今日はクリスマスイブだ。
街ではクリスマスケーキや、プレゼントが買われ、TVやラジオでもクリスマスを演出する。
私は、クリスチャンではないが、バロック音楽ではバッハの曲(例:マタイ受難曲)を始め多くの宗教曲があるので、音楽を深く理解する為、聖書を読んだこともあり、その他クリスマス関連の曲もいろいろある。
ある程度、クリスマスに関しては、理解はしている。
しかし、正月やお盆のように、私の生活に定着してないのでクリスマスはなんとなくしっくり来ない。
一時、クリスマスの本物の様子を見ようと、パイプオルガンのあるキリスト教の教会のクリスマス礼拝に参加したこともあった。
信徒の方々の熱心な祈りの態度を見て、尊敬の念を持った。
しかし、世間でのクリスマスの捉え方は違っていて、商業主義的なのだ。
私は、世間での商業主義的クリスマスにもなじめないし、かといって信徒になる気もない。
ところが、商業主義的クリスマスは、私のような独居人には、孤独を再認識させてくれるのだ。
実は、この状態は正月も同じである。
即ち、どちらも家族団らんを謳い、恋人を強調する。
普段の日の生活では、一人で住んでいても、ほとんど寂しさを感じることはないし、やることもいろいろある。
だが、コマーシャルで家族の団欒や、恋人を強調されると、客観的に自分が置かれている環境を逆に意識させられるのだ。
ただ、正月は、酒を飲んだり、初詣に出かけるし、TVも楽しんだリするので、かなり気がまぎれる。
現在の状況よりひどい体験をしたのは、アメリカでのクリスマスだった。
英語学校のクラスメートやアメリカ人の多くが、自国へ帰ったり、故郷へ帰る。
店はほとんど閉まっていた。
仕方なく、大学のドミトリーに閉じこもっていた、寂しい年末年始だった。
若い時は、年末年始はスキーに行っていた。
母は、正月は家に居ろと反対していた。
当時はその意味が分らなかった。
確かに両親だけの正月というのは、寂しかったのだろう。
私とすれば、兄の一家が一日は、我が家に来るので問題ないではないかと思っていた。
今では、両親の思いも理解が出来るようになったが、どの答えが正解か分らない。
家族がいても、兄の看病に行った病院や、介護実習で行った特別養護老人ホームでは、様々な冷たい家族の姿を多く見た。
侘びさびや、無常観というわけではないが、所詮、多くの人間は孤独なのではないかと思っている。
街ではクリスマスケーキや、プレゼントが買われ、TVやラジオでもクリスマスを演出する。
私は、クリスチャンではないが、バロック音楽ではバッハの曲(例:マタイ受難曲)を始め多くの宗教曲があるので、音楽を深く理解する為、聖書を読んだこともあり、その他クリスマス関連の曲もいろいろある。
ある程度、クリスマスに関しては、理解はしている。
しかし、正月やお盆のように、私の生活に定着してないのでクリスマスはなんとなくしっくり来ない。
一時、クリスマスの本物の様子を見ようと、パイプオルガンのあるキリスト教の教会のクリスマス礼拝に参加したこともあった。
信徒の方々の熱心な祈りの態度を見て、尊敬の念を持った。
しかし、世間でのクリスマスの捉え方は違っていて、商業主義的なのだ。
私は、世間での商業主義的クリスマスにもなじめないし、かといって信徒になる気もない。
ところが、商業主義的クリスマスは、私のような独居人には、孤独を再認識させてくれるのだ。
実は、この状態は正月も同じである。
即ち、どちらも家族団らんを謳い、恋人を強調する。
普段の日の生活では、一人で住んでいても、ほとんど寂しさを感じることはないし、やることもいろいろある。
だが、コマーシャルで家族の団欒や、恋人を強調されると、客観的に自分が置かれている環境を逆に意識させられるのだ。
ただ、正月は、酒を飲んだり、初詣に出かけるし、TVも楽しんだリするので、かなり気がまぎれる。
現在の状況よりひどい体験をしたのは、アメリカでのクリスマスだった。
英語学校のクラスメートやアメリカ人の多くが、自国へ帰ったり、故郷へ帰る。
店はほとんど閉まっていた。
仕方なく、大学のドミトリーに閉じこもっていた、寂しい年末年始だった。
若い時は、年末年始はスキーに行っていた。
母は、正月は家に居ろと反対していた。
当時はその意味が分らなかった。
確かに両親だけの正月というのは、寂しかったのだろう。
私とすれば、兄の一家が一日は、我が家に来るので問題ないではないかと思っていた。
今では、両親の思いも理解が出来るようになったが、どの答えが正解か分らない。
家族がいても、兄の看病に行った病院や、介護実習で行った特別養護老人ホームでは、様々な冷たい家族の姿を多く見た。
侘びさびや、無常観というわけではないが、所詮、多くの人間は孤独なのではないかと思っている。