物事を判断する場合一部の情報だけを取り上げて、ステレオタイプ的に判断するのは危険だと思う。
科学の世界は、すべて誤りか、正解かの2種類の結論しかない。
事実に合わなければ、その理論は間違っている。
しかし人間社会の出来事に関連する全てに関しては、右から左、上から下、反対から賛成まで様々な段階の答えが存在することがほとんどで、絶対ということはないと思う。
その理由は、判断基準となる価値観が存在する為だ。
どの価値観で観るか、考えるか、どのパラダイムに立つかで、座標軸が変わる。
例えば、競争第一・自由第一を主張する人もいれば、平等第一を主張する人もいる。
安全の確率を100%達成できなければいけないという人もいれば、いくらかの確率で犠牲者が出ても全体に影響しなければ、経済を優先すべきという人もいる。
それらの違いは、価値観の違いである。
自然科学は、データは出すが、そのデータに、良し悪しは無い。
科学で使用できるデータは、正確に結果が出ているデータだけで、科学的には不正確なデータや改竄されたデータは、価値が無い。
そのデータを採用し判断するのは、人間であり、その採用や判断基準は個人なり組織の価値観によるのである。
判断以前に、個人や組織の価値観によって、都合の悪いデータを採用しなかったり、隠したりする場合もある。
判断の基準値は価値観で決まるのである。
例えば、放射線の低線量の基準値の決定もその例である。
ところで価値観の決定は、何によるのか。
それこそ、政治の問題なのである。
更に主観や感情や宗教が入ると、合理的判断を妨げる場合もあり、偏見や差別や征服欲が影響する場合もあるし、また弱者を救う場合もある。
ある意味、価値観の暴走や衝突を合理的に防ぎ利害調整するのが政治の働きである。
価値観による意思決定の手法(組織としての価値観の決定)は政治体制により変わる。
独裁体制やワンマンな組織では、幹部の価値観が判断基準として強制sれる。
民主主義体制では、政治は価値観の戦いで、民主主義を採用している国では、出来るだけ多くの人を納得させ、自分の価値観に賛同する人を増やそうという行為が政治なのだ。
ところが、主観や感情が優先され、科学データと、価値観の問題をすり替え、数字だけが一人歩きし、絶対視される場合も多い。
そうした状態の場合、情報遮断し反対情報を見ない場合も多く、思考停止している場合もある。
ことの善悪を判断する場合、価値観を明確にしてから、正確な科学データで判断基準を決めなければならない。
価値観の中には、経済性も含まれる。
経済性も客観的な価値観抜きの科学的指標は出る。
飛行機や車や鉄道のみならず、原子力を含め、全ての工業製品は、故障がつき物である。
絶対故障しない乗り物や工業製品を作ることは不可能だ。
工業製品は、全て危険性と利便性=経済性との関係で、製品化するかどうか決定されている。
その選択は価値観によるのだ。
価値観の参考資料として、市場性・ニーズも使用される。
製品化しても、事故が多ければ、ニーズが無い=価値がないとして作らないであろう。
また、万一事故が起きれば多くの人の人命にかかわったり、長期にわたり深刻な病気になる場合も、ニーズはなくなる。
ただそれでも、金儲けしたい人もいる。
製品化するかどうかは価値観のみで決められ、科学的考えからは離れる問題である。
原発問題は、まさに価値観の問題で、人命とコストとの関係である。
ポリオ生ワクチンもある確率で必ず生じる犠牲者の数を、どう観るかは価値観そのものだ。
基本的には、犠牲者を極力少なくすることには誰も依存が無い。
ただ、ポリオが日本に存在していた時と、日本から無くなった時とでは、ワクチンによる被害者の数に対する価値観は多くの人で、大きく変化するであろう。
価値観は通常多くのベクトルが存在する。
例えば、原発問題を見る場合、経済性一つとってもランニングコストや建設コストや廃炉コスト補償費や自治体への交付金・・・・様々な要素がありどれを含めるのか、全て合算するのかまたは、どれを含めるのかは価値観の問題で、その詳細を議論する前に、それぞれの価値観の違いを明らかにし、その上で判断基準の構造や枠組みを共通にしない限り、議論はすれ違い不毛の物となる。
低レベル放射線の影響と基準値を決める場合も、どの種類のデーターを採用するのかで違う。
議論をする場合、価値観を確認してから議論すると、感情的にならずに相手の価値観の問題点を指摘しやすい。
科学の世界は、すべて誤りか、正解かの2種類の結論しかない。
事実に合わなければ、その理論は間違っている。
しかし人間社会の出来事に関連する全てに関しては、右から左、上から下、反対から賛成まで様々な段階の答えが存在することがほとんどで、絶対ということはないと思う。
その理由は、判断基準となる価値観が存在する為だ。
どの価値観で観るか、考えるか、どのパラダイムに立つかで、座標軸が変わる。
例えば、競争第一・自由第一を主張する人もいれば、平等第一を主張する人もいる。
安全の確率を100%達成できなければいけないという人もいれば、いくらかの確率で犠牲者が出ても全体に影響しなければ、経済を優先すべきという人もいる。
それらの違いは、価値観の違いである。
自然科学は、データは出すが、そのデータに、良し悪しは無い。
科学で使用できるデータは、正確に結果が出ているデータだけで、科学的には不正確なデータや改竄されたデータは、価値が無い。
そのデータを採用し判断するのは、人間であり、その採用や判断基準は個人なり組織の価値観によるのである。
判断以前に、個人や組織の価値観によって、都合の悪いデータを採用しなかったり、隠したりする場合もある。
判断の基準値は価値観で決まるのである。
例えば、放射線の低線量の基準値の決定もその例である。
ところで価値観の決定は、何によるのか。
それこそ、政治の問題なのである。
更に主観や感情や宗教が入ると、合理的判断を妨げる場合もあり、偏見や差別や征服欲が影響する場合もあるし、また弱者を救う場合もある。
ある意味、価値観の暴走や衝突を合理的に防ぎ利害調整するのが政治の働きである。
価値観による意思決定の手法(組織としての価値観の決定)は政治体制により変わる。
独裁体制やワンマンな組織では、幹部の価値観が判断基準として強制sれる。
民主主義体制では、政治は価値観の戦いで、民主主義を採用している国では、出来るだけ多くの人を納得させ、自分の価値観に賛同する人を増やそうという行為が政治なのだ。
ところが、主観や感情が優先され、科学データと、価値観の問題をすり替え、数字だけが一人歩きし、絶対視される場合も多い。
そうした状態の場合、情報遮断し反対情報を見ない場合も多く、思考停止している場合もある。
ことの善悪を判断する場合、価値観を明確にしてから、正確な科学データで判断基準を決めなければならない。
価値観の中には、経済性も含まれる。
経済性も客観的な価値観抜きの科学的指標は出る。
飛行機や車や鉄道のみならず、原子力を含め、全ての工業製品は、故障がつき物である。
絶対故障しない乗り物や工業製品を作ることは不可能だ。
工業製品は、全て危険性と利便性=経済性との関係で、製品化するかどうか決定されている。
その選択は価値観によるのだ。
価値観の参考資料として、市場性・ニーズも使用される。
製品化しても、事故が多ければ、ニーズが無い=価値がないとして作らないであろう。
また、万一事故が起きれば多くの人の人命にかかわったり、長期にわたり深刻な病気になる場合も、ニーズはなくなる。
ただそれでも、金儲けしたい人もいる。
製品化するかどうかは価値観のみで決められ、科学的考えからは離れる問題である。
原発問題は、まさに価値観の問題で、人命とコストとの関係である。
ポリオ生ワクチンもある確率で必ず生じる犠牲者の数を、どう観るかは価値観そのものだ。
基本的には、犠牲者を極力少なくすることには誰も依存が無い。
ただ、ポリオが日本に存在していた時と、日本から無くなった時とでは、ワクチンによる被害者の数に対する価値観は多くの人で、大きく変化するであろう。
価値観は通常多くのベクトルが存在する。
例えば、原発問題を見る場合、経済性一つとってもランニングコストや建設コストや廃炉コスト補償費や自治体への交付金・・・・様々な要素がありどれを含めるのか、全て合算するのかまたは、どれを含めるのかは価値観の問題で、その詳細を議論する前に、それぞれの価値観の違いを明らかにし、その上で判断基準の構造や枠組みを共通にしない限り、議論はすれ違い不毛の物となる。
低レベル放射線の影響と基準値を決める場合も、どの種類のデーターを採用するのかで違う。
議論をする場合、価値観を確認してから議論すると、感情的にならずに相手の価値観の問題点を指摘しやすい。