを始めた、シカゴ市内のイリノイ大学付属の英語に転校してからは、たまに大学のジムに行く程度だった。
友人と、スカッシュをして遊んだりしたことが多かった。

帰国後はたまに、近くの公園でジョギングをした。
十三で民芸雑貨の店をしていた頃は、店を終えると淀川の土手を気持ちよく走った。
その後、西天満で貸しギャラリーをしていた時は、時間的余裕が無く、運動はほとんどしなかった。

貸しギャラリーが経営破たんしてからは、生活に追われ運動どころではなかった。
それでもたまに、思い出したように、近くの公園を走ったりしていた。

50代半ばになって、自分の身体能力の衰えに気付き始め、気にするようになり、公園でのランニングに励むようになった。
ところが寒い冬の日に、短距離のメニューと3-5km程度の長距離メニューを自己流でやっていた時、50mほどの距離を、いつものように全速力で走って足のふくらはぎの筋肉を痛めた。

当時、お金も無かったので、医者や接骨院には行かなかった。
痛みが無くなるのに半年ほどかかった。
どうやら、肉離れのようだった。
それまでは、自慢のふくらはぎだったが、今でも左足と右足のふくらはぎの形が少し違う。

その件があってから、肉離れも何とか治ったので、きっちりとはじめから科学的に体の機能を維持管理するため公園横にある市営スポーツセンターを利用することにした。2005年1月のことだった。
その頃のトレーニングマシンが大きく入れ替わったので、比較しにくいが筋力や持久力が大きく向上したことは間違いない。

ジム入会当時、体が大きく右に傾いていて、走っている時もは自分では気付かなかったが、インストラクターから指摘された。
無論今は完全にクリアしている。

2005年1月の記録では時速6.7kmで20分間走り、脈拍は126だった。
今では多分時速9kmで20分間走っても脈拍は同程度だろうと思っている。
多分それ以上に、走った後の回復が早くなっていると感じている。
2005年当時は走った後は、精魂尽き果てた状態で寝るまで強い疲労感があったが、今では筋肉の疲労感があることもあるが、全身の疲労感は余り感じない。

今後も出来る範囲で、運動を続け、身体能力を維持し出来れば強化したいと思う。

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