散歩者goo 

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食材の買出しでミスをした。

2011年12月16日 18時32分15秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
チョコレートを購入しようと、スーパーに寄った。
お目当ての安いブロックのチョコレートは無かった。
仕方なく何かついでに買う物はないかスーパーを徘徊した。

ヨーグルト450gや味醂や醤油が破格の値段で出ていたので迷わず購入した。
味醂や醤油は、料理のだし汁として必ず毎日使っているし、賞味期限も長いので本当は1ダースまとめ買いしても問題ないが置く場所が無い。
ヨーグルトは、経験的に少しぐらい賞味期限過ぎても問題ない。
(かえってヨーグルト菌が増殖していいのではないかと思っている。)

更に見て廻ると、野菜売り場にニンジンの傷物があった。
多少ニンジンの表面が黒くなったところもある。
このような傷物も今までたくさん購入している。
冷凍あたりのニンジンは、多少腐りやすいが、大体ニンジンの先端部分から腐り始める。
そのときは腐った部分を切って残りを使う。
傷物を調理しても、味も食感も異常ない。
今回のニンジンの特価品は、5本で100円とある。
確か冷蔵庫にはニンジンの余りが無かったことを、朝の料理の時に確認していた。

当然5本100円のニンジンを購入した。
先ほど家に戻り整理しているたと、炊事場の棚の上に立派なニンジンが3本あるではないか!
そのニンジンを見て、即その時の光景が頭に浮かんだ。

昨日別のスーパーでバラのニンジンを3本選んで購入した。
家に帰り、3本のニンジンを冷蔵庫に入れようとしたとき、これから寒くなるので、冷蔵庫で低温の為に痛傷みを早くするより、棚の上に置いておく方が良いと判断し、ニンジンを棚の上に置いたのだ。

きょうスーパーに行ったとき、そのことをすっかり忘れ安さにつられニンジン5本を新たに購入したのだ。
これでニンジンは計8本になってしまった。
馬ではあるまいし、とても食べきれない。

とりあえず、適当な大きさに分割し、電子レンジで加熱して温野菜にした上で、冷凍保存し、必要に応じ小出しに使うようにしょうと思う。


スーパーで買物をするときには、いつも携帯電話のメモを利用する。
食材の買物に行く前に、携帯電話のスケジュールの詳細を呼び出し、そこにメモの食材リストを呼び出して貼り付ける。
メモのリストは文字数の制限があるので2-4文字のローマ字にしている。例パン:pn 牛乳:ml
冷蔵庫の食材在庫と、詳細ページに貼り付けたメモの食材リストを一つずつ確認し、在庫のある食材を食材リストから消去すると、リストに残った食材は冷蔵庫に在庫が無い食材なので、自動的に買物リストが出来る。

今日は、予定外の買物だったので、携帯は食材リストの準備もしていないし、携帯も持っていなかったので、こんなハプニングが起きてしまった。

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カリスマ政治と文化

2011年12月16日 13時03分42秒 | 政治・経済・社会・法律・文化
カリスマ的指導者と見られる人は多い。
私は、橋下氏 小沢氏 渡辺氏 プーチン氏は、(小泉氏)それに該当するのではないかと思っている。
この人達について言動や実績や周囲の評価を調べたこともなく、単に報道から得た情報からの勝手な判断で、推測の域を出ないことを断っておく。

そもそもカリスマとは何だろう。
大体理解しているが念のためウイキペディアの「カリスマ」の項に記載されている要点を掲載しておく。

「ヴェーバーは何ゆえに支配は正当化されうるのかという観点から、カリスマ的支配を合法的および伝統的支配とともに支配の三類型として構想した。 カリスマ的支配とは「特定の人物の非日常的な能力に対する信仰」によって成立している支配で、その正当性は、カリスマ的な人物の「呪術力に対する信仰、あるいは啓示力や英雄性に対する崇拝」に基づく[11]。そして「これらの信仰の源は、奇跡あるいは勝利および他の成功によって、すなわち、信従者へ福祉をもたらすことによって、そのカリスマ的な能力を実証することにある」。

人は繰り返す日常に退屈しやすく、絶えず非日常へと誘われる性質を持っている。そしてカリスマは非日常への誘いとなる。故にカリスマ的人物(新たな「恋愛」対象者)は、非日常的である方が好都合である。非日常世界を求める者にとっては、珍奇で周囲から変わり者と思われる人物の方が魅力的に映り、端正な人物の言葉は「正しい」だけで魅力を感じない。そしてカリスマに引き寄せられた者は、自己と向き合うことを避け、検証能力を持たなくなる(カリスマに自己を委ねる)。カリスマが批判された場合は、それをカリスマの聖性の証明と受け取る。この時点で日常的判断は手放され、カリスマ的人物の意向のまま徹底して信者は追従していくこととなる。」

ところで、カリスマ的指導力を持っている政治経済人は、その前段階として、自らの地位確立のための壮絶な戦いに勝利して、そのカリスマ性を得ていく場合が多いのではないかと思う。

報道では、渡辺氏も社内でのし上がる過程で、ライバルに打ち勝ってきたという。
それ以外のカリスマ的といわれる人も、様々な内部抗争や障害物と対決し勝利して実力を認めさせ、それを契機に雪崩を打ってカリスマ指導者に無条件で服従するという構造に、近い物を持っているのではないかと思っている。

そして、古今東西のカリスマといわれる人は、雄弁である。
先ずカリスマには強い自己主張があって、その主張を実行し勝利することで、それを見守っていた人に非日常的な能力に英雄性を感じさせ引き寄せられ、周囲の人達も崇拝し検証能力を失い無条件で追従していく構造であるように見える。

政治家が、カリスマ性で人気が出た場合、報道も勝ち馬に乗るべくもてはやし、夢をふくらませ、報道を見た人達は更にその影響で、カリスマ性を信じ無批判になる。
カリスマに距離を置いていた人も、報道の影響で引かれ始める、という構造が成り立つ可能性もある。

カリスマと呼ばれる人は強い人事権や、巧みな人心掌握術や、選挙戦術を持った人が多い。
カリスマになっていく過程で、強い人事権や人心掌握術を駆使し、腹心の部下や支持者を動員して批判的なものを排除し、日和見的な者を協力者にして戦略的に勢力の拡大をはかり、勢力が拡大すれば残りの者は雪崩を打って服従すると想像される。
彼らが戦う時は、目標を絞り敵にし、敵味方をはっきりさせて戦い、一般の人達に単純化した言葉で支持を求め支持者を増やす。(小泉旋風でもおなじみだ)

プーチン氏のように、カリスマ的に動いている時は、カリスマ的指導者に率いられ政治は力強く動く。
しかし小泉政権のように、後から見れば格差社会の出発点でもあり、カリスマ的支持があったために充分批判検証にさらされることなく政治が動いた結果、疑問の残る施策が多くなったことも教訓としたい。
このことは、カリスマの説明にもあるように、民主的でなく皆イエスマン的従属者となり、問題点が指摘されにくくなる事が原因だろう。

橋下新市長は、既に多くの信奉者がいて、多くのマスコミが好意的に報道し、既に充分カリスマ性を帯びている。
しかし、以前にも言った様に大阪府知事のときの実績はどうだったのだろう。
大阪経済も他府県と比べて伸びているわけではない。
大阪府に産業やアミューズメントで、世界の注目が集まったりしているわけではない。
府庁移転で大阪市から高層ビルを購入したが、この経緯や効率性に関しても話題にも上らない・
水道事業は、本当に二重行政だったのだろうか。水道の府市統合事業が決裂した原因と、これから市水道局が中心になって統合するという中身はどうなのだろう。
大都市の上下水道と、郊外や山間部の上下水道のあり方に効率性を含め違いがあるだろう。
人口密度の低いところに上水道管を敷設すれば、効率が下がるのは誰が見ても明らかだ。
圧倒的支持に隠れてこのような橋下氏の実績の検証は、どこもしていない。
反省なきところに、進歩は無いし同じように、勢いに乗ってイケイケどんどんが繰りかえされる可能性がある。
今やほとんどの政党や、マスコミが橋下新市長になびいている現状では、こうした検証話も無駄であろうが・・。

経済政策中心の政策から見ると、お荷物になる文化行政に関しても、いろいろ論点はある。

近代美術館構想をランクアップして、府市共同で世界に誇れる芸術の総合施設を建設アイデアは、芸術に関心の低い大阪の風土を改める意味でも注目できるが、予算的な問題をどのようにクリアするのだろうか。

大阪府が、大フィルへの補助をきったように、大阪市でもその可能性があるという。
確かに補助金が一つの音楽団体に集中しているのは問題だが、9月に一週間開かれる大阪クラシックを見たことがあるのだろうか。
どの会場も人が一杯で、熱気にあふれていて、普段クラシックに接したことの無いと見られる人も多く聴きに来ていた。
クラシックを一般の人に知ってもらう、クラシックを子供のために聴きにいけないお母さんに子連れで来て貰うというのは、成功している。
この催しは、すっかり市民に定着しているすばらしい音楽祭なのだ。

自治体の首長が、恣意的に文化行政をするのもいいが、支持していないものを潰すという感覚で、文化の芽を摘み取ることだけは止めてほしいと願う。

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日記111215(買物・水泳・読書)

2011年12月16日 10時23分40秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日は、朝から一昨日の平凡な一日をどのようにまとめるか思案した。
何の変化も無い一日が今後も続くだろう。
しかし、自分の感性が鈍感になって何の変化が無いように見えているのかもしれない。

逆に、毎朝日記に近いこのブログを書き、何気ない日々の生活を掘り起こせば良いのではないかと思った。
そうすることで、様々な感性を鍛えたり、ものの見方を変えることで、平凡と思われた生活が輝きだすかも知れない。
とにかく、動かない限り日常に何の変化も起きない。

しかし、事を起こし(企画したり営業したり創作したり・・)動かなくても、単にじっくりと実際の物を見るだけで、そこから平凡な日常を見直し、様々な面白さを引き出したり、価値を見出すことについて書かれた本を読んだことがあるのに気付いた。
「路上観察学入門」だ。
ただ、この本は筑摩書房が仕掛けた物であり、先ず遊び心を前提にして、収集癖とか骨董趣味的要素も含んでいるかもしれないが、退屈で途中までしか読んでいない。

しかし、こうした見方考え方は、平凡な日々を面白くするのに参考になる。
日々何気ない物から、新しい見え方を感じたりした内容をブログに綴り、そのプロセスやその他日常の行動の記録を日記に残せばよいのだろうと思いついた。
以上の思いつきはいいけれど、具体的にはどうするのか、これから日々朝のブログを書き、前日のことを思い浮かべながら書いていくうち、だんだんと形が整うのではないかと思うが、やってみるしかない。


さて昨日は、朝から先に述べた日常の中からの新しい発見もなく、とにかくブログを書く事を強迫観念のように自分の目標にしていて、ブログを書こうとあせっていたが、なかなかブログに書くべき内容が見つからなかった。
今日も見つからないので、冒頭自問自答の話が長々と続いたが、明日からは必要でない自問自答はなくする予定だ。

昨日は、夕方になって冷蔵庫の食材をチェックし買出しに、近くのスーパーSに出かけた。
その後、年金の入金の確認と兼ねて銀行へお金を引き出しにいった。
帰りに、ファストフーズでコーヒーを飲みながら、岩波新書を読む。
4-6世紀にかけての巨大古墳の移動について、記紀に書かれた内容と、考古学の最新情報と、最新学説を交えながらの解釈は説得力があった。
7時前にファストフーズを出て、家に帰り準備して、プールに向った。

プールでは、顔見知りが泳いでいた。
一昨日ジムで運動しているので、今日は軽く力をいれず長距離を泳ぐつもりだったが、他人が懸命に泳ぐのを見ているうちに、いつものように時計でラップを測りながら泳ぎだした。
50mだと55秒で泳げたようだ。 バタフライはしなかった。
トータルの泳いだ距離は500m程度だろう。

それでも、水泳を終えてジャグジーに浸かっているときは、腕や胸の筋肉がだるかった。
まだまだ腕の持久力のトレーニングが足らないようだ。
持久力をつけるには(遅筋を鍛える)、日々少しずつ長期間トレーニングを重ねて、持久力をつけるしか方法は無さそうだ。
今日も多少疲労が残っているようで時々、このブログを打っていても、眠気を催し、考えが散漫になる。
そのため今日もブログが、かなり冗長になった。
次回からは短くしたい。
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12月15日(木)のつぶやき

2011年12月16日 01時45分44秒 | 携帯メール投稿・つぶやき twitter
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初冬の何気ない枯れかけの植物達は、あるものは命を終え、あるものは来春への準備をします。そんな名もない草木に、それぞれの物語があります。 http://t.co/Os1wPGFL
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