散歩者goo 

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「坂の上の雲」や戦争証言を観てー戦死者数と、死者への思い

2011年12月04日 23時12分41秒 | ネットSNSマスメディア・情報マスコミ
坂の上の雲で日露戦争の203高地の戦いの実情の一端を知った。
2回の総攻撃で、日本側の戦死者は2万人以上の戦死者を出したという。
ドラマでは旅順攻撃はまだ続くので、犠牲者はもっと多いだろう。
2万人以上という数字は東日本大震災の犠牲者に近い。
原爆では何十万人と死に、第二次世界大戦の犠牲者は、更に膨大な数である。

ところが、個人的には、肉親や友人が死んだだけでも、とても悲しい。
たとえ犠牲者が一人でも、事故や病気で苦しみながら死ぬのを直接見なくても、話を聞いたりドラマを見るだけで、犠牲者の苦しみを想像したり、悲惨さや残酷さや恐怖を感じる。

ところが、戦争や、災害の数字だけ見ていると、悲しさ、苦しさ、悲惨さ、残酷さといった犠牲者に対しての、感覚や共感は麻痺するようだ。

それは、個々の死ぬ場面を見ていない事も原因だが、数字に置き換えたとたん、犠牲となった生身の人間に対して感情移入する感覚が無くなる。
そして、物理的に犠牲者の数という形で物体化するため、情緒的感覚が起きないのではないだろうか。
数字を使用すると、情緒や感情移入抜きに理性だけで判断する習慣が身についているようだ。

そんなことを戦死者の数について思いながら、そのままNHKスペシャル 証言記録 日本人の戦争 第2回「太平洋 絶望の戦場」を見た。

冒頭から、日本軍の人肉食を暗示する証言が飛び出した。
司令部から「敵兵はそれに当たらず(人肉食可)」といったチラシまで出ていたという噂を耳にしたという証言まである。
太平洋戦争当時、ニューギニア戦線での、人肉食の疑いは、何度か週刊誌等で話題になったような記憶はあるが、その話に近い内容の証言が聞けた意味は大きい。
戦争の持つ悲惨さや狂気が伝わる話だ。

このNHKスペシャルを観て、報道が覆い隠された事実を明らかにし、正確な証拠や証言で事実を伝えることで、視聴者がそのことについて考え判断するという姿勢は、絶対に必要なことであり、今後もしっかりと続けて欲しいと思った。
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神話を読む

2011年12月04日 16時35分34秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
先ほど古事記のダイジェスト版に目を通していた。
これからも少しずつ読むつもりだが、神話の物語も結構複雑だ。
最近、古事記の神話に関し多少興味を持ったので本屋で調べたら、古事記、日本書紀は、岩波のほんであるが、値段が高い。
それで、やむを得ずダイジェスト版の本を購入した。
図書館で借りることも考えたが、八百万の神と称されるとおり、日本の神々の名前は多いので、何かあるたび本を借りるのは不便なので思い切って買ったのだ。

なぜ日本の神々=伝承に興味を持ったかと言うと、考古学上の問題でたまに神社とか伝承の話も出てくるのだ。
決して、皇国史観になったわけではないし、基本的に考古学は唯物史観だし、私も基本的考えは同様である。(ただしマルキストではない。)

とある古代史・考古学関連の本のタイトルに「おおひるめのむち」=アマテラスが使われていたり、葬送儀礼に記紀の説話が背景として語られたり、古墳の名前と天皇の古い名前(諡<おくりな>でない)との関連が検討されたりすることも見かける。
こうしたことは学術的に重要かどうか別にして、一応知っておくべき事だろうと考えた。

更に、万葉集等を読んでもその精神世界の中に、神話は常識として入っているので、古代文学や、文献や祭礼を考える時には、詳しいことは知らなくても、おおよその神話のあらすじ程度は、知っておきたいと思っている。

同様な動機で少し前には、NHKテキストの「ギリシャ神話」<ルネサンス バロック絵画から遡る>も購入し読んでいる。<積読気味だが>
ルネサンスやバロック絵画の中にある寓意・マニエリスムを考えるときには、ギリシャ神話の知識を持たなくては全く意味が無い。
バロック音楽を聴き始めた頃、例えばバッハの曲に聖書と関連のある物語や一節が出てくる。
当時聖書を読んだことも無かったので、読んで少し理解できたりしたことも経験した。
聖書もある意味、神話の一種と考えられる。
このように神話と関連する事を理解する為には、神話のあらすじの理解はどうしても必要になる。

余談になるが、日本神話と考古学との関連性を見ると、吉備(岡山)、出雲(島根)、高千穂(宮崎)、には重要な墳墓や古墳が多くあって、神話は記紀編纂当時の藤原氏を中心とする勢力から見て過去の歴史を、自分たちに都合よく再編し神話化した、という見方をする専門家も多いようだ。
無論神話と考古学的事実とは、全く別物であることは言うまでもない。
その中心にある、卑弥呼登場前後のヤマト王権の実像を探ろうと、考古学の研究は、急速に進んでいるようだ。

このような訳で、ある程度知的好奇心の必要に迫られながら、古事記=日本神話の概要も知っておこうと思っている。
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ブログを書くことに集中し生活が変化(追)

2011年12月04日 11時03分35秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
最近ブログを集中的に書き始めて忙しくなった。
以前はブログは月に数本から、20本台程度だった。

最近は最低一日1本通常2本出来れば4本以上書くことを目標にしている。
その目的は、純粋に経済的なもの、即ちアフェリエイトやネットショップをうまく軌道に乗せる為である。

では、ネットショップやアフェリエイトを運営しているかといえば、運営はしていない。
形式上は、ネットショップは、現在影も形も無いく、アフェリエイトは登録したままで、今どのようになっているのか、自分でも分らない、
多分アフェリエイトを再開するとなると、位置から手続きが必要なように思う。
ネットショップは数年前自分でフォームを作り商品をHPに掲載したが、知人の人が購入してくれただけで、実質成果は無かった。

では、こういう状況で、なぜ商業目的に利用するためブログをせっせと書くのか、という疑問があるだろう。
客観的に見れば笑い話であるが、ブログの読者層を増やし、それを自分のショップやアフェリエイトに誘導しようという魂胆である。
なぜ笑い話かというと、そういった手法はネットビジネスの初歩の初歩で皆やっていて、当然のことであるが、通常は、ショップを作り、アフェリエイトのターゲットを定め、その目的にマッチした集客手法の一つとしてブログを使うのである。
集客手法には、簡単に読者が大量に得られ、数打てば当たる式の、ツイッターやフェイスブックを利用するのか効果的と見られている。
実際、ツイッターでは、読者登録(フォロー)しやすいので読者数数万人というのは当たり前である。
フェイスブックでも、お友達が千人前後の人もよく見かけるようになったし、フェイスブックもやがてツイッターに近くなるのではないかと思っている。

このような視点から見ると、文字数の多いブログで読者層を増やして商業目的にリンクさせるというブログの営業効率は非常に悪いといえる。
しかも、私のブログはやたら文章が長く、テーマも政治経済といった硬い物が多く、政治経済や宗教といった物は、営業トークでは、良くないとされているもので、営業に不向きである。
営業的話題には、個人的な思想信条や考え方を刺激し議論になる話題を避けるというのが常識だ。
従って、私の現在やっているブログ制作は、全く目的に合っていないと言える。

ブログの読者獲得法には、いくつかの定石があることは、一応講座等で学んでいる。
例えば、写真やイラストを入れたり、短かく平易な文章が、読者獲得に効果的であることは百も承知だ。
実は、前のブログ「村ぶろ」開始の動機も同じ営業目的であったが、全く成功してなかった。(村ぶろにも今書いているのとよく似た記事を投稿したような記憶がある。)

それなのに、なぜ趣味のブログになるのだろうか。
多分自分が、自己表現をしたい動機が強く、書く内容にも興味を持つため本来の目的を忘れ暴走するのだろう。
今の、状態を見れば、書く事は大変だが、自分にとっては営業以上に面白いので、今のまま続けたいと思う。
当然自己表現の中には、様々な段階があるが、既に私には失う物もないので、内面や私生活もさらけ出しつつある。
読者がどう捕らえるかは分らないが、自分の心情や考えを言語化・文字化することにより、更に考えも整理され自分自身を見つめなおしたり、自信を持ったり、今後の方向性を見出すことが出来、自分にとって必要な行為なのかも知れない。
他人の目を意識しながら、波風立てず小さく生きるのは、好きではない。限られた人生のびのびと生きたい。
(無論他人に無用な迷惑をかけながら生きることは、論外である。)
その意味で、今後ともこのブログのスタイルは残すだろう。

商業目的とブログとの関係や、他のメディアとの展開等は今後試行錯誤しながら考えたい。
それ以前に、肝心のショップやアフェリエイトが出来ていないのは論外であろうし、(先に店を作ってから集客努力をするのが順序だ)その戦略=手の内を読者にバラスことも営業手法から見れば禁じ手である。

とにかく理由はどうあれ、今回1日1本から3本のブログを義務的に書き始めて、生活に大きな変化があった。
やたら忙しくなったのである。
今まで家でごろごろし、TVを見て居眠りする時間が無くなったのだ。

ブログを書くのに、先ずテーマ探しが一苦労だ。
政治経済や、健康や歴史考古学や自然科学等の学術的なことが絡む場合は、下調べが大変で、ネットで調べるだけでもかなり時間を食う。
この記事のように成り行きで思いつくまま書くと、このようにダラダラとメリハリの無い、一杯飲み屋での酔っ払いの会話のような長文になり、話の焦点もどんどんずれ、結論が無い状態になりやすい。
(このような文章に、お付き合いしていただける人は、ほとんどいないだろうと分っていながら今もキーボードを打ちながら、いわゆる筆を進めている。その意味で明らかに当初の目的=営業利用で業績を上げる形にすることに反した行為だ。)

又、うろ覚えで書くと、後で誤りの訂正で大修正をすることになり、何本かのブログではそんなことがあった。
文章を書くときも、PC上で、自分の書いた記事を再度読み直し、句読点の位置や、誤字脱字の消去・コピー・貼り付け等の修正をしたり、文脈や文の接続やつながりや表現のおかしいところを修正するのに、大変な時間がかかる。

私の書いたブログの多くは、丁寧に見直すことなくそのまま投稿したものが多いので、後で見て、誤りの多さに気付くことが多いが、修正に時間がかかるので、そのまま放置してあるブログも多い。

このようなわけで、書くことに時間がかかり過ぎ、本を読んだりTVを見る時間が少なくなった。
その代わり、タイピング速度は、少し上昇したようで、今までより早くブラインドタッチも出来るようになった。

今回の反省を機に、前にも述べたようにブログやSNSの商業利用を改めて考えてみたいが、今のブログスタイルはそのままにして、そのなかに営業用のもの(パーツ)を、ブログの目障りにならないように追加する方法を考えてみたい。
商業利用は、主にSNSで展開しようと思っている。
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12月3日(土)のつぶやき

2011年12月04日 01時35分01秒 | 携帯メール投稿・つぶやき twitter
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