私が始めて海外に出かけたのは社長のお供だった。
お供といっても、日本からではない。
指定されたホテルで会うのだ。
確かミラノだったと思う。
約30年前会社に勤務していた時、突然技術的打合せや製品を見たりするため、社長と一緒にいくつかの会社を廻るというものだった。
そのときビザは持っていなかった。
大急ぎで戸籍謄本を取りに行き、パスポート申請に行った。
当時英語は、ほとんど喋れなかった。
英文も、辞書を使っても満足に読めない程度の、英語力だった。
それでも技術に関することは、そのときに取り扱っていた製品は、簡単な冷凍機器であったので、初歩的英語で
何とかできた。
何より、貿易部があったので、英訳は日本語で事足りた。
相手方の当時個人商社のイタリア人とは、技術打ち合わせを通じ顔馴染みだった。
イタリアを中心にいくつかの国と会社を廻る予定だった。
そのとき、社長は度々別行動をするので、その間顔馴染みのイタリア人A氏と同行することになった。
スーツケースを買い、旅行用品を買い、着ていく服や下着を揃え、カメラを用意し、大変だった。
とにかく、不安が一杯の海外旅行となった。
伊丹から、成田へブリティッシュエアーラインで行き、その後確かアンカレッジ経由でロンドンのヒースローに行きそれから、乗り換えて、確かパリ経由で、ミラノまで行った。
ブリティッシュエアーラインで、先ず伊丹―成田へ行く時のことだった。
富士山上空あたりで、乱気流に巻き込まれた。
機体が大きくガタガタと揺れた。
ミシミシと音がした。
恐ろしかった。
成田からアンカレッジ経由で北極経由ロンドンに行く時は、順調に飛行した。
隣のシートは、同じサラリーマンで、話をするとやはり同じ技術者だった。
そんな関係もあって、お隣さんとすっかり打ち解けて話をした。
ところが、同じ技術者でもレベルが違った。
話を聞くと、橋の設計をしていて、数キロメートルという大きな橋の設計をしているといい、設計上の話を分りやすく説明してくれた。
今から思えば、瀬戸内海の橋の関連だったようで、学会に行くような話だったと記憶している。
更に驚いたのは、彼の機内食の食事と振る舞いが非常に上品なことだった。
当時、大企業から、零細企業までいろんな営業マンや技術者とも会い、会食したこともあるが、これだけ上品に流れるように食事する人は見たことは無かった。
飛行機の中のやり取りは、すべて彼のお世話になり、作法も教えてもらった。
その後、ロンドンのヒースロー空港では、乗り継ぎ方法が分らす、ゲートの位置や移動ルートも分らず、英語の意味も分らないので、大変だった。
その上、時間待ちもありとにかく、一人で耐えた。
ミラノに着くまで、ストレスの連続だった。
空港について驚いたのは、警官が軽機関銃?を持っていたことだ。
到着ゲートでは顔馴染みのイタリア人A氏が出迎えに来てくれていて、彼の車でホテルにチェックインした。
そのホテルは、かなりいいホテルということだった。
無論部屋は、シングルだが申し分無かった。
窓の扉の、青緑色や建物のレンガの色や屋根にヨーロッパを感じた。
着いてしばらくすると、外が騒がしくなった。
窓から下を覗くと、石畳の路地の両側に多くの人が集まっていた。
マイクを持った人もいた。
A氏に聞くと、何でもイタリアでは有名な自転車レースという。
当時私は、ヨーロッパでは、ツールドフランスのように自転車レースが、非常に大きな国民的イベントとは知らなかった。
自転車が次々と入り、歓声が沸きあがった。
選手を、マイクを持った記者が取り囲んでいた。
私のホテルの部屋の真下でその光景が繰り広げられていた。
当時私は、奇妙な競輪があるのだなと思っていて、ここにいる人達は、競輪に掛け金をかけて、車券?を購入している人達と思っていた。
そのとき、その価値を理解していなかった。
猫に小判だったようだ。
お供といっても、日本からではない。
指定されたホテルで会うのだ。
確かミラノだったと思う。
約30年前会社に勤務していた時、突然技術的打合せや製品を見たりするため、社長と一緒にいくつかの会社を廻るというものだった。
そのときビザは持っていなかった。
大急ぎで戸籍謄本を取りに行き、パスポート申請に行った。
当時英語は、ほとんど喋れなかった。
英文も、辞書を使っても満足に読めない程度の、英語力だった。
それでも技術に関することは、そのときに取り扱っていた製品は、簡単な冷凍機器であったので、初歩的英語で
何とかできた。
何より、貿易部があったので、英訳は日本語で事足りた。
相手方の当時個人商社のイタリア人とは、技術打ち合わせを通じ顔馴染みだった。
イタリアを中心にいくつかの国と会社を廻る予定だった。
そのとき、社長は度々別行動をするので、その間顔馴染みのイタリア人A氏と同行することになった。
スーツケースを買い、旅行用品を買い、着ていく服や下着を揃え、カメラを用意し、大変だった。
とにかく、不安が一杯の海外旅行となった。
伊丹から、成田へブリティッシュエアーラインで行き、その後確かアンカレッジ経由でロンドンのヒースローに行きそれから、乗り換えて、確かパリ経由で、ミラノまで行った。
ブリティッシュエアーラインで、先ず伊丹―成田へ行く時のことだった。
富士山上空あたりで、乱気流に巻き込まれた。
機体が大きくガタガタと揺れた。
ミシミシと音がした。
恐ろしかった。
成田からアンカレッジ経由で北極経由ロンドンに行く時は、順調に飛行した。
隣のシートは、同じサラリーマンで、話をするとやはり同じ技術者だった。
そんな関係もあって、お隣さんとすっかり打ち解けて話をした。
ところが、同じ技術者でもレベルが違った。
話を聞くと、橋の設計をしていて、数キロメートルという大きな橋の設計をしているといい、設計上の話を分りやすく説明してくれた。
今から思えば、瀬戸内海の橋の関連だったようで、学会に行くような話だったと記憶している。
更に驚いたのは、彼の機内食の食事と振る舞いが非常に上品なことだった。
当時、大企業から、零細企業までいろんな営業マンや技術者とも会い、会食したこともあるが、これだけ上品に流れるように食事する人は見たことは無かった。
飛行機の中のやり取りは、すべて彼のお世話になり、作法も教えてもらった。
その後、ロンドンのヒースロー空港では、乗り継ぎ方法が分らす、ゲートの位置や移動ルートも分らず、英語の意味も分らないので、大変だった。
その上、時間待ちもありとにかく、一人で耐えた。
ミラノに着くまで、ストレスの連続だった。
空港について驚いたのは、警官が軽機関銃?を持っていたことだ。
到着ゲートでは顔馴染みのイタリア人A氏が出迎えに来てくれていて、彼の車でホテルにチェックインした。
そのホテルは、かなりいいホテルということだった。
無論部屋は、シングルだが申し分無かった。
窓の扉の、青緑色や建物のレンガの色や屋根にヨーロッパを感じた。
着いてしばらくすると、外が騒がしくなった。
窓から下を覗くと、石畳の路地の両側に多くの人が集まっていた。
マイクを持った人もいた。
A氏に聞くと、何でもイタリアでは有名な自転車レースという。
当時私は、ヨーロッパでは、ツールドフランスのように自転車レースが、非常に大きな国民的イベントとは知らなかった。
自転車が次々と入り、歓声が沸きあがった。
選手を、マイクを持った記者が取り囲んでいた。
私のホテルの部屋の真下でその光景が繰り広げられていた。
当時私は、奇妙な競輪があるのだなと思っていて、ここにいる人達は、競輪に掛け金をかけて、車券?を購入している人達と思っていた。
そのとき、その価値を理解していなかった。
猫に小判だったようだ。